【半生記】第一作 「魂」
第1章 うつ病
29歳…俺はうつ病になった。
2006年12月。
会社のトイレで、治まらない吐き気と止まらない涙に苦しんでいた。
誰にも見られたくない。
誰とも居たくない。
1人になりたい。
震えが止まらない。
その異変は、会社にいる限り続いていた。
胃が痛むのはいつからだ。
煙草を吸うと、吐いてしまいそうなのは何故なんだ…。
誰もいない朝のショールーム。
壁に手をあて支えながら歩き、手すりにつかまりながら階段を下りていく。
そしてスタッフが出勤してくる時間には、見つからないようにトイレへ隠れる。
わずかながらの義務感が、任されている仕事が片付くまでは耐えるしかないという気持ちを、働かせている。しかし、自分のデスクに戻ることができない。
「やらなければならない」と、何度も自分自身に言い聞かせた。
朦朧としながらデスクに戻る。どうにか作業の準備を完了させて、閉館後の作業現場へと向かった。
この仕事は、深夜まで作業に追われる事が多い。この時ばかりは果てしなく長い夜に思えた。どんな状況下にあっても、この作業だけは集中力を高め、神経をすり減らし、何より情熱を持って取り組んできた。しかしその日に限っては、機械的な作業をすることしかできなかった。仕事が終わり外に出ると、俺は身も心も漆黒の闇に包まれていた。
翌朝、一睡もできずに出勤し、朝から慌ただしく仕事に取り掛かった。すると、ひと息つく間もなく突発的な仕事が発生した。それはいつものこと。突発性が多いのは、その仕事の売りでもある。いつもならば、たいした事ではない。しかしその時ばかりは、絶望という大きな穴に放り込まれた気分であった。トイレにこもり、吐き気に襲われる。そして閉館時間になり、作業現場へと向かう。辛い。ただただ、辛かった。
次の休日、病院へ行った。
ここ最近、とにかく胃が痛む。
その年の春に比べ、体重は15㎏減っていた。
「とにかく、この状況をどうにかして欲しい」
初対面の院長に向かって、ここ最近の苦痛をすべて吐き出した。
俺の目を見つめ、穏やかに話しを聞いていた院長が、ゆっくりと口を開いた。
診断結果は、うつ病。…俺が?
先日、うつ病に関する漫画を読んだばかり。
細川貂々さんが描いた「ツレがうつになりまして」という作品だ。
まるで他人事のように感動した漫画が、その日からの助けとなり、教科書になっていった。そこにも記されているが、うつ病は神経の伝達物質が減少することによって引き起こる。医者はストレスと睡眠不足が大きな原因と言った。
10年、いや15年近く、ぐっすり眠れた記憶がない。原因が判明したことで少し落ち着きを取り戻せたのだが、うつ病であることや通院しなければならない現実を受け止めきれず、孤独と不安が急に押し寄せてきた。
「この先どうなるのだろう…」
翌日、会社で上司に報告をした。
健康な人間からしてみれば、一種の病気。だが俺にとっては一大事であった。普通に仕事ができない。すべてを拒んでいる。あと数日もすれば会社も年末年始の休みに入る。それまでは頑張るしかない。上司から不定期で訪問するカウンセラーと面談することを提案されたが、気が進まなかった。何故だかわからないが、突き放された気分になったのだ。
悲鳴をあげた心と身体。すでに限界は超えていた。出社してもトイレに引きこもるしかなく、迎えた年内最終日。集団の中にいることが耐えきれなかった俺は、閉館後の終礼に参加していたが、あまりの辛さにその場を立ち去り、職場を離れた。 他人のせいにはしたくなかった。すべては自分の問題なのだと。しかしその意識が心と身体を苦しめ、自分を壊していく…。
真っ暗な自分の部屋。
ベッドの中で、得体の知れない物との戦いが始まった。
突如として襲ってくる不安。動悸。それを過呼吸だと知ったのは数年も後のこと。
自分の中に何かがいるようだ。
そいつに、真っ暗闇で息もできない絶望的な空間へ、引きずり込まれてしまう。
魔物…俺の中に魔物がいる。
悩んでいる問題が二つあった。今は考えるべきではない。しかし、それが自分を苦しめているのだと、どこかで気づいていた。後でわかる事だが、それは決して間違っていなかったと言い切れる。
年が明けたことすら自覚できず、2007年になってからも苦しみ続けた。
食欲がないため何も食べず、少しばかりの水分を取る。
真っ暗な部屋で、煙草を吸い続ける。
「何も考えず、ひたすら睡眠をとること」
医者の言葉を信じるしかなかった。目を開けていようが閉じていようが、そこにあるのは闇。暗闇しかない。そして突然襲ってくる魔物。今考えれば、それは過呼吸という症状なのだが、その時には魔物と捉えていた。何も考えないようにしても、何かを考えてしまう。
もうすべてがわからなくなっていた。何故、今ここに自分が存在しているのかを考え始めたら、魔物は当然のようにやってきた。そして、自分の存在が矛盾していると、すべてを否定する。気がつけば笑うということができなくなっていた。
テレビから流れる映像や音が苦しい。お気に入りの映像を流し続けたが、目にも耳にも入らない。そこで、好きな音楽を聴き始めた。この時期ぐらいから、涙がこぼれ始めるようになった。魔物と戦っているときは、苦しすぎて涙も出なかった。しかし、涙を一度流し始めると止めることができない。
三日三晩泣き続ける。疲れる。眠る。起きる。煙草を吸う。悩む。そして現れる魔物…。戦い終わって泣いた後に、細川さんの漫画を開く。あとがきには、うつ病になった著者の夫である、ツレさんの言葉があった。
「夜は、必ず、明ける」
俺はその本を拝むように両手で閉じて、泣き崩れた。
そんな戦いを繰り返していたある日、部屋を掃除することができた。何も出来なかった日々からすれば、これはすごい出来事なのだ。情けないと自分を卑下すれば、魔物は再び現れる。少しではあるが自分を褒めた。そして、ノートに自分の思いを言葉にして書き殴ってみたのだが、自分の良いところが書けない。見つからない。それは前からわかっていたことではあるが、改めて落胆した。
それから数日後、薬が効き始めていることもあり、魔物が現れる回数は少しずつ減ってきていた。そしてふと、何かしたいと思うようになる。以前から、四国お遍路に興味があった。しかし、この状態と時期ではとても危険だ。護摩行や座禅というような選択肢もあったが、調べていくうちに秩父三十四札所巡礼を見つけた。この巡礼に何かを求めて、やってみたいという気持ちが強くなった。「真冬に巡礼は厳しい」という意見もあった。しかし「今やらなければならない」という使命感が勝り、徒歩ではなく、バイクで巡礼することを決心した。
凍結も解除されていない真冬。晴れの予報に飛び出した旅は、奇跡的に春のような気候に恵まれた。「魔物がいつ現れるかわからない」という不安を抱えながら、愛車のバイクに跨り、秩父へと向かった。
第2章 秩父巡礼
関越道に入り、久しぶりに乗るバイクを心地良く感じていた。だが、厚着してきて正解であったと思う。やはり真冬のバイクは寒い。孤独。そう、俺は孤独なのだ。
会社で大勢の人達と一緒に仕事をして、仲間達と過ごした楽しい時間が、遠い昔のように感じる。今は運転に集中しよう。うつ病を患っているだけでも、危険なのだから。陽の光り、自然の緑がとても気持ちいい。この病気には、日光を浴びるのが効果的らしい。この旅でたくさん浴びることにしよう。
花園ICを出て、コンビニに立ち寄る。
バイク旅では、コンビニ休憩をマメにした方が良いと教わった。
ホットドリンクを買い、頬にあてる。ツーリングマップルで道を確認する。
本当に不安でいっぱいだ。目指すは札所一番。この旅で、何度も「バイク旅で迷子はつきものだ」と、呟いた。今は人生の迷子なのだから…。
長瀞を抜け秩父に入ると、記念すべき一回目の迷子になった。普段、車でカーナビに頼っていては方向感覚が鈍くなる。景色、陽の高さ、看板、そして詳細のない地図。それらで旅は深まるのだ。
ようやく一番目の札所に到着した。観音堂で手を合わせ、こう呟いた。
「悩んでいる問題の答えと、自分自身という人間が見つかりますように」
納経帳を購入した。巡礼旅では、各札所の納経所で御朱印をもらう。初めてもらった御朱印を、しばらく眺め続けた。正式な巡礼方法もあるようだが、一番から三十四番まで順番に回ることだけを決め、秩父巡礼を開始した。
二番目の札所。遠くに望む山々が、とても美しい。ひとつ深呼吸をして、観音堂へ向かう。人の気配がない。手を合わせ、辺りを見渡していると、他の巡礼客がやってきた。すると納経所は他の寺にあること、その寺までバイクで行くには、険しい道であることを教えてくれた。巡礼をする魅力のひとつに、人との出会いがある。札所を訪れる人々の理由は様々。そこで交錯する人生は、とても貴重な瞬間だ。この巡礼では、人の優しさや温かさに触れることが何度もあった。
納経所のある寺に向かう。詳細地図はなく、概念図と看板を頼りにバイクを走らせた。アメリカンバイクは小回りが利かず、直進安定性に優れている。そのため、巡礼向きとは言い難い。砂利道、細道、坂道、峠道、田舎道。バイクとの対話が増えるのは、一人旅の良さかもしれない。歩いたほうが早いスピードで、森の中へと入っていった。元々海が好きで、山や緑の多い場所にはあまり行かないが、この巡礼旅で初めての林道に感動した。心地よい静けさ。川の流れる音。風が吹くと葉が囁くように奏でる音が、癒しを与えてくれる。自然は素晴らしい。しばらくの間、その自然の中に身を委ねた。
秩父の景色を堪能しながら、次の札所へ向かって走り続けた。すると、行く先々で顔を合わせる、同じ巡礼客がいることに気づいた。ある札所で、納経を済ませて一服していたら、一台の車が到着した。二つ前ぐらいの札所で見かけた車だ。高齢の巡礼客が車から降り、観音堂へ向かい歩き出した。しばらくして、何か言い合いながらゆっくりと戻ってきた。地図を開いているところを見ると、道がわからないのだろう。その様子を眺めていたら、こちらに気づいて話かけてきた。どうやら、ひとつ前の札所の場所がわからないようだ。地図を使いながら説明を試みたが、説明するほうも理解するほうも困難だ。
「よかったら、先導します」
「引き返させるのも悪いし…」
「わかりづらい場所なので、案内します」と、道案内することになった。
バイクのエンジンを始動させ、御一行が車に乗り込んだのを確認して出発した。車とバイクの巡礼同行。少しの時間であったが、旅の共有を楽しんだ。ミラーで後方をケアしながら、札所へと導いた。入口へ到着し、バイクをUターンさせて、運転手の方に挨拶をした。すると、乗車している皆様が手を振っていたので、今できる限りの笑顔で振り返した。
ある札所でのこと。この旅、一番の出会いが待っていた。
武甲山に圧倒されながら、観音堂で手を合わせた。納経所の御婦人と何気ない会話をして、御朱印をもらった。そして、御婦人と俺は語り始めた。
秩父巡礼に来た経緯を説明したところ、御婦人は「初対面の人だけれども、何だか話をしたくなった」と、自らの人生を語り始めた。年齢は五十代。そうは見えない若々しさと、少し疲れている表情をのぞかせていた。
以前は教師をしていたようで、子供達の話をしている時は懐かしそうに微笑んでいた。仕事にやりがいを感じながらも、葛藤の多い教育現場。子供達と大人達との狭間で、彼女は神経をすり減らし戦っていた。その後、結婚して産まれた娘さん。だが、我が子への愛情とは裏腹に崩壊していく夫婦関係。娘さんは幼くして両親の離婚を経験した。その後、彼女は女手ひとつで娘さんを育てた。数年前、その娘さんはうつ病になった。苦しい思いをしたことは言うまでもない。しかし娘さんは、うつ病に関する研究や学問の道を歩み、海外留学で出会った男性と結婚した。子供が産まれるまでは、カウンセラーや病院で働いていたそうだ。強い。何て強いのだろう。自分の経験を活かして働くのか…。そして御婦人は再婚し、この札所に来たのだ。教職時代とは違う種類の人間関係に疲れ果て、苦悩の日々を送っていたところに、別れた御主人が危篤状態になったという知らせが届いたのだが、運悪く、娘さんに会わせることができなかったようだ。すると、娘さんは母親である御婦人に感情をぶつけ、その時の言葉が今も彼女を苦しめている…。そんな娘さんに、こう言ったようだ。
「私がすべて悪い。恨まれても仕方ない。本当にごめんなさい…」
しかし娘さんは生まれてきたこと、御婦人が実の親であること、生きている父親に会えなかったことなど、御婦人の存在や娘さん自身の存在を否定したという。気がつくと、御婦人は話しながら涙を流していた。音信不通にこそなっていないが、心がつながっていない親子関係がどれだけ辛いことか。親になったことがない自分には想像もつかない。ただ、子供側として素直に思うことを伝えた。大切なものを守ろうとしても、報われない現実がある。御婦人が、心から笑える日は来るのであろうか。それでも、未来へ向かうエネルギーが出ているように感じた。静かに、けれど熱い何かが…。
その後、自分の事を話し始めた。自分だって初対面の人だけれども、何故か話さずにはいられなかった。魔物と戦いながら、気づいた現実。気にしていなかった現実を…。
俺には父親がいない。母親は結婚していないため、父親の顔も知らないのだ。
父親がいない子供は、きっとたくさんいるであろう。幼少からいないものだと自覚していたし、それを気にさせない恵まれた家庭環境があった。そんな家族からたくさんの愛情をもらい、いじめにもあわず、父親のことも特に気にせず高校生になることができた。十五歳の時に、祖父が他界した。父親代わりで、一家の主であった祖父の葬儀。尋常じゃない数の人の出入りに驚かされた。しかしそれと同時に、本当に祖父の事を思って来てくれている人はどれくらいいるのだろうと、疑問を感じていた。何故か緊張してしまい、あまりしゃべれなかった祖父。怖さはないが寡黙で、独特のオーラを放っているように感じていた。
祖父が他界してから数日経過した、ある日のこと。誰もいない放課後の教室で、号泣してしまった。祖父がいなくなったという現実が、急に襲ってきたのだ。その日を境に少しずつ荒れていき、反抗期に突入した。夜な夜な外へと出歩き、煙草をふかして、家族に八つ当たりをした。祖父が他界した直後に野球を辞めて、学校や友達、そして家族、すべてが嫌になった。母親と口論をして自分の部屋で暴れていたら、泣きながら俺の出産背景を伝えてきた。
