逆転合格した話 (前編)

僕の大学受験。それは東京大学理科一類への現役合格という結果を残した。
なぜ僕が東大を目指したのか。何が奇跡の逆転合格だったのか。
今回は、自分の人生を変えた高校受験と大学受験の話をする。

まずは前編として、高校受験の話。



全ての始まりは、僕が中学3年生の時だった。

四国の徳島という田舎に生まれ、小中と地元の学校に通った。比較的優秀な人が多い学校だった。自分の成績も上位1割くらいには入っており、「僕は頭がいいんだ」と思い込んでいた。

そんな時にやってきたのが高校受験。自分の中学は中高一貫というわけではなく、自分で行きたい高校を選んできちんと受験をする必要があった。多くの人は、県内のいくつかある進学校に行くのが一般的だった。僕もそうなるかな、と思っていた。



しかし、そんなところにある話が。

「難関校を受験してみないか」

当時自分が通っていた塾での話だった。毎年、優秀な生徒を県外の難関高校に連れていき受験をサポートする。受験合宿?のようなものが行われているらしい。

その塾には同じ中学の優秀な友人が集まっていた上、自分は頭がいい方だと思っていたので「合宿みたいで楽しそうだし行こうかな」くらいの気持ちで、友人らと一緒にいろんな高校に受験に行った。この決断がのちに東大受験につながるとは、思いもしなかった。



1校目:愛光高校 (愛媛)

四国の中ではトップの高校だと思う。1月、愛媛県の山奥までバスで行った。思ったよりも周りに何もないところで、とても寒かったのを覚えている。この時一緒に受けに行った人は10人以上いた。僕は受かってもあまり行く気はなかったが、周りには「愛光に絶対行くんだ」という思いで受けている人もいた。




結果、合格。

まあよかった。気持ちはそれくらい。友人も8割くらいは受かっていて、落ちた人はとても悔しがっていた。

「自分は受かった、よかった、彼らより頭がいい」

僕はそんなふうに思っていた気がする。ひどい話だ。表には出さないけど、ちょっとした優越感を感じていた。



2校目:ラ・サール高校 (鹿児島)

知ってる方も多いのではないだろうか。バスや電車、新幹線を乗り継ぎ、はるばる鹿児島まで受けに行った。この時一緒に行ったのは僕を含めて5人。初めて新幹線に乗り、そして降りた時に初めて陸酔いを経験した。そのせいで、前日のホテルでは頭がずっとぐわんぐわんしていて、思ったように勉強できなかった。また、帰りの新幹線では化学オタクの友達と一緒に元素表を全部覚えた。バカだったけどとても面白かった。(ちなみに最近思い出そうとしたらランタノイド部分の記憶が消えてた)




結果、合格。

まるで旅行のように受けに行ったが、合格していた。それも5人全員合格だった。

よかった。というかまあ受かって当然だろ。それくらいの気持ちだった。
そしていよいよ、最後の難関校がやってきた。



3校目:灘高校 (兵庫)

日本のトップと言ってもいいのではないだろうか。僕も灘だけは、受かったら行ってもいいな、という気持ちだった。さすがに合格を蹴るのはもったいないので。この時はラ・サールのメンバー + 1人の6人で受けに行った。自分の中学、自分の塾の精鋭6人という感じだった。僕も勝手に最強6人組だな〜とか思っていた。
試験の方は、やはりトップの高校だけあって一番手応えを感じた。






結果:不合格。



不合格。人生で初めて突きつけられた3文字。涙なんか出るはずもなく、ただ茫然としていた。


俺が、、落ちた、、?


そんな気持ちだったように思う。
ここまで読んでくれた皆さんならわかるだろう。ラ・サール合格まで自分はずっと調子に乗っていたのだ。灘は容赦無くそんな自分をへし折ってきた。

その後、親にめちゃくちゃ怒られた。なぜもっと勉強しなかったのか、と。いや知るかよ。僕の心には何も響かなかった。自分が落ちるはずがない。自分には合格しかない。そんなふうに思っていた人への不合格という文字は重すぎて、しばらく気を病んでいた。


そういえば同志たちはどうだったのか。なんと全滅。6人全員落ちた。僕はびっくりすると同時に少しだけ安心した。劣等感を感じずに済んだのだから。


ただ、点数開示をすると、状況は一変した。

点数は、6人中最下位。一番合格とかけ離れていた。さらに、一番高かった人は合格まであと1点という点数だったらしい。僕は、幼稚園からの幼なじみだったそいつに対し「めっちゃ惜しいやん!すご!」と言いながら心の中で泣いた。そのシーンは今も鮮明に覚えている。



極大の劣等感に苛まれながら、僕は地元の進学校の受験を決め、準備を始めた。
そしてあっけなく合格した。数学と社会が満点だった。

最終的に自分はその地元の高校に進学し、僕の高校受験は幕を閉じた。





なぜ東大を目指したのか。それはこの灘の受験がきっかけだった。


前述した通り、僕はそれまで調子に乗っていたので、受験する前から灘に受かっているつもりだった。灘という新しい環境で優秀な人たちと切磋琢磨し、難関大学に流れるように合格していくんだ、と。なんとなくそんなビジョンをずっと頭に持っていたんだと思う。

でも実際のところ、僕は世界を全く知らなかった。狭い環境で「自分は頭がいいんだ」と過信していただけだった。井の中の蛙ってやつ。不合格を通じて、自分の愚かさ、弱さを自覚した。

たぶん自分は、とてもとても悔しかったんだろう。"たぶん"と書いたのは、自分自身も灘不合格からの記憶が曖昧だからだ。それほど病んでいたんだと思う。灘からの東大、そんな未来を勝手に妄想してしまっていたからこそ、理想を打ち砕かれてへし折られて、めちゃめちゃ悔しかったんだと思う。
そして最後に、僕は思った。


「だったらもう1回勝負してやるよ」と。



高校1年生として地元の高校に入学した時、すでに頭の中には東大受験があった。高校入って初めての進路希望調査に東大理一と書いたのも覚えている。


灘不合格の悔しさをバネにして、僕の3年間の東大受験の物語が始まった。




後編に続きます。ここまで読んでくださりありがとうございました。