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ロック史#6 : ヒッピー衰退と原点回帰



学校が始まると投稿ペースが減りますな…。


前回はこちらから。

60年代の後半は英米でヒッピー・ムーブメントが起こり、ドラッグの蔓延によるサイケな作品がロックの可能性を広げました。


今回は1970年前後のお話。


ロックの起源に立ち返る


サイケブームと同時に、ロックの起源であるブルースやカントリーに回帰しようとする動きが起きます。

バーズは68年に加入したグラム・パーソンズの提案によって、サイケからカントリー・ロック路線に変更します。

カントリー・ロックの代表的なアルバム『ロデオの恋人』収録のこの曲は「Mr. Tambourine Man」と同様ボブ・ディランのカバー。サイケの混沌とした雰囲気はどこへやら。

他にもグレイトフル・デッド、ニール・ヤング、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルらへんもこの路線。

ザ・バンドの代表曲。
ステイプル・シンガーズが客演したこのテイクはいくらなんでも絶品。

ローリング・ストーンズも、サイケから本来のブルース・ロックに復帰。67年『サタニック・マジェスティーズ』の酷評から一転、翌年『べガーズ・バンケット』で再び名声を得ます。

これらのブルースやカントリーに立ち返るロックはルーツ・ロックと言ったりもします。

ビートルズも69年、ロックンロールに回帰した"ゲット・バック・セッション"を敢行しました。


オルタモントの悲劇


ヒッピー = 愛と平和、の象徴と讃えられたウッドストック・フェスティバルから4ヶ月後、悲劇は起きます。

69年12月6日、米カリフォルニアで行われたオルタモント・フリーコンサート

ローリング・ストーンズ主催で、サンタナ、ジェファーソン・エアプレイン、フライング・ブリトー・ブラザーズ、クロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤングも出演しました。

無料開催とセキュリティ皆無で、会場は麻薬フェスと化した異空間に。愛も平和もクソもなく、とても音楽に集中できるような状況ではありません。カオスすぎ。

最悪なのが「Under My Thumb」の演奏中に、乱闘を起こした観客の18歳の黒人が警備係に刺○される、という前代未聞の事件が発生。

ようやく人々はこれは平和じゃないと気付いたようで、70年にジミヘンとジャニスというヒッピーを音楽で牽引した2人が亡くなったこともあり、ヒッピー・ムーブメントは衰退を迎えます。


70年といえば、ビートルズの解散も大きな出来事でした。うぅ…


番外編 : ジャズとロックの接近


ロック史とは少し逸れますが。

ジャズを基盤に情熱的なアプローチを行ったソウルから発展し、リズムを強調したファンクが60年代半ばから登場しました。

ファンクで人気の頂点に達したジェームス・ブラウンをはじめ、人種混合のスライ&ザ・ファミリー・ストーンは白人に受けるロック要素を取り入れました。


ジャズ界の巨匠マイルス・デイヴィスは『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』で、ジャズにロックなど他ジャンルの要素を組み込んだフュージョンを編み出しました。


モータウン所属のマーヴィン・ゲイがセルフプロデュースで挑んだ『ホワッツ・ゴーイン・オン』は、ソウル・ミュージックで初めてのコンセプト・アルバムとなり、黒人音楽にロック由来のアルバム主義を広めることに成功しました。


日本のロック最初期


今回から、日本におけるロック史も微かな知識ですが何とか頑張って書いてみます。

60年代、ベンチャーズの影響でエレキが流行ったこと、ビートルズの影響でグルーブ・サウンズが流行ったことなど、それまでに重要なムーブメントはあったかもですが。割愛。

それよりもアングラな姿勢で挑んだミュージシャンが日本のロックに直結していると考えます。

例えばザ・フォーク・クルセイダーズやジャックスは、一線を画す音楽性を持っていました。

68年にしてテープの早回しに挑戦。
アングラといいつつ大ヒットしましたけど。

はっぴいえんど

HAPPY END (1969-1972)

左から
鈴木茂 (ギター、ボーカル、作曲)
松本隆 (ドラムス、作詞)
大瀧詠一 (ボーカル、ギター、作曲)
細野晴臣 (ボーカル、ベース、作曲)

日本語のロックを確立させたレジェンド4人。
なんだかんだ避けて通れない『風街ろまん』。

正直初めて聴いたときピンと来なかったけど、時代に沿って改めて聴くと完成度レベチ。

歌謡成分ゼロの完全ロックなサウンドにも関わらず、日本の風情を感じさせるのが不思議。


今回はここまで。

次はハードロック/ヘヴィメタルの紹介です。


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