父親という男には、家族があった。その家族、夫婦には愛情が無かったらしい。だが当時十五歳の俺には、理解できるわけがない。俺が産まれる前、母親のおなかにはひとつの命を宿していた。産もうとする母親に対し、家族は猛反対した。その命はこの世に降り立つことなく消え、やがてまた俺という命を宿した。家族は再び猛反対したが、何度も話し合いを重ね、最終的にはバックアップすると出産を認めることにした。
世間体や生まれてきてからのこと、経済的なことも考え、祖父の養子にする案もあったらしいが、戸籍上の親子にこだわった母親は、その案を断った。そして誕生した、この命。曾祖母、祖母、祖父、伯母、母に囲まれて、そんなことがあったとは知らずに、たくさんの愛情を受けながら育っていった。
その話を聞いて、反抗期は終わった。ありがとうと言った。そして、母親を尊敬するようになった。ある年、自分の誕生日に花束を贈り、産んでくれたことの感謝を伝えた。
そう、うつ病になるまでは感謝していたのだが…。
魔物と戦っているときに思ったこと。
いくつかの恋愛を経験し、男女の人間関係を、そして学校や職場では社会の人間関係を築いて、自分の価値観を見出してきた。浮気や不倫は嫌い。真面目すぎると笑われ、重たすぎると煙たがられる恋愛観。感受性が強く、嘘や偽り、同情や愛情というものに対して、とても敏感になっていた。そして、自分にとって不都合な真実は、知らなければ幸せなのだろうかという、疑問を抱いていた。朦朧としながら作業したあの長い夜は、嘘に嘘が上塗りされていた、裏切りの日であったのだ。
仕事でも恋愛でも、いや世の中にはいつだって真実と嘘が存在する。知らなくてもいい事や知ってはいけない事、そういった暗黙のルールに無関心でいたが、もう限界を超えていた。誰も悪くない。察知していた現実を、消化することができなかった。そして、自分を否定した。自分自身が好まない過程で、産まれてきた命だということ。どんな事情であれ、真っ向から対立する、自己信念と存在過程。そのことを考えると、魔物は強くなっていった。そんな現実に苦しめられていることを伝えたところ、静かに頷きながら話を聴いていた御婦人は、俺にこう言った。
「父親に会うべきだ」
会いたくないというわけではなかった。疑問に思っていたのは確かだ。漠然と存在しているのかどうか、ぽっかりとない父親の存在。今更、父親の愛情など求めていない。数年前までは安否確認が取れていたが、最近では消息不明となっているようだ。それでも、いつか会えるような気がする。何の根拠もない。旅をしていれば、会えるような気がしたのだ。
探すにも、手がかりもない。もし会えなければ、そういう運命なのだ。生まれてきた意味の、答えなんてないと決め付けている。しかしどこかで、見つかるかもしれないという期待もしている。たとえ思い通りにならないことでも、やってみたいと思うことは行動に移すべきであると、この札所で教わった気がした。他の納経所では五分もいないのに、数時間も語り合っていた。お互いの未来を励まし合い、その札所を後にした。答えは出る気がする。この旅が終わるころには、自分の生存理由以外ならば、問題や悩みの答えが出せる気がしたのだ。
札所も十二番まで回ったところで、宿を探すことにした。せっかちな性格から、二日間で札所を回ると決めていた旅も、どうやらそのようにはいかないらしい。せっかくなのだから、出会いや景色にじっくり触れていこう。地元の観光案内所へ連絡をして、宿を探してもらった。
その宿は、次の札所の目の前に位置する、古い民宿風の旅館であった。おっかさんと呼びたくなる女将さんが出迎えてくれて、指示通りにバイクを停めた。
「すぐにお風呂入れますよ」と、館内を説明しながら案内してくれた畳部屋には、古いテレビと机、ホットカーペット、洋服掛けが置いてあるシンプルな部屋。
豪華で贅沢な部屋に泊まったこともある。けれど今の自分には、この宿が生涯一贅沢な部屋に思えた。真冬の寒さと、コンビニのおにぎりひとつ。これだけで走り回った初日に、たどり着いた宿。窓を開け、目の前を走る電車の騒音にも、思わず微笑んだ。最高だ。荷解きをして、一服した後に案内された風呂へと向かう。昔ながらの昭和の風呂は、冷え切った身体に沁みる熱湯であった。
旅に出れば必ずしも何かに出会い、何かを得るとは限らない。
それは、こんな言葉と出会って思ったことだ。
「何かを求めて、国内や海外へ旅に出たり、移住をしたり、留学をしたり…過剰な期待をしていても、何もないことだってある。受身のまま変化を待つのではなく、そこで何を感じ学ぶかが重要なのだ」
旅に答えがあるのではなく、すべては導き出すヒントや材料にしかすぎない。そう俺は解釈している。二十歳の時、アメリカへ行った。一人旅は、その時以来だ。今回は国内とは言え、魔物と戦い、身動きもとれず、苦しい日々を過ごしたつい最近までを思うと、魔物がいつ襲い掛かってくるかわからないリスクを背負い、恐怖と不安に押しつぶされそうなバイク旅は、間違いなく大冒険だ。この巡礼を成し遂げたいと強く願い、風呂から上がった。
部屋でひと休みしていると、おっかさんが「夕飯ができたよ」と、声を掛けてくれた。階段をおりて食事部屋に入ると、後は自分でやっとくれといわんばかりの、炊飯器とお茶が置いてあった。何だか、ますます楽しくなってきた。夕飯の献立は、ザ・家庭料理。俺はとにかく腹が減っていた。ここ数ヶ月、ロクに食べていない。箸を手に取り、半泣きで食べ続けた。食事を終え部屋に戻り、薬を飲んで気分を落ち着かせた。明日のルートを確認する。不安や悩みが、消えることはない。今は巡礼を成し遂げることが、自分にとって一番大切なことであると言い聞かせ、眠りについた。
巡礼二日目。朝食の時間前に起床して、顔を洗う。真冬の冷たい水は、旅の再開へ向けて、気持ちを引き締めてくれた。数年ぶりの朝食を堪能し、会計を済ませ、もう一晩お世話になるかもしれないことを伝えると、巡礼が無事に成功するようにと激励の言葉をいただいた。
ある札所でのこと。そこは、納経所が別の場所にある札所であった。住職さんが納経所までの道を丁寧に案内してくださり、その後に飴までいただいた。
「そういや、飴をくれる寺がいくつかあったなぁ」と、心の中で振り返っていると「バイク巡礼ですか…ではひとつお土産というか、プレゼントをあげましょう」と、可愛いらしいカエルのストラップをいただいた。
「もう気づいたかもしれませんが、この札所には、カエルの石像がたくさんあるでしょう。無事に帰る、という願いを込めているのです」と、バイク巡礼が無事に達成できるようにと、ストラップをくれたのだ。バイクのキーホルダーに装着し、カエル嫌いをしばらく封印することにした。
高台にある札所でのこと。納経所で人を呼んでも、気配すら感じない。仕方がないので納経帳を開き、般若心経を読んでいた。すると、ようやく人が現れた。御朱印をいただき、見晴らしのよい場所で一休みした。空は青く、山はとても綺麗だ。不自然な都会とは違う空気に癒され、エネルギーをもらった。
「ここに猫がいたら最高だなぁ」と、呟いたところ、草場の影から一匹の猫が顔を出した。「あははは!嘘だろ、おい」と、猫好きの俺は喜びと驚きを隠せないまま「ありがとう」と感謝し、しばらくその猫と日向ぼっこを楽しんだ。
こんな些細な幸せが、たまらなく嬉しい。こちらを見つめていた猫がゆっくりとした足取りで去って行くと。姿が見えなくなるまで「ありがとう」と、繰り返し呟いた。これも出会いなのかなと微笑んでいると、どこかの札所で見かけたことのある男性の巡礼客が現れた。
挨拶を交わすと、当然のごとく会話が始まった。
その方は、巡礼経験者だ。生きるという道は人それぞれ違い、その道で偶然交差する出会いは、とても特別なものだ。それを分かり合っているかのような時間を過ごすと、彼は再びその道を歩き始めた。
別の札所に「縁とは切るものではなく、結ぶもの」と、貼り紙がしてあった。
孤独になるのを恐れ、仕事に、会社に、そして人に依存をしすぎていた。自分は本当に空っぽだと気づき、必死にしがみついていたのかもしれない。必要以上に自己開示をし、人間関係を築いてきた。けれど社会的な立場が消えてしまえば、大多数が失われる関係である事を、どこかでわかっていた。集団や群れが苦手で、この職場に流れ着くまで、友達や親友と呼べる人はあまりいなかった。また孤独になるのか。元に戻るだけだと、弱気な感情と強気な感情が交互に押し寄せてくる。貼り紙を眺めながら、しばらく考えてみた。もう無理をする必要はない。結ばれる縁は自然と結ばれる。切るべき縁も、自然と切れていくものだろう。
札所も三十番まで回った。陽も沈みかけ、時間的にもうひとつ回れるかどうか。
迷子になることを計算してもギリギリだが、とりあえず次の札所へ向かうことにした。人がいない道に不安を感じ、バイクを停める。辺りを見回し、地図で現在地を確認する。確信のないままバイクを走らせ、さらに進んでいくと札所の案内板が出てきた。薄暗くなった山道を駆け抜ける。明らかに気温が下がっていく中、その道の行き止まりに札所の入口があった。
間に合ったのだろうか…?
不安を募らせながら入口を覗くと、頂上が見えないほどの石段が、そこに立ち塞がっていた。暗黒に葬られるように階段が連なっている。しかし、のんびりはしていられない。足元が暗く危険なため、うつむきながら上り始めた。いったいどこまで続いているのか。
この石段の数が記されている、石碑があることにふと気づいた。その数、二百九十六段。言葉もない。とにかく、この階段に終わりがあることを確認できたのだ。
上ろう。ひたすら上るしかない。
時間にして、どれくらいだろうか。ようやく頂上に着いたのだが、納経所は閉まっている。五時前なのに…扉を叩いても応答がない。叫んでも、何も聞こえない。誰もいない。「ふざんけんなよ、畜生」と、どうにもならない諦めがつき、二百九十六段を下り始めた。またこの階段を上るのかと落胆しながら、下り続ける。急ぐ必要のない速さで下り、付近に長椅子があったので腰かけた。煙草を取り出して、森に囲まれた空を見上げながら火を点けた。そして思った。五時に間に合おうが、間に合わなかろうが納経所は閉まっていて、何ら問題はないのだ。俺が五時まで開いていると思い込んでいただけ。早く閉まった、元々開いていない、それは翌日になればわかることだ。
どちらにしても、俺は明日もここに来て、この階段を上る。
それだけは変わらない。特別なことは何もない。俺のひとりよがりだと自分で自分を嘲笑った。悩んでいることも、もしかしたら似たようなことなのかもしれない。少しだけ気持ちが軽くなり、煙草を消して灰皿に放り込んで、バイクに跨った。
その場所は圏外のため、携帯電話の通じる場所から、昨夜宿泊した旅館へ電話をした。おっかさんに到着予定時間を伝え、旅館へ向かって夜の秩父をひたすら駆け抜けた。すると、魔物ではない心細さが襲ってきた。辛さの中に、いつからか悔しさが入り混じっていた。
「何故こうなったのか。何故、俺はここで走っているのか。何故俺だけが…」
魔物が現れないように、無心になることを意識する。
しかし、不安や悩みが消えることはない。
自分が関わってきた人達は、今日も変わらず生きている。
「俺はどうだ…」
集中力が散漫になりかけていく。
寒さが不安に勝り始め、意識が朦朧としてきた頃、ようやく旅館付近の街並みが見えてきた。あの宿の熱い風呂と夕食だけが、今の俺には必要なのかもしれない。そう思い、アクセルを開けた。
宿に着くと、俺は慣れたようにバイクを停め、昨日と同じ部屋を案内された。すぐ風呂に入り、冷えきった心と身体をじっくり熱した。「明日、あの階段をゆっくり上ろう」そう心に決めて、空腹を満たすために風呂を出た。今夜のお客は俺だけらしい。そうとわかれば、さらに居心地が良くなるものだ。この旅でしか味わえない御馳走を頬張り、不安をかき消すかのように満腹になった。
「ごちそうさま」と厨房のおっかさんに向かって叫び、部屋へと戻った。
この旅も明日でいよいよ完結する。最後の札所で納経を済ませる俺は、いったいどんな気持ちなのだろうかと想像してみる。それは、その時になってみればわかることだ。期待と不安に包まれながら、少しだけ旅の終わりが寂しくもあった。おっかさんが布団の準備へ来た際に、何気ない会話を楽しんでいると、気がつけば明日も旅する元気をもらっていた。
巡礼三日目。札所も残すところあと四つ。出発前、おっかさんに感謝を伝えた。「この宿に来てよかった」と、素直な気持ちを言葉にした。
バイクに跨り、次の札所へと出発すると、バックミラーに映る宿とおっかさんが少しずつ小さくなっていくのを見つめ、俺は寂しく感じていた。
同じ道でも、明るく晴れていれば走りやすい。けれど、自分の中にいる不安や魔物が、それとは無関係に走りづらくする。ならばそいつに付き合うまでだ。今の俺には孤独と不安とバイクがある。悔しさも、虚しさも、寂しさも、すべて向き合えばいい。すると何故か、高校生の時に野球部を辞めたことを思い出していた。
退部届を持って職員室に行った俺は、目の前に腰かけた監督にこう聞かれた。
「野球が嫌いになったのか?」とにかく辞めたかった俺は、こう答えた。
「はい、嫌いになりました」嘘だった。間髪入れずに、監督はこう続けた。
「お前はこの先、逃げ続けることになる。すべてのものから逃げる人生を送ることになるぞ。それでも辞めるのか?」
「はい、辞めます」
こうして退部は認められた。そしてその日から、俺はあらゆる場面でその言葉を思い出し、その言葉が付きまとい、その言葉通りになっていく自分が嫌いになっていた。学校に行かなくなり、人から社会から少しずつはみ出していく。すべてを憎んでいるようで、単純に自分が嫌いなだけであった。
すべてを否定しているだけの中身がない男。それは社会人になってからも変わらない。多くの出会いに恵まれたことから、あの時の退部は間違いではないと思っていた。あの言葉は、心の中に刻み込まれたもので、今悩んでいる問題と寸分の狂いなく重なっている。
「また逃げるのか」
俺は逃げたのであろうか。
辞めるという選択肢を考える時に、常につきまとう言葉。中学生の頃から詞や文章を書いていた俺は、こう記していた。
「現実から逃げても、孤独だけは追いかけてくる」
