音楽における商業性③
少し誤解を招くようなタイトルなので、ここで説明を入れたいと思います。
「商業性」が悪い響きに聴こえるような気がするので。
「評価」されているのに「商業性」を失った作品はいくらでもあります。
日本のクラシック界なんていい例でしょう。
「商業性」はまるでゼロに近い(ゼロではない)。
でも現実問題としてそれは「評価される作品」として取り扱われる。
聴くのは「マニア」だけなのに。
クラシックが好きな方でも、実際に評価しているのは、相当前に制作された作品です。
むしろ新しい試みは「外道扱い」されることの方が多い。
海外作品でもそんな状況なのに、日本人の演奏なんて「箸にも棒にも掛からない」存在になっていてもおかしくない。
実際問題として、この認識は間違っていないと考えています。
はっきり言って「商業的」に成り立っている方は極めて少ない。
では何故、それでも生き残っているか。
それは「国家」が「庇護」しているからです。
ほとんどが「国」の補助金を使って成り立っているだけ。
もちろん直接的に補助金を出している訳ではありません。
ただ、この体系の維持に費やしている金額は相当なものです。
例えば東京藝術大学に出している補助金、結構な金額です。
しかも「日本国政府」だけでなく、民間団体もそれなりに補助金を出している。
やはり音楽系学府としては日本で最上位ですから。
でもこれが正常な姿なのか、というと違うような気がします。
それだけの価値があるものであれば、支えようとする人はいるはずなんですよ。
ただ、クラシックという、今では「マニアック」なジャンルがやはり教育の主体。
しかも「新しいもの」はほとんど生み出していない、過去に依存しているものです。
こんな所にダラダラと金出すなら、もっといい使い道はあるでしょう。
でも、そういうことは起こらない。
むしろ無くなった方が健全かもしれません。
音楽教育って将来の人のためにやるものです(本来「教育」というものはそうあるべきものです)。
あの大学に「ジャズ専攻」とかあれば良くなるのかもしれませんが。
あ、でもそういうものを作ったところで、何も生み出さないでしょうね。
きっと「古典的」なジャズしかやらないでしょう。
お金の出してからしたら、そして受け取側にとっても、やはりそれが安全策なんですよ。
無駄遣いと言われないためには…。
でも、このお金、元は「税金」なんですよね(笑)。
これが音楽が「商業性」を失わった結果です。
まあ自分が税金の使い道決められたら、こんなことには一切ださないでしょうね。