この旅をしているのは俺だ。それがすべてだ。追いかけてくる孤独を背に、走り続けてやる。いつかまた戦えると信じるしかない。そう言い聞かせ、札所へと向かった。
納経所が開く時間前に札所へ到着した。急いでも仕方ないと、鬱蒼と生い茂る緑に包まれたその場所で、焦らすように一服した。自分は、とにかく焦る。慌てる。心配する。感じ取らなくていいものまでが、受信される。感受性が豊かすぎるのだ。それを活かすべきだと、尊敬する人から助言をもらった。そんな事を考えながら、ゆっくりと階段を上り始めた。
昨夜は見ようともしなかった、景色や石碑、石段を眺めながら時には立ち止まり、木々を見つめ、少しずつ上っていった。下を見ているだけじゃ、何も気づかない。自分のミスや失敗は、小さくても学べることが必ずあるもの。長い石段を苦にするより、ゆっくり味わいながら上れば、頂上では清々しい気分になれるのだ。明らかに空気が薄いと思われる頂上に到着し、息を整えてから般若心経を読んだ。身も心も落ち着いたところで、納経所へと向かった。すると、住職が温かいお茶と笑顔をくれた。昨夜の出来事を伝えると、この納経所は四時で閉まることを、優しく教えてくれた。やっぱり人生なんて、そんなものだ。大袈裟なようだが、本当にそんなものだと思う。しばし雑談を交わし、次の札所へと向かうことにした。二往復、約六百段の教訓。忘れないでいたい。この時は、そう思っていた。
秩父の大自然と札所を味わいながら、三十二番、三十三番と回り、残す札所もいよいよあと一つになった。晴天に恵まれ、日中はあまり寒さもない。バイクに乗ることを、純粋に楽しめた瞬間であった。住宅街から自然へと景色が変わり、目的地が近づいている予感がした。細くなっていく田舎道が、旅の終わりへと導いているように思えた。川と併走するその道の先、とても静かな場所に札所三十四番は待っていた。
情緒ある景色。入口には秩父三十四番札所、日本百観音結願所と刻まれている。着いたのだ。とうとう、最後の札所に来ることができた。あまりにも素敵なその場所と達成感に、思わず涙した。本当に嬉しかった。しばらくの間、余韻に浸り、ゆっくり中へと入っていった。観音堂で最後の般若心経を読み上げ、自分の答えを探るように、札所一番目を訪れた時の自分を思い出していた。
いきなり答えは出てこない。御朱印をもらい、結願成就したものだけが購入できる証を手にした。明るい住職と語らい、その札所を見て回っていると、新しい事実を知った。どうやら、秩父三十四観音は日本百観音の一部らしい。坂東三十三観音、西国三十三観音が存在し、合わせて日本百観音となっているのだ。真っ先に思ったのが「回らなきゃいけない」という使命感。次の旅が、決まった瞬間であった。
入口へ戻り、バイクに腰掛けて流れる雲を見上げながら、煙草に火を点けた。この三日間、色々なことがあった。そしてこの一年間、自分が壊れていったことを振り返っていた。自分自身を見つめ直せることができたこの旅は、本当に貴重なものだと思えた。「巡礼に来てよかったな」と呟くと、他の巡礼客が声を掛けてきた。
彼はこの札所三十四番を何度も訪れ、病の家族のために祈願している。秩父巡礼は結願したとのことだ。お互いの巡礼話を交えながら、祈願成就を信じ合い別れの挨拶をすると、彼は去っていった。
そしてまた再び、空を見上げた。答えは出た。いや、出ていたのだ。きっとずいぶん前から出ていて、わかっていたのに認めることができなかった。受け入れることができなかったのだ。事実を事実として、現実を現実として、受け入れよう。それで十分だ。風が吹き抜けた瞬間「帰ろう」と呟き、家路へとバイクを走らせた。
第3章 絶望と希望
秩父巡礼を終えた翌日、早速行動に移した。
会社に連絡をして、退職届を提出した。
感情のない無機質な労いの言葉が、心に響くことはなかった。
そして、もうひとつの問題を終わらせるため、携帯電話を解約し、連絡が取れない状況を作り上げた。こうでもしなければ、終わらない結末がある。あとは自分自身の中で決着をつければいい。未練があることはわかっている。これ以上、相手の気持ちを考える余裕はない。
もちろん継続することも考えて試みたが、魔物が絶望と苦痛を運んできた。悔しさもあるけれど、二つの問題は「終わらせる」という形で結論を出した。湧き出てくる感情は行動に移すべきだ。優柔不断な性格が自分を苦しめて、かなり遠回りをしたと思う。魔物を強くさせる必要はない。だが残酷にも、魔物は強くなっていたのである。
数日後、病院に行くと医者から警告された。
「治りかけが一番危険。回復が始まると動ける元気が出て、自殺する可能性が高くなりますので…」
バイブルとなった「ツレうつ」にも、自殺念慮が描写されている。
「自殺?俺がするわけがないよ」と、他人事のように捉えていた。
気にもしなかった警告は、魔物が導く罠であった。
その後、涙が止まらない日々が続いた。不安ではなく、絶望の涙。悔しさなのか、悲しさなのか…とにかく涙が止まらない。そしてまた息苦しくなる。結論を実行した後に、このような形で魔物と再会するとは…。理由を考えても、何をどうしても穏やかではいられない。薬を飲んでも、特に変化はなかった。
そして魔物は、あるひとつの答えを誘い出していた。
死への誘導を始めたのである。死ぬ。死ねばいい。誰も悲しまず、傷つけずに死ぬことができるか。どうやって死ぬか。ひたすら考えた。いつ実行するか。秩父巡礼前にも死を意識していた。その時は、ひたすら苦しい状況を楽にしたかった。今度は死を持って、自分という存在を証明する。人生を完成させる。死ぬことで、生きることを問い掛けるのだと、自分勝手な解釈をしていた。
ある朝、完全に感情を無くした状態で、車を西へと走らせた。死への恐怖心がない運転は、とても危険だ。飛ばしているという感覚とはまた違う。少しばかりの理性が、他人を巻き込んではいけないと、事故を防ごうとする。一人だけ会いたい顔が浮かんでいた。秩父巡礼で、すべてを語り合った御婦人だ。
どこかで生きることに未練があったのかもしれない。車を秩父方面に走らせる。涙で前方が見えないドライブ。札所に着き、納経所を訪ねた。見知らぬお坊さんに声を掛けると、御婦人は、東京の病院へ御主人を連れて行ったと教えてくれた。独り言のような返事をすると、俺はうなだれたまま駐車場に戻り、地面に座り込んだ。「どうするかな…」と呟き、誰となくメールをした。
「どこに行けば死ねますか?」
車のナビで富士の樹海を検索したが、行くのが面倒になり、その場所から近い山へと向かった。ひたすら峠を走り続け、木々の多い人が来ない場所を見つけると、そこで車を降りた。辺りを確認する。手頃な紐やロープを探す。たまに通る車に背を向けながら、木に紐をかけた。後は実行するだけだ。
ひと思いにやっちまえばいい。
さぁ、早くしろ。
何もかもが終わる。
苦痛にあふれた日々も、情けない人生も、もう必要ないだろう。
何も変わらない。
死んでも、何も変わらない。
世界は、何も変わらない。
誰にも、遠慮はいらない。
自分の人生に、結論を出すのだ。
紐を首に掛けてみたけれど、実行できない…。死ぬこともできない。
家を出たときとは違う絶望感に包まれ、その場で膝から崩れ落ちた。
馬鹿馬鹿しい。情けない。くだらない。自分が心底、嫌になった。
それからの数日間、あまり記憶がない。
魔物が再び襲ってきたところまでは憶えている。
苦痛しかない、壮絶な日々であった。
「夜は必ず明ける」
その言葉だけを信じ、ただ生きていた。生かされていた。
何かをしなければならない。二月も半ばになっていた頃、坂東巡礼に出ようと決めた。魔物を封じ込めたい。現れては戦う日々に、うんざりしていた。思い立ったら即実行。じっとしていられない。動かないことが怖いのだ。
ツーリングマップルで、札所の所在地をすべて確認する。
今回は秩父巡礼とは違い、範囲が広大だ。時間を掛けて回ろう。
わずかな情報と希望を持って、再びバイクに跨り、一番目の札所がある鎌倉へと向かった。
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この時期に出会った、生と死を意識していた自分には意義深い曲。
今でも聴くし、ギターで弾くこともある。巡礼テーマソングだ。
第4章 坂東巡礼
見覚えのある景色。
迂闊に気を抜くと、思い出に浸ってしまう。
危険なのは運転と魔物の二つ。今回の巡礼も、それは変わらない。
一番目の札所へ到着した。納経帳を買い、御朱印をもらう。始まりは発願、終わりは結願という。今回も一番から順番に、三十三番へと向かう。坂東巡礼は、関東全域に札所がある。神奈川、埼玉、東京、ひとつ神奈川を挟み群馬、栃木、茨城、千葉という順に回る予定だ。皮肉にも時間はあるので、神奈川と埼玉は泊まらずに日帰りを繰り返し、そこから先は改めて考えることにした。
テイクフリーの札所ガイドを開くと、所在地や納経所の営業時間が掲載されているので、これはありがたいと早速利用することにした。次の札所を確認していたら、巡礼客が話しかけてきた。その男性は自転車で旅をしているとのことで、巡礼を始めた経緯、自分の人生、様々な話が飛び交い、最終的には二輪について熱く語り合っていた。
様々な目的を持って巡礼している人が、日本全国にいる。そして、うつ病が身近にあることを、この巡礼で初めて知った。俺の周りにも多くいる。そんな人達と疎遠になっていた。気持ちを理解できず、辛辣な発言をしてしまったことは今でも悔やまれる。自分がこうなってみて、初めて理解できることがあった。他人には理解されないことが、この世の中にはたくさんあるのだ。互いの旅で出会えたことを喜び合い、自転車の巡礼客を見送った。
再度、次の札所を確認する。四番目までは、鎌倉近辺にあるようだ。
古き良き味わいのある街並みを駆け抜け、二番目、三番目と回った。
札所四番目、長谷寺。花々を眺め、観光客を横目に観音堂へと向かった。納経所は団体巡礼客の御朱印待ちで、時間が掛かりそうだ。御朱印をもらえるまで、ひたすら仏像を眺め続けていた。その後、休憩所に立ち寄ると、そこからは海が見えた。少し風があったが、晴れていてとても心地いい。無になれる時間はわずかで、何かしら思い出してしまう。深い闇に引きずり込まれる前に、札所を出た。
鎌倉の街を散歩しながら、コンビニでおにぎりを二つ買い、コロッケ屋に立ち寄ってみた。色々な種類のコロッケが売っていて、その場で食べることができるようにと、椅子が置いてあった。注文したコロッケが出来上がり、あまりに美味しそうなので店内で食べることにした。すると「そのおにぎりも食いな。今お茶出してやるから」とご主人が言うと、調理している奥さんは優しく微笑んだ。俺は喜んで、その場でランチを始めた。すると、お客さんが店の外で中の様子を伺っていた。美味しそうにコロッケを頬張っていたせいか、買う決心をしたお客さんが入ってきた。俺はしばらくご主人と談笑して、旅ならではの贅沢な昼食を満喫した。
バイク置き場へ戻る途中、小さなアクセサリー屋を発見した。店内に入って商品を眺めていると、修学旅行生や近所の子供達が、有名なミサンガ風のアクセを手に取り談笑していた。店主が話しかけると、少し困惑しながら買うべきか悩み始めていた。しばらくして、子供達が「ください!」と叫んだ。どうやら購入する決意ができたようだ。その様子を見て、自分が欲しかったものを買うべきか、迷い始めてしまった。その時、ある人物の言葉が思い浮かんだ。俳優の坂口憲二氏が、世界をサーフトリップする番組「この夏は忘れない」の中で出会った、ひとりの外国人男性だ。その男性はドクロが好きで、ドクロのペンダントを身につけ、自分自身にドクロをペイントした写真を紹介していたシーンそその男性は、こう言った。
「人間いつかは皆こうなる。それは変わらない事実だ。だから俺にとって目の色や肌の色は関係ない。そこに大きな違いはないと思っている」
気取るわけでもなく、偉ぶるわけでもないその男の言葉に、坂口氏は考え込むように黙っていた。その場面がとても印象深く、同じシーンを繰り返し何度も観た。その言葉を思い出し、ドクロのペンダントを身につけることに決めた。うつ病になったこと、自殺しようとしたこと、悔しさ、そしてその男性の言葉、すべてを忘れないようにと思いを込めた。店主と語り始め、仕事の話になった。まだ若いその店主は結婚後に脱サラして、この店を始めたそうだ。ちょっとしたきっかけで、触れ合える人生の物語。旅に出なければ味わえない瞬間を、またひとつ感じていた。
鎌倉を出て、小田原方面へと向かった。大好きな西湘バイパスを駆け抜ける。西湘PAで海を眺めるのが、とても心地良い。何かあると、よくそこまで走りに行く。そして海を目の前に、心を開放する。
この世は絶えず、変化している。同じような毎日を過ごしていても、世界は変わり続けている。そんな世の中に順応して生きている。遅れを取れば、世間は遠くなる一方だ。変化を嫌い、依存体質の俺は遅れを取ることになってしまった。では、これからどうするべきか。自分自身の事を記そうと思いついたのは、魔物との戦いを通じて過去を記録するだけではなく、自分の未来のために、今現在を歩き出すためにやり始めたことだ。過去のことであっても、今を生き、未来を描くための整理整頓。書いている今も、旅をしている。変化は自らが起こす。秩父巡礼で出した結論は、俺が決めたことなのだ。
五番目の札所を回り終え、この時点で次へ向かっても納経所が閉まっている時間となっていた。「安宿があれば、泊まるかな」と軽い気持ちで、次の札所の現地確認と宿探しをするためバイクを走らせた。陽が沈み始めると、空は急速に暗くなっていく。目的地に近づくと、さらに冷え込んできた。札所は確認できたので、後は宿を探そう。旅館を一軒一軒、訪ねてみた。しかし宿が少なく、すべて一人泊不可。それでも地図と街の看板を頼りに、ひたすら探し回った。バイクのライトだけが道を照らし、ようやくたどり着いた宿も無人であった。薄気味悪い恐怖よりも、営業中となっている看板の存在に怒りと疑問を感じ、自宅へ帰ることを決めた。
翌日も巡礼を続け、八番目まで回った。週末を挟み、週明けに埼玉方面へと向かった。九番目の札所は秩父付近にあるため、秩父巡礼、そして涙で絶望に溢れたドライブの日のことを思い出していた。行きに照り付けていた太陽も、帰りは夕陽と冷たい風に変わっていた。ただ漠然とした時間の流れを感じただけで、少し感動したのは何故だろう…?
二日後、再度埼玉へ向かい、二つ札所を回って東京に戻ってきた。札所十三番、浅草寺。思い出に浸らないよう般若心経を読み上げたのだが、いつもより心地悪く感じた。最近やってこない魔物に怯え、足早に去った。
横浜方面へ向かう途中、コンビニに立ち寄り、バイクを停め、ふと旅の景色の変化を感じていた。スーツを着た男性が、革ジャンを着た俺の横を通り過ぎていく。同じ時間の流れであるはずなのに、そのスーツを着た男性と俺のスピードが違うように感じるのは、錯覚なのであろうか。緊張から解放されている今この瞬間、日常生活で現実と戦っている人を、俺は心から尊敬している。
十四番目の札所は、人々が行き交う下町情緒あふれる場所にあった。この札所名の駅があり、その駅付近の踏切で信号待ちをしていると、たこ焼き屋が目に入った。バイクを停めて店内に入ると、陽気な店主の勧めるタコ焼きとタイ焼きのセットを注文して、出来上がるまで雑談を楽しんだ。その場で食らうのが一番だと、並びにある系列店のスペースを開けてくれた。店の歴史話に聞き入っていると、お客さんが来店した。陽気さは店主の売りでもあり、評判が良いのだろう。リピーターや常連客が多いとのことだ。味には自信があると笑顔で語っていた。
次は群馬、そして栃木、茨城、千葉と回っていく。ここからは宿泊をしながら回る計画だ。安宿を探し、予約を入れる。入念に道を確認して、天気を調べる。そして数日後、荷物を積み群馬へと向かった。目的地が近づくにつれ、寒さはどんどん強くなっていった。まず初日で、二つ札所を回る予定だ。巡礼中、バイクを見て話しかけられることが多いのは、秩父でも坂東でも変わらない。先を急ぎ、この会話を拒むことは、巡礼旅の醍醐味を半減させてしまう。
札所を二つ回って宿付近に来たのだが、チェックインするには時間がまだ早いこともあり、思い切って榛名湖へ向かうことにした。この時期、峠は危険かもしれないと弱気になったが、何とかなるさと強気な一面が勝ってしまった。この勝利が後に災いを呼ぶ…。
クルマでは走ったことのある峠も、バイクには厳しいものがあった。直進安定性に優れたこのバイクは、コーナーを曲がる度に恐怖が倍増する。榛名湖に到着しても緊張は解けず、寒さもあって気分が優れなかった。温かい缶コーヒーを買い、景色を眺める。一服して、心を落ち着かせる。陽射しはあるが、風が冷たい。しばし放心した後、峠を下る決心をしてバイクに跨った。下りの恐怖は言葉にならない。バイクなどいない峠の途中に、展望台があった。
駐車スペースに停めてヘルメットを脱ぐと、一瞬で涙が浮かんだ。これは自分自身の状況と、時間、季節、そこにある自然の景色とがベストなタイミングで生み出す感動だと思う。峠の恐怖も、巡礼も、病気も、退職も、傷心も、今なぜそこにいるかも忘れて、その景色に感動していた。健全ならば違っていたのだろうか。確かに巡礼を始めなければ、山の美しさに魅かれることはなかったのかもしれない。どれくらいそこにいただろう。少しばかりの未練を残して、再び峠を下り始めた。
伊香保温泉の宿に到着した。まだ誰もいない温泉をのんびりと満喫していると、孤独が寂しさを運んでくる瞬間があり、それがとても辛かった。以前、職場の仲間達に誘われて、ほぼチーム全員で伊香保温泉に来たことがある。自由な大人の修学旅行といった感じで、笑顔が絶えない時間を過ごした。こうやって一人でいることに対して、まだ寂しさがある。慣れるよりも、孤独なりの醍醐味を味わった方が良いのかもしれない。部屋に戻ると、疲れていたのか少し眠ってしまった。食事を運んできた仲居さんの声で起きると、喉がとても痛いことに気がついた。昔から扁桃腺肥大に悩まされていたが、近年は扁桃腺を除去しない傾向があった。しかし、長年診てもらっている医師に決断を迫られていた。もうやるしかない。巡礼が終わったら決行しよう。愉快な仲居さんは俺を和ましてくれ、食事をする元気をくれた。巡礼中は簡単な軽食にしていた。そのため、宿の夕食はとても贅沢なのだ。
翌朝。食堂へ向かうと、全面ガラス張りの窓の向こうには、昨日眺めた素晴らしい景色があった。朝食で腹が満たされたことよりも、その景色で気持ちが満たされたことの方が印象深い。雄大な自然も、時と場所、手段を選ばないと危険だということを知る、試練の一日が始まった。
群馬から栃木へと向かう。道中、景色や一本道に見惚れて写真を撮り、一服しながら巡礼を楽しんでいた。栃木に入り、札所に近づくにつれて道が分かりづらく、迷子を繰り返していた。ようやく札所に到着したが、観音堂までの道のりに階段や坂が多かった。息を整え、般若心経を読み、納経所へと向かう。すると、一人の中年女性が、その長い階段を上ってきた。当然のように会話が始まる。
信心深いその方は、巡礼、寺、宗教や歴史に精通していて、優しい笑顔が特徴的な方だ。「若いのに感心ねぇ」との言葉を掛けてもらったのだが「感心されるようなことはしていないですよ」と恐縮した。理由がどうであれ、巡礼していることに意味はあるのだと改めて気づかせてくれた。人から教わること。それは、とてもありがたいことなのだ。
札所内に茶屋があったので立ち寄ると、食事こそできなかったが、味噌田楽をいただいた。飲酒にならないことを確認して、甘酒を飲んだ。冷えた身体に、よく染みる。店のおばちゃんの話によると、茨城エリアの札所は、数ヶ所閉まっているかもしれないとのこと。確認する必要があると思いながらも、心の中で何とかなるのではないかと思っていた。まずは次の札所、日光中禅寺への道を教えてもらい、出発することにした。
茶屋のおばちゃんが言っていたのは、本当にこの道なのだろうか。疑問が徐々に恐怖へと変わっていく。狭い砂利道の急斜面。路面状況が非常に悪い。車も通っていない。危険なんてもんじゃない。間違いなくバイクで走るべきではない。神経をすり減らしながらゆっくり進むと、高低差の激しいヘアピンに差し掛かった。連続するコーナーと、すぐそこある断崖。恐怖に襲われながら、次のコーナーを曲がった瞬間、声も出せず転倒した。
冷静になれ…。
まずはエンジンの停止…。
状況を確認しないと…。
崖の反対側に倒れたのが幸いだったようだ。しかし、足がバイクの下敷きになっている。ゆっくりと動かしてみる。ブーツは変形しているが、あまり痛みはない。時間を掛け、足を抜いた。身体は少し痛むが、大丈夫だ。次はバイク。これがまた重たい。どうやっても起き上がらない。少しだけ浮かせることはできるが、そこから動かない。深呼吸をして、気持ちを集中させる。
ぶつけどころの無い怒りや悔しさを込めると、バイクはゆっくりと起き上がった。深いため息をつき、点検をする。何かの液が垂れている。あと、ブレーキペダルが曲がっている。ハンドルとシールドが傾いている。その時、何か上ってくるのが見えた。パトカーだ。すがるように助けを求めたが、携帯電話は圏外のため、近所にバイク屋があるかわからないと言われた。けれど、人と会話したことで少し不安が取り除かれ、バイクが動くことを確認すると、自力で下る決心をした。
何とか走ることはできる。峠を下り、大通りに出た頃には、曲がったブレーキペダルや傾いたハンドル操作にも慣れてきていた。給油後、バイク屋を探す。近所に見当たらないため、強引に先へ進んでしまおうと日光へ向かった。そして、いろは坂に突入する。雪は残っていたが、車も走っているし何とかなるかもしれない。慎重に走っていたはずだった。いや、来たこと自体が間違いだったのだ。左コーナーを抜けようとしたその先に、アイスバーンが…。
気がつくと、俺はバイクから投げ出されていた。
…またやってしまった。
…しかも、さっきより激しく。
頭と腰を打ったが、ヘルメットと厚着の恩恵を受け、軽症で済んだ。
…バイクは?
氷上と上り傾斜で、起き上がらない。
後続車が通り過ぎる中、一台の車が停車した。
「大丈夫ですか?」と手伝ってくれる男性。それを不安そうに見守る連れの女性。「すいません」と、繰り返し謝りながら、何とか起き上げて停めることができた。
しかし、バイクは動かない。男性の心配が続くのは申し訳ないと思い、ここから先は自力で対応することを伝え、頭を下げた。本当にありがたかった。JAFに連絡をして輸送を依頼した。そして、バイクに謝った。
「お前に罪はないのに…ごめんな」
「ごめんな、怪我しているのに…」
バイクに無理をさせたこと、自然の脅威や道路状況を把握していなかったことなど、色々な後悔が押し寄せてきた。そして、巡礼の中断を決めた。
生きていることが、不思議であった。
紙一重で助かった、二度の転倒。自殺しようとしていた男が、命拾いをしたのだ。首から下げているドクロに触れて、何かに守られているのだろうかと、心当たりを探った。冷静さを取り戻しながら、積もった雪の上に腰掛け、一服しながら輸送車の到着を待った。
通り過ぎる車の中から突き刺さる目線にも、少しずつ慣れてきた。
約六百段の教訓を思い出す…。自分の性格が心底嫌になった。
すると、積載車が到着した。
すぐに頭を下げると、車両を積載するための準備が始まった。状況説明をして、作業を見守る。そして、車両を積載位置に移動させようと手伝うが、足元が凍っているため踏ん張ることができない。互いに苦笑いを浮かべ、ひたすら力任せに押し続けた。小さな台車にようやく積み上げ、牽引してベルトでロックをした。作業は無事に終わり、積載車の助手席に乗り込んだ。
いろは坂をトラックで走ると、俺が転倒したところだけ凍結していることがわかった。観光客を横目に、今度はいろは坂を下る。危険な道だと改めて気づき、ただその景色を眺め続けた。しばらく沈黙が続き、積載車は走り続けた。途中、待ち合わせたドライバーと交代し、すっかり陽も沈んだ頃、修理をしてもらうバイク屋に到着した。
破損の確認を行ったが、翌日以降に総点検をして修理することになった。
「この時期のいろは坂は無謀だよ!」
「走るならば、五月のゴールデンウィーク明けがベストだ」
その言葉を受け入れ、それまで中断することを改めて決めた。
ご主人の家族は皆明るく、とてもいい人だ。温かいお茶をいただきながら、雑談をする。仮の見積書をもらい、交換するパーツのカタログを眺めていると、カウンター内にいる犬が元気に吠えていた。時折来るお客さんとのやりとりは、客というより友達や家族みたいだった。すると、駅から自宅までの電車ルートや所要時間まで調べてくださり、更にはクルマで駅まで送ってくれたのだ。その車中、これも旅なのかなと日光の夜空を窓から見上げていた。
電車が来るまで、まだ時間がある。コンビニで食料を買い、ホームで食べた。無人駅だが乗客は多い。やがて到着した電車に乗り込み、ぼんやりと車窓に浮かぶ景色を眺めていた。どうやら、まだ旅は終わっていないようだ。
乗っていた電車が信号機の故障のため、同じ駅に停車したまま一時間以上経過しても動かなかった。仕方なく駅を出て、タクシーを待つことにした。すると、おっさん同士が並び方で口論を始めた。怒号が響く中、じっと見ていると今度は仲良くなり始めた。「くだらない」という五文字の言葉が浮かび、そのおっさんの行き先など気にもせずタクシーに乗り込むと、大宮までしかいけないと言うので、とりあえずそこまで行ってもらうことにした。大宮から再び電車に乗り、旅にトラブルはつきものだと、実感しながら帰路に着いた。
数日後、修理が完了したバイクを引き上げに、日光へと向かった。今度は故障しないでくれと願い続けると、何事もなく目的地へ着くことができた。迎えに来てくれた車に乗り込み、店に到着すると、すぐバイクと対面した。改めて感謝を伝えると「また来てね」と、奥様が見送ってくれた。
バイクを走らせ、タンクに手を当てながら「ごめんね」「ありがとう」と繰り返し呟き、思わず微笑んでいた。バイク乗りは、愛車を相棒と表現する人が多い。その気持ちがわかった気がする。またバイクで、いや相棒と旅をしたいと強く思った。
巡礼を再開できる日はまだずっと先だ。気がつくと、魔物は現れなくなっていた。油断せずに病院へ行くと、自分の判断で薬を続けるかどうかという段階まで回復していた。しかし専門医の判断ではないため、この後も不調の日はあった。完治というものがない病気。今後も、それを十分自覚して生活しなくてはならない。だが、そろそろ次のステップへ進んでも良い頃だ。
退職した職場の仲間達と、会ってみることにしたのだ。
連絡を取って個人やグループで会い、楽しい時間を過ごすことができた。気を許せる人には一部始終を話した。そして、たくさん語り合った。新たな発見もあった。自分が必要としている関係を、これを機に見極めてもいいのではないかと、助言してくれる人もいた。孤独なことに変わりはない。これは自分自身の問題なのだ。会わなくなる人もいるだろう。周囲の変化より、自分の進化に努めなければ成長はない。魔物と戦い、巡礼をしている時は被害者気分でいたが、今は己の未熟さを思い知ることができたと思っている。
怒涛の再会ラッシュを終えた後、扁桃腺摘出のため手術することが決まった。人生初めての入院だ。大病ではないにしろ、色々不安はある。そこで、入院前に巡礼ではない旅がしたいと思った。
関東近県から、いずれは全国をバイクで走りたいという願望がある。前々からバイクで走ってみたいと思っていた、伊豆半島を今回の旅の目的地とした。東から西へ走ることだけを決め、再びバイクに跨り、伊豆に向かって出発した。
第5章 伊豆半島一人旅
東名高速から小田原厚木道路に入り、大磯ICから一般道を走った。そして西湘バイパスに入り、ひたすら海沿いを走っていく。バイク一人旅も随分慣れてきたと思う。しかし、まだまだ経験が少ない。バイクに乗っているこの瞬間だけは、満たされている。生きていると実感できる。今回、走ること以外に旅の目的は特に決めてない。自由。それが、バイクの魅力なのだ。
西湘を抜け、真鶴から熱海へと向かった。気持ちをニュートラルにして、この旅を楽しもう。いろは坂での転倒が、バイクに対する恐怖心を強くさせていた。その恐怖心を払拭したいと思い、新たに旅することで、相棒との時間を楽しむことができるのではないかと思ったのだ。
熱海から伊東を抜け、伊豆高原に入った。食事処店を探す。すると、温泉街で恒例の迷子になった。何度も同じ道に出て、右往左往しながらたどり着いた店は、当然のように閉まっていた。こういう状況を、楽しめるかがどうか。人生に置き換えても、同じことが言える。
空腹というのは、ピークを過ぎると落ち着くものだ。先ほど通り過ぎた回転寿司屋を思い出し、そこへ引き返すことにした。何か味気ないと思ったが、そこは海の街ということもあり、美味しい寿司を堪能することができた。食後に駐車場で地図を開き、宿を探す。ライダー歓迎の宿へ電話したところ、今夜はお客がいなくて、友人が来るので食事もたいして用意できないということだが、ぜひ宿泊したい希望を伝え、南へとバイクを走らせた。すると、とても美しい伊豆白浜が見えてきた。思わずバイクを停め、カメラを手に海岸を歩いた。伊豆三大美浜のひとつとされているだけあって、今まで眺めてきたどの海よりも綺麗であった。
下田に入り、目的地の宿を探す。海から山へと景色が変わったその場所に、ロッジの宿があった。入口で声を掛けると、ハリウッド俳優のような渋い熟年男性が出てきた。どうやら、ここの御主人らしい。かっこいい。指示通りに、テラスの脇にバイクを停めて荷物を手に宿へ入ると、すでにご友人らしき人達が座っていた。
室内には古びた大きなオーディオから、プレスリーが流れている。アコースティックギターが置いてあり、ピアノの横には、バイクが数台置いてあった。それもかなり渋い。奥にテーブルが用意されていて、食事と酒が並んでいた。その横には真空管アンプが置いてある。なんてワイルドなところに来たのだろうと、一気にテンションが上がった。
「宴に参加しろ」と、ハリウッド俳優は自分を強制的に座らせ、その流れでお仲間に挨拶をした。岩城滉一似の人、一見何の変哲もない人、長髪を結んだ髭だらけの大型の人。何やら楽しそうな、オジサン達の飲み会に参加できるらしい。ハリウッド俳優の奥様が、せっせとつまみを運び、酒が手元にまわると宴が始まった。
気がつけば酒を交わしながら笑い合い、そして語り合っていた。
岩城滉一似の人は、ツーリングでこの宿に来たのがきっかけで、ハリウッド俳優の御主人と出会い、伊豆に移住してきたとのこと。何の変哲もない人は漁師で、趣味がギター弾き語り。今日はライブだ、と意気込んでいる。無邪気に騒いでいると、新たなご友人が登場した。稲川淳二似の年配男性。どうやら絵描きらしい。宿に飾られている絵は、すべて彼の作品。新作を拝見した。絵心のない俺でもわかる。その風景画は、とても温もりを感じる作品であった。
そして自分を含めた全員が、同じ自動車業界にいたという偶然に驚き、そんな人生の先輩方が語る経験談を聴いて胸が熱くなり、くだらない話に大笑いしていると、あっという間に時間が過ぎていた。漁師がギターを手に歌い出し、岩城滉一似の奥様も登場した。宴は盛り上がり、夜が更けていった。
翌朝、荷物を整理していると「朝食の準備ができたわよ」と、奥様に呼ばれた。稲川淳二似の絵描きさん、御主人と奥様は家族テーブル、俺は客テーブルに食事が並
んでいた。朝から豪華なメニューだ。しかも美味。
満腹になったところで、食事部屋から見える景色を撮影した。すると、絵描きさんが季節によって見える、景色の違いを説明してくれた。絵描きの目線は自然の景色に対して、とても純粋だ。邪念がない。それが作品に反映している。そして、三人の写真を撮影した。恥ずかしそうにしながらも、御三方はいい笑顔をしていた。
こんな男になりたい。そういう男達に出会えた旅となった。昨夜、岩城滉一似の人から帰り際に「明日、俺の家に寄っていけよ。コーヒーご馳走してやるから」と、満面の笑みで誘われていた。出発前に聞いておいた番号に電話した。南伊豆を回ってから訪ねると伝え、家の住所と目印を教えてもらった。ご主人と絵描きさんは用事があるため、先に外出するとのことで、お別れの挨拶をした。絵描きさんから美術展覧会の案内をもらい、またこの宿で再会できたらと、笑顔で去って行った。俺も出発準備をしよう。荷物を整理して、会計を済ませた。少しばかり談笑してバイクに跨り、奥様に見送られながら南伊豆へ向け出発した。
まずは弓ヶ浜へ。白浜よりも更に美しいその海は、日本渚百選のひとつとのこと。色々な海が見たい。旅の目的がまた増えていく。
次に石廊崎へ向かう途中、一面に広がる菜の花畑があった。すると、後ろからクラクションを鳴らされた。振り返ると、軽トラに乗ったサングラスの男性がニヤリと笑っている。昨夜の弾き語り漁師だ。偶然の早い再会に笑い合った。しばらくすると「俺は仕事中だから」と、かっこよく走り去っていった。弾き語り漁師を見送った後、バイクを停めて菜の花畑の写真撮影を開始した。川沿いに桜の木が並び、その道の先にも、菜の花は続いていた。辿っていくと、さらに広い黄色の世界があった。普段なら気にもしなかった花々。柄にもなく菜の花畑の中に入り、そこに溶け込んでいった。
石廊崎に着くと、風が強くなっていた。観光客に紛れ、散歩コースを歩いてみた。とてつもない場所に神社があり、参拝後、携帯ストラップを購入した。断崖では強風に煽られて、海を眺めている余裕がなかった。しばらく立ち向かってみたが、危険を感じたので退散することにした。お土産屋に休憩所があり、そこの店員のオバチャンとの会話を楽しみながら一服した後、出発した。
南伊豆を回り、移住夫婦の住まいへと向かった。海から畑へと景色は変わり、のどかな空気に包まれながら走り続けた。一度電話を入れ、場所を再確認する。それらしき建物は、何かの店のようであった。チャイムを押すと、昨日と変わらない笑顔で出迎えてくれた。
中に入ると、一軒屋の建物に飲み屋のようなスペースが連結されていた。ここは元々スナックと釣具屋で、購入後も改造せずにそのまま生活しているとのことであった。スナックで使っていたと思われるソファに腰掛け、約束通りコーヒーをいただいた。煙草に火を点けると、ゆっくりと会話が始まった。旅の話、移住の話、夫婦の話。とても興味深いので、つい熱く聞き入ってしまう。昨日出会ったばかりということなど気にもせず、ここに来るまでの数年間について話をした。優しく微笑みながら、じっくり話を聞いてくれるご夫婦。時折、息子さんの話を織り交ぜながら、助言をしてくれた。決して押し付けることなく、かといって冷たいというわけでもない。穏やかな中にも、現実の厳しさを帯びた二人の人生論は、この旅を限りなく充実させてくれるものとなった。
話は尽きなかったが、時間はあっという間に過ぎていたので、再会を約束して出発することにした。伊豆で偶然出会った人達。こんな出会いがあるから、一人でバイク旅をしてしまうのかもしれない。そうやって人生の道を歩んだ人達が、ここ伊豆にいたのだ。夫婦の写真を一枚撮影して、恥ずかしそうな二人の笑顔を土産に西伊豆へ向かって走り出した。
港、温泉、情緒ある景色を横目に、先へと進む。堂ヶ島に入ると、さすがに空腹を我慢できなくなっていた。大きな土産屋の駐車場にバイクを停めて、地図で現在地を確認しながら食事処を探していると、すぐそばにいた客引きのおばあちゃんが声を掛けてきた。
「あんた腹が減っているのかい?」
「はい…」
「ここ飯食うとこ」
「あ、じゃあ…」
その地下に食堂があった。客はお土産コーナーに、数名のみ。こんな時間に食事する人なんて、あまりいるわけがない。海はやっぱり魚だろうと、鰺刺身定食を注文した。のんびり西伊豆を走り、半島を回って帰ろうと決め、腹を満たした。
遅い昼食を終え、再び北へと向かった。恋人岬。言うまでもなく通過した俺は、旅人岬でバイクを停めた。相変わらず猫に縁があるようで、そこには黒猫の軍団が住み着いていた。
展望台から海を眺める。太陽の光りが海を照らし、遠くの船がそこに差し掛かる。思わず写真を撮りたくなる瞬間だ。しばらく見惚れていると、西北側に富士山が見えたので撮影大会を始めることにした。すると、デジカメが充電切れをお知らせした。デジカメから携帯電話に持ち変え、撮影を続けた。サンセットを見ていこう。
西伊豆は夕陽が美しいことで有名だ。移動している最中に沈んでしまったら、それは寂しい。風もあり寒かったのだが、そこで待つことにした。すると、見物人が増えていた。皆、同じ瞬間を狙っているようだ。しばらくすると空がオレンジ色に包まれ、ゆっくりと陽が沈み始めた。
夜になり、気温も下がり始めるとバイク旅は少々辛くなる。急速に暗くなり始めた港町は灯りがとても少なかった。不慣れな夜のバイク走行に不安を抱きながら、ひたすら走り抜けた。しばらくすると、駿河湾を挟んだ沼津の街灯りが浮かんできた。伊豆半島の終点が近い。バイク旅のオアシスであるコンビニを探す。ずっと生理現象を我慢し続けていた。ようやく見つけたコンビニで生理現象を解放し、店の駐車場でホカロンを身体の至るところに貼り付け、重ね着を増やした。南へ視線を向けながら、バイク雑誌に書いてあった「伊豆は奥深い」という言葉を思い出す。もっと堪能したい。バイク一人旅が、こんなに楽しいものだとは…。素敵な出会いに恵まれた。美味しい海の幸を堪能した。美しい夕陽に感動した。いつかまた走りに来ることを心に誓った。
少し緩やかな夜風を感じ、帰路である東名へとバイクを走らせた。
第6章 手術・入院
四月、扁桃腺手術のため一週間入院することになった。
入院当日の朝、荷物を手に病院へと向かった。手続きを済ませ、ナースステーションで説明を受けた後、病室へ案内され、同室の患者に挨拶をした。病院の雰囲気は独特だ。大学病院を訪れたことは数える程しかない。そこで、まず院内を歩き回った。どこに何があるのか。病院とはどういうところなのか…。
俺の病棟は整形外科、泌尿器科、耳鼻咽喉科の患者がいた。同室の患者は年配ばかりのようだ。自分のベッドから見て、左側の患者とその対面の患者は、何やら親しげに喋っていた。自分の対面の患者は声が出ないらしく、右側の患者はため息を何度もついていた。その対面の患者は、かなりの高齢で大きな独り言をつぶやいている。この五人に囲まれながら、短いようで長い一週間の入院生活が始まった。
左側にいる二人の患者と、少しばかり会話をした。手術の緊張も徐々に高まってきたが、長年拒んでいたわりには、あまり恐怖心がない。早すぎる消灯時間を迎えると、空腹と睡眠、ふたつの戦いを強いられることになった。
手術当日。朝からドタバタと準備が始まった。手術服に着替え、ストレッチャーに横たわり、注射を打たれた後、いくつか説明を受けた。時間が来たようで、ガラガラと手術室に運ばれていく。「これかぁ…」などと思えるのは、大した手術ではないからかもしれない。しかし、看護師達は何かを察していたらしく「緊張しているみたいね?」「手術経験は?」と、雑談を交えてリラックスさせてくれた。ありがたい。手術前に笑顔が出るとは思わなかった。
手術室に入るると、医師や看護師達がプロの集中力を見せ始め、慌しく準備を始めていた。麻酔の点滴を開始して、担当の執刀医が顔を覗いた。紹介してくださった医師の信頼できる後輩であり、通院と検査を繰り返して感じた安心感は、その一瞬の挨拶で手術を委ねる決心ができた。あれこれ考える合間もなく、麻酔によって意識はすぐに飛んでいった…。
何か夢を見ていたようで「あぁ、よく寝たなぁ」と目を開けると、手術していたことを思い出した。すぐに状況を理解でき、言葉もはっきり聞こえてきた。手術室から病室へ戻り、この巨体をベッドに移動できるのか心配していたが、後日談によると、看護師大勢で持ち上げたことを聞いて、大変申し訳なく思った。
朦朧とする意識の中、点滴や尿道に突き刺さっている管が邪魔で、身動きができない。痛みも出てきたが、空腹が断トツに勝っている。しばらくすると、執刀医が摘出した扁桃腺を持って回診に来た。術後すぐにしては、意識がハッキリしていると言われ、少し起き上がって話を聞くと、瓶に入っている切除した扁桃腺を見せてくれた。尋常ではない大きさの扁桃腺が、長年痛みや体調不良の要因として自分を苦しめてきたのだ。「よくもまぁこんなの大きいものが喉に存在していたな」と、握り拳ぐらいに見えたのも、朦朧とした意識でのことだ…。
この後からが辛かった。喉の手術だったため、呼吸が困難になる。角度によっては緩和できるのだろうが、動くことができない。麻酔が切れて、痛みもある。加えて尿道問題。眠れるわけもない。ナースコールをしても術がないことはわかっているし、あまり必要以上に呼ばないと決めていた。想定されている痛みなのだとひたすら耐えた。そして、少人数で膨大な業務をこなしている姿を見ていれば、そうすることは当然だった。魔物との戦いを経験したことで、理由が明確なこの肉体的な痛みを、一晩ぐらいなら越えられる気持ちにさせたのだろう。辛いけど明日になれば解放されることだけを考え、長い夜が過ぎていった。
翌日、尿道の管が外された。どのような表現をするべきか…真の激痛であった。
その後、流動食なるものを経験した。空腹に勝てず、喉は物を通過させられるような状態ではなかったが、痛みに顔を歪めながらひたすら流し込んだ。とにかく腹が減っていたので、執刀医でもある担当医に許可をもらい、アイスやプリンを流し込んだ。食欲があることで、通常よりも早い回復だと何度も言われた。
喉の痛み、点滴をしていること以外、とても元気だ。読書やゲーム、テレビなど、病人でないような病人の時間を過ごしていた。痛みをこらえながらも、同室の患者との会話が増えてくると、人間性や家族関係が見えてくるようになる。これも出会い。学ぶべきことがあると思う。仕事と家族の話を中心に、回復具合を互いに気遣いながら会話を楽しんでいた。
病室内で一番高齢の患者は、どうやら骨折しているらしい。食事はいらないと、いつも怒鳴り散らしている。怪我の具合は良くなっている様子だが、事あるごとに悪態をついていた。
「俺なんか殺せばいい」
「この病院に治る薬はない。退院した患者を見たことがない」
「俺は身体が悪い。もっと丁寧に接しろ」
最初は、看護師も手を焼いているように見えたが、そこはプロだ。非常に慣れている。同室の先輩患者達も、今日は元気がいいとか、今日はおとなしいなど、いつも気にかけている様子であった。
ある日のこと。「家族が来ない。あいつらは俺のことを忘れている」と、高齢患者が喚き始めた。すると翌日、家族が見舞いに来た。ほとんど食事をしない彼が、唯一好んで口にする缶珈琲。それと新聞の差し入れが、見舞いに来た証なのだ。この証拠品を見て、看護師達は家族がいつ来たかを、記憶が曖昧な彼に言い聞かせるのだ。その日、彼は上機嫌であった。「俺は元気だ。お前達が来てくれることが何よりの励み、薬だ」と嬉しそうに話している。いつもはが口悪く、看護師にあたっている彼も、本当は心底寂しいのだろう。多少強がりながらも、喜んでいる様子に見えた。
家族が来ない日は、また叫び続ける。その勢いでベッドの柵を壊してしまった。大きな物音に同室の患者達が慌ててカーテンを開き、状況を確認した。身動きが一番取れる俺は真っ先に駆け寄り、そして右側の患者が作業を手伝い始めた。外れた鉄柵は元に収まらない。すると、右側の患者は「俺の柵と交換しよう」と、入れ替えることにした。看護師には、自らやったことにして、高齢患者をかばっていた。同じ病室にいる皆が、この高齢患者に対して悪い感情がないのだなと、感じる瞬間であった。
高齢患者の家族が来た日には、同室の皆が日常の様子を伝え、礼を言われると誰からともなく「家族との時間が嬉しいみたいですね」と言いながら、微笑んだ。妻や子供、孫が訪れることを楽しみにしているのは、皆同じ。そんな思いは、他の患者を見ていてもよくわかるものだ。
俺の左側の患者と、その対面の患者の二人は、よく会話している。お互いにゴルフが趣味のようで、テレビ中継があると食い入るように観戦し、翌日はその話題で会話が弾んでいた。対面側の患者は学生時代野球部に所属していたようで、真面目な体育会系であることは初対面の時点で伝わってきていた。
仕事の話になると、静かではあるが熱く語る。朝一番、顔を合わせると同室の患者には必ず挨拶をする。とても紳士な人だ。そんな彼の孫が来ると、とてもやわらかい口調で話し始め、優しい祖父の一面を垣間見ることができた。同室の人間に迷惑が掛かるからと、車椅子に乗って部屋の外で面会を楽しんでいた。その姿に、俺の右側の患者がとても感動していた。孫が現れない奥様だけの見舞いの日は、仕事の話をよくしていた。彼は社長なのだ。大きな会社ではないというが、社長という立場を考えれば多忙なのであろう。「任せることが社員の育成にもなるのだが、不安もあるし…やはり頼りにされてしまっているのが原状。甘やかすのもよくないのだが…」と困惑していたが、左側の患者は「頼られるのは人望でしょう。人を育てるというのは難しいことですね」と、語っていた。
その左側の患者が退院する日は、直前に迫っている。退院前夜、同室者数名で仕事や人生について、熱い話が交わされたのだ、その人生や思いに刺激を受けた。そして、俺のことを心から励ましてくれた。旅でもそうであったが、ひと晩や数日間しか共有できない時間だからこそ、語り合えることがある。そこで、こんな言葉と出会えることができた。
「病気という大きな問題と向き合いながら、退院する時には健康について、そして生きることを考えるものだ」
管につながれたまま生きていく現実を受け入れながらも、我が家で生活できることを心から喜んでいた。入院生活での感謝を互いにして、ゴルフの話題を散りばめながら社長患者と挨拶を交わしていた。笑顔が印象深いその患者と奥様は、皆に一言ずつ礼を言い、読み終えたゴルフ雑誌を置き土産に退院していった。社長患者が少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいではないだろう。
右側の患者も、実は社長らしい。退院した左側の患者と楽しそうに会話しているところを、邪魔してはいけないと気遣っていたようだ。やがてその右側の患者も退院した。そこにやってきた新入り患者。その奥様は、わが子のように御主人と接していた。聞こえてくる会話が、不自然なのが気が掛かりであった。
退院前夜、眠ることができなかった。隣の新入り患者が、一晩中叫び続けているからだ。痛みは仕方ない。何度もコールして、看護師が来る。同じ事の繰り返し。
「誰か来てぇママぁ」と、独り言をひたすら大声で繰り返す。
「そこに誰かいるのか?」と、こちらに矛先が向く。
冷静になれば様子がおかしいことや、明らかに異常なことはわかっていたが、俺を含めた周りの患者に迷惑だと、我慢の限界を越えてしまい、思わず棚を殴りつけ怒鳴ってしまった。
その場から立ち去り、談話所の椅子に腰掛けて、しばらく気を静めようと努力した。すると社長患者が現れた。さすがの紳士な社長もお怒りのようで、明日にでも彼の移動を願い出ると言っていた。
翌日、右側にいた患者の姿はなかった。もう関係ないと言い聞かせ、せっせと退院の準備や手続きをした。紳士な社長患者に声を掛け、別れの挨拶をした。対面の発声できない患者に声を掛けたところ、微笑みながら会釈を返してくれた。高齢患者にも軽く挨拶をした。看護師に礼を伝え、手続きを済ませて、無事に退院することができた。
病院には「生きること」や「死ぬこと」に直面している人達がいる。病院が嫌いという固定観念が少し変わりつつあった。乗り込んだタクシーの窓の外、散りゆく桜に季節を感じ、家路に着いた。
第7章 続・坂東巡礼
五月、坂東巡礼を再開した。そして、ひとつの願掛けをするために、日光へと向かった。トラウマになった、いろは坂。大丈夫だと言い聞かせ、転倒したコーナーを駆け抜けた。車体を傾ける度、恐怖心が襲ってくる。手に薄っすら汗を滲ませながら、ひたすら走り抜けた。すると、中禅寺湖が見えてきた。やった。上りきった。目的地である中禅寺に着くと、目に涙が浮かんでいた。
納経帳を手に、ゆっくり札所内へと歩き出した。般若心経を読み上げ、回復祈願をする。自分にとっての恩師が、病と闘っているのだ。名前を書き込み、このぐらいしかできない無力を痛感しながらも、心から願った。鳥の囀りに誘われ、外へと出る。この巡礼も、暖かい季節の中で回れるのかと、少し喜んだ。中禅寺湖では湖と山々、澄んだ青空を写真に収めた。連休のため、観光客で混雑する日光を抜け、次の札所へと向かった。その日は栃木県内を走り、二十番まで回った。
二十一番目の札所は、冬季閉鎖するような場所にあった。崖に狭路にと、悪路極まりない峠道。迷子を繰り返し、細心の注意を払いながら慎重に走り続けた。この巡礼旅で、一番の危険道だ。緊張しながら走り続けていると、札所の案内板を発見した。
納経を済ませると、一人の巡礼客と話をすることになった。その男性は奥様を数年前に亡くし、大好きな旅がしたくて巡礼にやってきた。
「妻と巡礼がしたい」
その純粋な言葉に、熱くなるものがあった。その男性と出会ったのは、何かの暗示であったのかもしれない。巡礼旅は、今も続いているのであろうか。別れ際の後姿が、とても印象に残る男性であった。
次の札所を回り終え、宿泊予定の水戸へ向かった。到着後、時間もまだ早かったため、近所を散策した。定食屋に入り、腹を満たした。部屋に戻り、充実した一日を振り返りながらシャワーを浴びた。明日に備えてくつろいでいたその時、携帯電話が鳴った。
恩師が亡くなったことを知らせる電話であった…。
一瞬、頭が真っ白になった。言葉が見つからない。
業務的な言葉が交わされ、この内容を伝達しなければならない人達の確認をして、終話した。冷たい空気が数秒間流れ、連絡をしなければという義務感が手を動かした。俺には恩師が二人いる。前職で出会った、もう一人の恩師にそれを伝えなければならない。数名に連絡をして、やるべきことをやり終えた瞬間、涙が溢れ出てきた。止まらない。部屋で一人泣き続けた。
今すぐ駆けつけたいが、予定していた茨城の巡礼を回ってから、恩師のもとへ行こうと決めた。それが俺が今するべきことだと思ったからだ。回復祈願は、成仏祈願に変わった。目を腫らしたまま部屋を出て、自販機でビールを買った。永い眠りについた恩師がいる方角へ杯を向け、しばらく飲んでいなかった酒を口にした。今までで一番苦い、寂しい酒だった。
翌朝、虚ろなまま朝食を流し込み、巡礼を続けた。この日回った札所四つ、まったく記憶がない。その足で恩師に会いに行くと、後輩が待っていた。すると、恩師の家族が座っていた。今後のことについて、業者を含め話し合っていた。挨拶をすると「見てやって」と言われ、恩師の顔を覗いた。そこには、今まで見たことのない安らかな顔をした、恩師が眠っていた。
第8章 心の師
恩師に出会ったのは七年前。大学を中退してフリーターになり、いくつかアルバイトを経験した。二十二歳の時、アルバイトを辞めてから半年間何もしなかった。面接に行っては不採用が続き、経験職も受からず嫌気がさしていた。
ようやく採用された職場は、某自動車メーカーの自社ビル(青いビル)にあるパーキングスタッフ。アルバイトは、自分を含めた三名が採用された。スタッフは、三十代から六十歳ぐらいまでの男性が五人、女性が三人という構成だ。その中に恩師がいた。彼は五人の中で真ん中ぐらいの年齢であったが、入社は最後のため一番後輩になる。声が大きく見た目も怖そうで、当時はとても厳しかった。
今回採用されたアルバイト三名は一期生で、後に続々と増えていった。職場は変革期で業務が増加傾向にあり、週末になると多忙であった。相変わらず群れたりするのが苦手だった俺は一線引いて、その職場を観察していた。恩師は口が悪く、言い合いや怒鳴り合いになることも多々あったが、何かとアルバイトスタッフ達を気に掛けてくれた。
ショールームを運営する組織のトップである、もう一人の恩師だけは、自分達の話に耳を傾けてくれた。ひねくれていた俺達でも、その上司にだけは心を開いていたのだ。それは恩師(ここからは心の師という意味で、心師と記す)も十分に感じ取っていたようで、現場のことはそのトップ(ここからは恩師と記す)に随時報告、連絡、相談をしていた。
心師は、仕事を遂行できるやんちゃなスタッフ達を、誰よりも可愛がってくれていた。その現場チームが活気づいてきたと評判が上がったのも、彼の功績と言っていいだろう。組織上、責任者不在だったその時代から心師が前に出て行き、スタッフ達が自然とついていくようになっていった。
一年が過ぎた頃、俺に契約社員として働ける話が巡ってきた。心師と恩師の二人が話し合いを重ね、所属会社とクライアント会社に調整をしてくれていたのだ。その一件を心師はとても喜んでいた。立場は変わっても、信頼関係は全く変わらなかった。そして彼がいるその現場も、急速に変革していった。
初めて、社会人としての仕事を任された。そして、ここから出会っていく何百人という人々、様々な経験は心師と恩師二人なくして有り得ないことだった。感謝をしてもしきれない。こうなった今も、それに変わりはない。
組織が確立していく過程で、変化を受け入れることは容易ではないと思う。人事や指示命令系統、業務内容、何でもそうだ。どんな時でも、心師は人と人の間(文字通り人間)の心に触れ、現場を思い、現場を考え、常に行動していた。口は悪くても、心底では気遣いと思いやりがある。俺は存分に甘えていた。それを、直属の上司に指摘されたこともあった。
そして数年後、正式に組織上のリーダーとして、彼は同じ事務所に席を並べた。彼独自のやり方に、疑問を抱く上司や同僚もいた。議論を重ねたことにより、その疑問はひとつの方法論として認識されていった。そして、実績や結果につながっていく。何より、スタッフからの信頼が厚い。言葉よりも、仕事で返すスタッフにも感心させられた。
正式なリーダーになったことで、失敗や責任も取らなければならない。見掛けと違い、心配性で気を使いすぎるその性格が、彼の魅力でもあった。問題事には真剣に取り組み、神経をすり減らしていた。自分の事よりスタッフの事、そして何より現場の事。これからは若いスタッフ達の時代なのだからと、常に考えるその姿勢。俺はリーダーとして彼を尊敬していた。もしかしたら俺は、心師のようになりたいと思っていたのかもしれない。
彼は自分のチームという視点から、他のチームスタッフにまで配慮を広げていき、信頼の幅は拡大していった。俺は全チームと接する機会が多かったことから、スタッフ管理、リーダーとしての手法、なぜここまで人がついていくのかと、彼をよく観察していた。間違っている点を指摘すると、受け入れる懐。年齢ではないのだという姿勢。スタッフの話をしているときに見せる笑顔。完璧な人間ではないからこその魅力。新しいリーダー像。忙しい心師と、喫煙所で交わす会話はとても貴重な時間であった。相当気遣ってくれていたのだと、今改めて思う。
月日は流れ、心師は自身が癌であることを知った。一見、強そうに見えるが、そんなことはない。滅多に見せない表情で、話があると呼び出された。誰もいない打ち合わせスペースに座ると、話を始めた。
「もう駄目かもしれない」
いつになく弱気な心師に「そんなことはない!治る。治るよ!」と、俺自身の動揺をかき消すかのように強く言い返した。彼はどんな気持ちであったのだろうか。後日、彼の家の本棚に癌関係の本がたくさん並んでいたのを見て心境を察すると、胸が締めつけられる思いだ。報告している彼自身が、一番辛いはず。それを理解するほうが無理というものだ。言葉にならない時間があり、しばらくして「入院中、頼んだよ」と言われたが「わかった」としか返せなかった。
そこからスタッフの頑張りは、素晴らしいものであった。プレッシャーを感じながらも、リーダー不在の業務を遂行していく。支えあいながら、模索しながら…すでにその力は備わっていたのだろう。その力を試される時が来たのだ。そこまで育てた手腕に改めて驚き、心配は心師の容態だけに向けられた。
見舞いに行くと、屋上へ連れて行かれる。おもむろに煙草を吸い始めたので「ったく、この不良患者」と、笑って心配した。ここに来て、ようやく自分の心配をし始めたのだが、やはり話は職場やスタッフの事が中心となった。少しだけ安心したものの、心配が消える事はなかった。この時点では、復活を確信していた。いや、絶対復活してほしいという、願望だったのかもしれない。
毎年行われるスタッフのパーティーで、退院した心師の復活を、彼のスタッフ達が祝ってくれた。心師は号泣した。そこにいたスタッフ達だけではなく、卒業生達を含めた皆が復活を喜んだに違いない。しかし、簡単に全快とはいかない。「少し休めってことだよ」と、俺は偉そうに言い続けた。さすがに自覚が芽生え、無理をしない生活が始まった。不便さを感じながらも、余暇を楽しむ彼の話を聞いて、安堵感に包まれた。
定年まで残された時間で、心師は後継者を探していた。幾人の候補を断念し、俺に白羽の矢が立った。兼務という新しい形で、上司の承認が順調に取れていった。しかし、トップ(もう一人の恩師は異動した)からの承認をもらえなかった。会社の事情、大人の事情…思うことは多分にある。俺以上に、心師は落胆していた。そして、会社が用意した人事案が決定する。時代は変わる。彼は、現場に対する思いを伝えたかったはず。しかし、人それぞれやり方や考え方は千差万別だ。誰が引き継いでも、それは変わるものだと思う。俺だったら…プレッシャーは大きいし、どうなっていたかわからない。挑戦してみたい気持ちが強かったのは事実であり、とても残念であった。
事務所のスタッフで開催した送別会。ここには書ききれない思いがある。感謝がある。勉強になったことがある。寂しさがあり、出会えた喜びがある。それを形にしようと思い、書道経験を活かして筆を握った。「心」という一文字。それは、彼に教わったこと。「ありがとう」を添えて、それを手渡した。
定年の日。朝礼で、心師は最後の挨拶をした。
大勢の人前で話すことが苦手なため、直前まで嫌がっていた。直前に喫煙所で煙草をふかしながら、二人で談笑したのを今でも覚えている。朝礼の時間となり、挨拶する時がきた。マイクを通さない、彼らしい最後の挨拶だった。途中、各チームへ所感を述べていた。違和感があったかもしれない。彼を知らないスタッフにとってみれば、最後の最後に他チームのリーダーから、説教される理由がわからないであろう。しかし、俺は彼を知っているからこそ、この職場に対する思いが伝わってきたのだ。全チームに対する思いと感謝を伝え終わると、彼はゆっくりと跪き頭を下げ、土下座して「お世話になりました。ありがとうございました…」と、言った。
俺は泣いた。ずっと泣き続けていた。朝礼が終わった後も、一人で泣いていた。
普通ならばスタッフ側で慰労の席を設けるのだが、心師は前々から「感謝祭を用意するから、その日は空けておけ」と、言っていた。一期生から現役まで、可能な奴は全員集めると意気込んでいた。こういう形を彼は好む。祝ってもらうことや、感謝されることが照れくさいのだ。心師の誕生日、その感謝祭に参加した。懐かしい面々がそろい、酒を飲みながら騒ぎまくった。
そして、前年スタッフから復活祝いを受けたパーティーで、今度は感謝を捧げる一幕が用意された。二年連続で彼は涙を流し、舞台から降りてきたところで、がっちりと握手した。無言のメッセージであった。定年後は大好きな旅を満喫してもらいたい。陶芸を営む息子さんのもとへ移住する計画など、これから楽しんでいくことが沢山あると、本人が一番思っていたはずだ。
しばらくして、今度は自分が心を壊してしまい、この仕事に導いてくれた、心師に相談をしていた。辞めるということが、恩を仇で返すような気がした。いつも前向きに、仕事を続ける方が良いと助言をくれた心師も、最後は好きにすればいいと配慮してくれた。巡礼を始めたことを伝えると、扁桃腺除去のため入院していた際も「四国お遍路特集の雑誌が発売されたぞ」と、メールを送ってきてくれた。しかし皮肉なことに、彼の容態は悪くなっていった。師と最後の外出となった近所の温泉施設に行った時に、手術痕と水が溜まった腹を見せ、笑顔に曇りがあったことを俺は気づかずにいた…。
再度、心師は入院することになった。彼の家に、入院先にと、入れ替わりで見舞い客が現れた。九州にいる後輩が東京に来たタイミングで、見舞いに行った。その後輩の地元へ心師夫婦とスタッフと四人で、旅をしたことがある。心師は「また行くぞ」と、意気込んでいた。どこか、自分自身に言い聞かせているようであった。強行的に日程を決める心師に戸惑いを感じながら、無理はさせたくないという思いを伝えた。俺は何かできないかと考え、早く巡礼を再開させたい一心だった。
容態が悪化したという連絡が入った翌日、再び病院へ向かった。そして、それが最後の対面となってしまった。意識が朦朧として、人物判断ができなくなっていると聞いていたが、俺の顔を見るなり、俺の名前を呼んだのだ。喜びも束の間、呂律が回らないその口調に、俺は言葉が出てこなかった。ありきたりな会話をしていたところ「もう駄目なら駄目と言ってほしいのに」と、心師は天を仰いだ。癌告知の報告を受けた時のような、力強い言葉が返せない。何とか言葉を絞り出した後、しばらく沈黙が続いた。長年一緒にいた、何気ない沈黙とは違う。よく喋る、あの姿はない。一瞬にして思い出がよみがえる。
心師は管だらけの身体を横に動かし、俺に背中を向けた。色々な感情があふれた。俺自身の寂しさより、彼自身の思いやプライドみたいなものが背を向けているのだと思うと、それがたまらなく辛かった。会話がない。その現実が、とても苦しかった。その時、心師は何を考えたのだろうか。家族が病室に到着すると、たまらず部屋を飛び出して深呼吸をした。背中を向けられたことではなく、背中を向けた彼の心情を考えると、ただ辛かった。男として、先輩として、師として見てきた背中。彼は、俺を拒んだのかもしれない。しかし、それを受け入れるしかなかった。すると彼が俺の名前を呼ぶので、再び病室に戻った。少しだけ話しをして、再び訪れることを約束した。これが最後だとは思わなかったから…。
後日、家族や付き添っていたスタッフから、一度逝きかけて戻ってきたこと、彼が幻覚を見ていた時の話を聞いた。そして、いつもはきつい言葉が飛び交う夫婦の会話で、彼は泣きながら「ごめんな」と、奥さんに呟いたという。
幻覚。彼は職場、現場にいたというのだ。幻覚の中で指示を出し、スタッフの名前を呼んでいたらしい。その話を聞いた俺は、魂が震えた。
神経でもない、感情でもない、心でもない、魂が…。
通夜と葬儀に、心師を慕うたくさんのスタッフ達が参列した。高校生の時に目の当たりにした、祖父の葬儀とは違う、温もりのある空間であった。なるべく笑顔でいた。その方が、彼は喜ぶと思ったからだ。思い込みかもしれないが、その意見に理解を示すスタッフも少なくなかった。しかしこれが無理を誘い、それからしばらくは虚無感と脱力感で、何もすることができなくなってしまった。一人でいたいと、すでにそう思っていたところで、無理をしていたのだろう。
真っ暗な自分の部屋で、一人思い返していた。
心師はこれから旅に出るはずであったのに…。いや、彼はきっと旅を始めている。行きたかった場所へ向かっているはずだ。
そう思ってしまうのは、生者の勝手な言い分であろうか。
第9章 巡礼結願
俺も旅を続けようと、坂東巡礼を再開した。残すは千葉県。一泊して、七つの札所を回りきる。坂東巡礼三十三番目最後の札所は、心師も知っている所であった。アルバイト時代の同期が住職で、その親戚が居る札所なのだ。同期の実家には、心師達と遊びに行ったことがある。この同期が兄貴的存在の人で、心師を親父とした家族だとするならば、その同期は長男のような人物だ。そんな思い出ある場所を、最終目的地とするこの巡礼は、運命としか言いようがない。
二十七番目の札所がある銚子の海から利根川沿いを走りぬけ、成田、そして千葉へと札所を回り、宿に泊まった。翌日、木更津へ南下して東へと方角を変え、札所を回った。三十二番目を終え、そこから最後の札所までの道のりは、海沿いを走ることにした。太東から勝浦、鴨川を抜け千倉、館山と、様々な思い出のある場所を駆け抜けた。
見覚えのある景色が視界に入ってきた。館山の街を通り抜け、三十三番札所に着いた。観音堂で手を合わせ、最後の御朱印をいただいた。名が記された結願証を手にして、満たされる充実感。バイク置き場へ戻り、再び証を眺めていると、色々なことが思い浮かび、涙があふれてきた。
鎌倉へ向け出発した、あの時の気持ち。
日光で二度転倒した日。伊豆の旅。入院生活。心師の他界。
巡礼の再開。旅で出会った人々。
アクアラインに入り、海ほたるで休憩した。外のベンチに腰掛けて、煙草に火をつけた。空を見上げると、雲の隙間から陽の光りが差し込み、海を照らしていた。全貌を見渡した後、もう一度視線を戻すとキラキラと海の一部が輝いていた。とても神秘的なその光景に、ただただ見惚れていた。この旅の終わりに、誰かが最高の瞬間と出会わせてくれたようだ。
心師がよく口にしていた言葉。
「ご苦労さん」
遠く輝くその光の隙間から、確かにそう聞こえた気がした。
第10章 祖父のノート
前述しているが、祖父は俺が高校一年生の時に他界した。約十五年しか共に生活していない。幼少の頃の記憶は断片的で、緊張していたのか会話もあまり思い出せないのだ。残された写真と家族の証言で、新しい発見があった。
祖父の父は秀才であったという。独学で数カ国語を学び、図書館のように書物が溢れかえっていたらしい。彼が残した著書には、通信事業や電話電信関係の作品が多数あり、著者略歴を読むと、確かに凄そうな感じがした。
その父親の影響を多分に受けた祖父は、自分の父親には負けたくないと勉学に励んだという。そう、ライバルは自分の父親であった。そして現代でもエリートといわれる進学コースを歩み、俺でもわかる企業に入社した。
偶然にも晩年、俺が勤めていた隣のビルで働いていた。しかもそのビルのオープン式典に祖父は出席していて、記念品が家にあったのだ。そのため仕事中に悩んでいると、よく隣のビルに向かって語りかけていた。
「どうすればいい?」「祖父だったらどうするだろう?」
顔を思い出してみる。特徴的な顔立ちではなかったが、強面でもなく、どちらかと言えば穏やかな印象であった。これは、孫に見せる顔なのかもしれない。「早く一緒に酒が飲みたい」と、よく口にしていたらしい。今になって、酒を飲み交わしたいと思うようになった。そして、彼の歩んできた人生を聞き、その時その瞬間に何を感じ、考え、思い、どう動いたのか、何が楽しくて、何が悲しいのか。人生って何だと思う、と問いかけてみたい。
会社勤務をしていた伯母に、よく仕事の相談をしていた。その際に、祖父について色々聞いてみた。葬儀で受けた印象と、家族から色々聞いた話を重ね合わせると、祖父は孤独であったのではないかと感じたのだ。どういう立場や人間であれ問題があり、悩みがある。その孤独感は、計り知れないものだ。
今一度、語り合いたい。それが不可能ならば、祖父の事をもっと知りたい。生前、メモ書きをしたノートが残っている。そのノートを辿りながら、応答がなくとも語りかけてみたい。彼の本心とはかけ離れてしまう危険性もあるが、今できる唯一の作業だと言い聞かせるしかない。
ノートを開くと、そこには様々な切り口で言葉が綴られている。日本という国、世界、歴史、会社、仕事、男、女…と振り分けたらきりがない。これは自発的な言葉なのか、出会ってきた言葉なのかは不明だが、どちらにせよ彼が書き留めた言葉なのだ。これを彼の言葉として、一部ではあるが、俺が触れやすいところを記していきたいと思う。
・3S-sleep,smlie,silent
4Sという言葉はよく耳にしたが、3Sというのは初めてだ。睡眠、笑顔、沈黙(無口、無言)と訳すべきか。共通項が見当たらない。勿論、頭文字はSで共通しているのは一目瞭然。ただ、これを読んだときに思い当たることがあった。魔物。そう、魔物と戦っている間に必要としたことや感じたことだ。何気ない、当たり前のことが、日常生活ではとても大事なのだ。
組織的理論のメモがあった。トップの自覚という題で六つの項目、指導者に求められる条件として八つのキーワード、四つのゆとり、心構え。
後継者の選び方として、七つの条件。そして組織で昇進する能力、昇進の条件としてそれぞれ四つの項目が書かれている。最後の二点に注目したい。
・ 組織で昇進する能力
(1) 組織の要求を合理化する
(2) 融通無得の役割演技をする
(3) 権威に盲従する
(4) 他人を本質的には自分と無縁な存在と見る
・ 昇進の条件
(1) 実績
(2) 信望
(3) 人気
(4) 余裕
これは在職中の俺に見せたかったぐらいだ…。すべてにおいて満たしていなかったと言えるだろう。幾つかいただいてきた助言も、簡潔に言えばこういう事だと理解できる。昇進という点では、会社員にとって大きな目標であり、かつ重要事項だと思うが、必ずしもそれがすべてではないという話になると、また変わってくる。俺の場合、働くということから考え直すべきなので、偉そうに何も言えない。会社員として働くのであれば、俺はこのノートを常に携帯すると確信している。
短い言葉に、奥深い意味をもたらす。できれば解釈が欲しいが、勉学に励めというメッセージが祖父から届いている気がするのは、無知の痛手だ。
・地位は人を作る
地位と聞くと、無条件で高いところを想像してしまう。これは誰しもがあるその位置。俺にもあったことだ。バイトだった人間が管理者としての役割を与えられ、指揮者としての地位を自覚(時間を要したが)できたとき、多少なりとも変化はあったはず。至らない点が多々あったことは認める。そして、地位というものから教わることを振り返れば、祖父の地位から何を見て学び、そこから他の地位はどう見えたのか、非常に興味深く思う。
・社長と帽子は軽いほどいい
・経営は情熱と決断と実行である
・きびしい倫理性とはげしい行動性
・「順序」の感覚と「軽重」の感覚
・商売を貫くバックボーンは欲(収入を増やす)とケチ(支出を減らす)である
そして赤線付きなのが、
・本人の不届きと監督の不行届き
これらは更に上を見ながら横を見て、現場を見て、外を見ていた広域な視覚と、先ほどの地位との関連性を感じさせる。まったくもって理解できない部分もある。それを理解する経験と知識を習得していくことが、祖父との会話になるのかもしれない。
指摘されているような言葉。
・昭和四十年前後の生れ
(1) 努力が嫌い
(2) 何でも出来る
(3) 挫折を知らない
(4) 自己中心主義
生まれはもっと後だが、これは…俺のことだ。同じ年代でも努力家や苦労人はたくさんいる。ここでは個人的に受け止めることにした。
・真面目な体制順応派、野暮な反逆派、余裕と好奇心の行動派
どれに当てはまるだろう。どれでもない可能性もあるだろうが、反逆派か。否定するばっかりで、対立する意見を持つ状況はあまりなかった。反逆も知識と計算、体力を十分に持ち合わせてないと成り立たない。ゆえに、無気力従順派といったところか。ここで言う行動派の人間は、必然的に向上心が備わっているように思う。よほどの不正解でなければ、余裕と好奇心の行動派というのは恐ろしく強い人間だ。
参考までに…。
・文章
(1) 要点が分る
(2) 簡潔である
(3) 真実である
(4) 明るい
(5) リピートに耐えられる
リピートに耐えられる…。書類の作成で、上司によく指摘を受けたものだ。俺は文章を書くのが上手ではない。これを基本事項として、見直してみる必要がある。
・「はやらない」ものは「すたれない」
観点が違うかもしれないが、受け継がれていくもの、大ヒットは何をよしとするかで、その対象物は変わってくる。はやっているものがいいとは言えないし、すたれないから素晴らしいとも限らないが、はやったうえにすたれないという不変であり続けること。その究極は、不自然であろうか。はやりに流され、すたれてしまうのは、その対象物よりも人に問題が潜んでいる。それを自覚しているだけに、この言葉には敏感になる。本当に良い物は大きな数字による値の評価ではないと思う。個人的な価値観ではあるが、証明できるほどの材料がないため、とても悔しい。
・クセの無いものは飽きがこない
クセがあるものは根深く印象づける(可能性がある)。入口が広いと、出口も広くなりがちだが、出口までが遠い、または出口がないということか。そんな事を書いていると、次のような言葉を提示されてしまう。
・人はとかく入口で出口のことを考える
前述したことに対して、別の観点で捉えても思い当たることがある。それがたとえ迷路だとしても、迷いこんだその道には、すべて意味があるのだ。
・大きく考えて小さく行う
これは人生論であろう。何にでも共通して言えることだけに、あまり語る必要がないと思う。簡単そうで、難しいことかもしれない。
・人間は自分を正当化せずにはいられない存在である
読んで字のごとく。否定的な俺自身を正当化している傾向がある。そうでなければ生きていけないのであろう。共存とは極めて困難なり。そして、心打たれた言葉がこれだ。
・沈まないためには底辺を広くする
赤線が引いてある。祖父も重要視したのだろう。底辺を広くする作業とは、積み上げると同時に行う、ある種の経験がものをいう。失敗や後悔を土台に変える力こそ強さである。その強さが欲しい。この言葉、祖父はどう解釈したのだろうか。
・不安定な自由か、不自由な安定か、それが問題だ
自由という定義は、思春期に深く考えた。可能範囲が広がることを、自由だとは思えない。本当の自由とは一体何だろう。高校生の頃に、短歌を作成して、提出する課題があった。三つの作品のうち、一つが学校百選に選ばれた。それは自由を題材にした作品で、
「自由とは 何も知らない先生の 後ろに広がる 未知の世界さ」
というもの。反抗期であったこともあり、皮肉をたっぷり込めたつもりなのだが、ある先生が国語学会のレポートにその作品を取り上げたらしく、解説しているレポートの一文を見せてもらったことがあった。その筆者は、とある学者だか思想家だかと、ぜひ対談させてみたいと記していた。「自由」を、純粋に定義するのは困難なものだと、当時から感じていた。学校という限られた範囲で出した、俺なりの定義なのだ。少し話が脱線してしまったが、容易に受け入れられない言葉に聞こえてしまう。現実性を濃くすれば、生活という観点での意味合いなのであろう。
・気にかかって仕方がないのだが理解できないでいるものに人は悪口をいう
悪口の対象に、必ず人間が関わっている。自分もそうだった。思わず「あぁ」と唸ってしまうほどに。批判は多くも悪口せず、というような人がいる。悪口を言う方が心地よい場合もあるような気がするのは、批判の嵐に巻き込まれていたからか。日々批判。本当に耳が痛かった。この言葉、説得力がある。
・余り身近にいるとかえって真価が判らぬものである
これまでも、これからも、きっとそういうものなのであろう。人間、その対象はいくつも存在している。
・急ぐということには必ず誤りが含まれている
これも赤線が引かれている。与えられたものではなく、自ら余裕やゆとりをもたらす事が社会人の幅、高いレベルなのかもしれない。急いで得たことは、失敗かもしれない。
・皆が一緒に居るためには何らかの嘘が必要だ
これは何を指すのか。会社か、家族か、人間関係全体なのか。嘘という定義にも考える点はあるが、現実味にあふれたこの言葉こそが、真実なのかもしれない。
・人生は己を探す旅
先ほど自由ということについて触れた際に書いた、高校時代の短歌のもうひとつ、
「自らを 探しに今日も 歩いてる 人生は旅 我が道をゆく」
というものだ。ほぼ同じ意味合いで捉えてよいのだろう。この言葉、祖父はどう感じたのだろうか。危険というカバンを背負ってこそ、旅が成長を与えてくれる。自分を大きくしてくれる旅の経験が、まだまだ少ない。祖父は人生という旅に出て、多くの景色と人々に出会い、自分を探していたはず。孤独であったという直感が、少しずつ確信に変わる。状況という点だけではなく、内面的なこと。孤独は自分と向き合う、時間であり空間でもある。
・自立した人間には自由として受け取れるものが、自立できない人間にとっては疎外としか受け取れない
自立すること、これは今の自分にとって一番必要なことかもしれない。そこで自由ということを、もう一度考えてみようと思う。
・仕事を続けるためには信用をつなぐ仕事をしなければならない
コミュニケーションと信用。重点を置いて仕事をしてきたつもりでも、私的感情や行動が反映していたことはあるはず。仕事で信用されなければ、指揮者や管理者として責任を負うことはできない。反省点が多々思い浮かぶ…。
・安定は情熱を殺し、不安は情熱を高める
不安がストレスを溜めることになったが、情熱的に仕事をしていた時期もあった。メジャーリーガーのイチロー選手はこう言っている。
「チームの負けこんでいるときにモチベーションをさげる人は、言い訳を求めて逃げているのだと思います」
どんなに逆風の状況でも、そこでやらねばならないことに取り組み結果を出す。プロという結果がすべての世界で比較対象にならなくとも、仕事という共通項ではその通りなのだ。この言葉を唱え続けて、モチベーションの維持に努めてが、情熱は無くなったといっていいであろう。必要の有無をここでは問わない。不安で情熱を高めたかったのが、正直な気持ちだ。
・自由とは多くの角度から物を見られるということ
自由という言葉が再度出てきた。自由は、自分次第で多角的に捉えることができるのかもしれない。何となく理解できる。状況ではない、自分が変わらなければ自由ではいられないと感じるのだ。人生、孤独、旅、自立と自由。何をもって自由なのか。いつの日か、自由とは…という出だしで、再び短歌を書いてみたい。
・知るべきこと 知らなくてもいいこと 知ってはならないこと
この言葉について、知るべきことがあるかもしれない。今はまだ解釈も感想も意見も、固める年齢や時期ではないと感じる。
・非常識な発想はありあまるほどの常識をふまえてこそ生まれてくる
芸術家や音楽家はもちろん、笑いを仕事とする人にも言えよう。俺は笑いを職業にしている人を尊敬する。一概に悪評を受けている対象を見ても、常識がないと思われがちだがそんなことはない。そういう間違った見方をする人間が増えてきているのは事実であろう。
音楽にしてみても俺を含めた聞き手側が、作り手の作品価値や存在意義を低下させているのだと感じる。今はそんなことを気にしたり考えたりする時代ではないのかもしれない。しかし「観賞する」から「鑑賞する」時代が来てもいいと思うのだが…。笑いも芸術、そして芸術がもっと日常にあれば、常識や発想という感性が豊かになるはず。病気になり、ついつい笑いについて真剣に考えてしまう。もっと軽視してこそ日常的か。仕事では常識が足りない人間のため、ここまでにしておく。
・ルートを辿ってルーツへ
響きの良さだけではない。旅をすると、この言葉に深みがあることが分かるはずだ。現在から未来へ進みながら、過去を辿る。非常に魅力ある言葉。
・知識をいくら積み重ねても認識には到達しない
俺は無知である。そのため、知識を詰め込もうとしたが、何をどうしていいかわからない。己を知る必要があると思った。自分という存在は状態、状況を認識しなければ歩き出せないと感じたのだ。そこで知識を積み、活かさねば認識には辿り着かないのであろう。祖父は豊富な知識を、どのようにして生かしたのか。自分自身を認識していたのだろうか。
・退屈の豊かさ 孤独の充実
晩年まで仕事をしていた祖父。ゴルフや駅伝をよく観ていた。酒も強くはないが好んで呑んでいたようだ。定年を過ぎても働こうとしていたその視線は何を、何処を見つめていたのか。何もないと虚無感に襲われがちな俺は、この言葉について、どう思うのか問いかけたい。孤独の充実ができなければ、人生を充実させることはできないのだ。
・体験を知識と技術にし、知識と技術を心にする
俺が心師に教わったことを、細分化したような言葉だ。真似しようともできなかったのは、知識と技術そのものだと。伝えること、伝わること、教えること、教わること、これがどれだけ大切なことか。言葉を知らない自分が情けなくなる。表現が浮かばない。奇跡とは違う…貴重なのだ。その教わったことを再度確認して、分析し、認識する。そして実践しなければならない。これができる人間ならば、理想であろう。
・疑念より始まって、信念で結ぶ
この言葉、解釈が難しい。何を指すのか。対象はいったい…。じっくり考えてみてもよいのかもしれない。直感的な解釈はやめておこう。
・他人がすると許せないことを自分では平気でする
(人を蹴落とし我がことは棚に上げ)
多くの説明はいらない。一番怒りを覚える。
・怠け者や責任を取るのが嫌いな人は見合結婚がよい 祖父が生きていたとして、お見合い結婚を勧められていたら、俺は無責任な怠け者であることをアピールしたい。
生について書いてあった。
・生はその内に死を含み、死はそのことによって生の証となる
・生きられるだけ生きるのではなく、生きなければならないだけ生きる
・生きているから生きていくへ
生きる。人生。命。生きる意味とは?生きる必要とは?哲学に興味があり、まだ入り口を通過しているぐらいの知識だが、少しずつ心情の変化が出てきている。
祖父の最期は脳死状態であった。
恐怖心から、病床の祖父を直視できなかった。生死についての言葉を読む度、彼の晩年や最期を思うと、勝手ながら無念に感じるのだ。心師もそうである。祖父は仕事、心師は旅という計画。言葉を変えれば、夢を持ち、もっと生きようとしていたことを知っているだけに、何とも言えない。この文章を本にして、祖父のノートをつまみに酒を飲みながら、いつか心師の写真を手に四国お遍路へ行きたい。自分がやりたいと思ったことに、二人は絶対存在しているのだ。
この章を通じて、祖父と会話することができた気がする。様々な分野の言葉が散りばめられている。難しい内容ではあるが、非常に面白い。言葉遊びが好きなようにも思えた。ノートの言葉は、まだまだ続いている。教科書ではなく参考書として今後の人生に役立て、楽しんでいきたい。話をしたくなった時に、祖父はここにいるのだ。
俺の父親という人も、言葉を扱う仕事をしていたらしい。自分は、言葉を扱うことに縁があるのかもしれない。いつかその作品にも触れてみたいものだ。最後に「父親」と「自分」のことついて、記してみようと思う。
第11章 魂
父親がいないことを、悲観しているわけではない。
気にならなかったことが幸せだとは思わない。
考えなかったことが問題だと思うのだ。
父親のいない苦労というのは、家族にしかわからない。
そう言えることが幸せであり、贅沢なのであろう。
だから家族が問題なのではなく、存在に対しての疑問や自分の価値観について、平和であった自分が腹立たしいのだ。
うつ病になってようやく気づくことができた「自分」という存在、「生きる」という疑問。俺にとっては「父親」がキーワードになる。父親の人生、価値観、性格など、単純に知りたい。どのような人間なのか。
「父親がいても、うまくいかない事だってある」
そう言った母親の心情はわかる。
心情を理解できるのではなくて、そういう心情があるという「存在」を認めるという意味だ。俺は単純に、存在を確認したいだけ。生存もそうなのだが、存在。父親という人間が存在している、または存在していたという確認がしたいのだ。
「あなたには父親が存在していたが、俺には昔も今も存在していない。その確認がしたいだけだ」
そう母親に言い返した。
家族だとしても、気持ちをすべて理解できるというのは不可能だと思う。愛情や恩恵を受けて、感謝することはたくさんある。しかし、価値観や人生観を受け入れることは、今も容易にできることではない。必要がないと思った。生活面だけではない、精神的な自立が必要なのだ。家族ではない、自分自身に問題がある。
それでも解決には至らない。母親の価値観を否定すれば、自分の生存否定につながるという魔物時代の問題が存在する。話をややこしくしているのかもしれない。しかし、自分の中にある問題や疑問に取り組まずして、何をすればよいのか。気にならないという危険に気づいた以上、俺はこのことについて徹底的に向き合っていくと決めた。生きていくことの中に、何かがあると思うのだ。自分自身の変化に、解決があるとするならば…。
尊敬する須藤元気の著書に、このような言葉がある。
「真実は、自分が変われば世界が変わる。」
彼はある番組の対談でも、「他人や世界を変えたいと思ってしまうことがあるじゃないですか。けれど、それは非常に困難であり無理なこと。自分が変わることができれば、見方が変わるはずなんですよ」と語っていた。変わりたいと願っても、願うだけでは変わらない。本気で変わりたいと行動しなければ、何も変わらない。彼の言葉に導かれたり、助けられたりすることが多くある。付け加えて、彼の発言を記しておく。
「悩みとは、過去や未来のことを考えてしまうこと。すなわち、考えるということは、過去か未来だけなのです。今その瞬間を生きていれば、きっと何も考えないはずです」
「問題から離れると、閃いたり、解答が見つかったりしますよね」
執着しなくても生きては行ける。けれど追求していきたいものは、人生の旅に必要なアイテムだと、自分は信じたい。一生のうち、これは絶対創り出したいという作品が、昔から頭に描かれている。じっくりと創作を楽しむことに、生きる意味や目的が見出せることができるのならば、きっと幸せを感じることができるはずだ。
自分自身についた嘘を認めない人間は、誰も否定することができない。嘘をつかないということは、簡単なようで難しい。自分が清廉潔白、純粋無垢でもあるかのような気持ちでいたと、今では思う。それは大きな勘違いだ。真実が存在している限り、嘘も存在するという事実。自発させている現実。そして、そういう自分自身に気づいたという真実。真実は美しいことよりも、残酷的なことが多いと言う。そんな世の中、世界で生きていくのは、自分でしかないのだ。まだまだ真実と出会うには、知らないことが多すぎる。事実を受け入れ、現実を知らなければ、真実と出会うことはできない。嘘をついたから、嘘に傷つけられた。
自分を見つめ直すという贅沢な時間。誰に聞かせるわけでもない、大きな独り言のような文章を書いたことで、外的要素から内的要素へ、視点を変えることができたと思う。答えが見つからないからこそ旅に出て、文章を書き、本を読み、考える。ある意味、それが答えなのかもしれない。そして、たくさんの人達に感謝したい。伝わらなくとも、それはそれでいい。感謝することに、見返りなどいらない。
魂という言葉が好きだ。
意味を調べたりしたことはない。ただ、その言葉の持つ魅力に、何かを感じるものがある。英語の「SOUL」という表記でも同様だ。霊的なものではなく、愛や夢、自由、心などのように見えないのは当然だが、意味を限定できない神秘的な何かがあると思っている。それは誰にでも宿り、眠っていることも、躍動していることもある。存在に気づいていないことだってある。存在の必要性や重要性を語れば日が暮れてしまうが、それを感じ取る生命感に不思議はないはずだ。眠っていた魂は、心師の幻覚という話を聞き、少しではあるが震えたのだ。そして、自分自信のことを書き出すことにより、その魂は動き始めた。
遺書として書き始めたこの文章であったが、今日も生きている。明日を生きるために、今を生きよう。そして三人の男達に、この言葉が届けばと強く願っている。三人の魂に…。
俺も身を持って言いたい。
「夜は必ず、明ける。」
三十歳…俺は新たな旅に出た。
完
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