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イスラム教徒はなぜ日本で震災のあと改宗者が増えると思ったのだろうーイスラム試論

ちょっと被災したかたにはつらい話かもしれないので避けられるひとは避けてくだされ。というか、トルコが大地震にみまわれ、こちらもまたひどい状況になってしまった。救助の進捗を見守っている(推考をしているあいだにこんなことに…)。


ツイッターで、イスラム教徒(アラビア半島の人…だったかな)に「東日本大震災にあって、日本人にもイスラムに改宗する人が増えただろう」というようなことをいわれた、と怒り狂っている日本人のアカウントをみたことがある。そのかたも文化人類学の学生だったか、社会人類学の学生だったか(うろおぼえすんまそん)。


怒り狂うのが正常な反応、なのかな。


実はわたしもトルコでまったく同じことをいわれた経験があり、わたしは怒り狂うというよりは「そんな事実あったっけか……?」とまず事実確認をするほうにむかってしまい、でもいわれたこともずっと覚えていて、あとになって相手の心情に対し「あー…」と思うことがあった、ということがあった(自己中だなぁとは思ったが、そういうときは自分もまた自己中だと思うべきなのです。自戒)。ので、学生さんにはその怒りは恨みに転じさせることなく、それもまたこころに留めておいて、現地をみつめつづけてほしいかなと思ったので、ちょっと書いておいてもいいのかなと思った次第。

ちなみにわたしの知人ほかも被災地にいるので、他人事ではないというのは一応書かせていただく。


ちなみにこの最後の解釈は、本当にそうかどうかを誰かと話して確認したわけではない。しかしこれを日本人にわかるように(日本人の常識を理解して)解説してくれるイスラム教徒の人がいるかどうかもわからないので、やっぱり書いておくことは多少の意味があるかとも思ったので、書いておく次第。ちなみに論文未満の事例なので、ここにぐらいしか書いておく場所がない(いまのところ)。


イスラムには信者はイスラムについては他人(信徒)の話を聞く必要はないという原則が脈々と流れている。たとえば

1、「イスラム法」というものは存在しない(イスラムの国の法は『コーラン』にのっとったものが一応採用されてはいるのだが内部事情は複雑)。『コーラン』と法とのあいだに、『コーラン』を解釈してそれを書き上げた人間がいる時点で、そのイスラム法は純粋な「イスラム法」ではない。

『コーラン』の形を変えてしまったものは、「イスラム法」でさえ、イスラムではない。だから信者は、自分が正しいと思えば、国や法(『コーラン』ではないわけだし…)にでさえ決然とはむかう(やめれという場合も;)。

中東などで、ウラマー(イスラム学者)によるイスラム解釈に人が集まるのは、純粋に人気のみが理由になっている。そこでは、そうしたウラマーのイスラム解釈から、社会的な共通合意というものができて段々とひとをしばるものになるようなこともない(東南アジアは知りません…というか、なっているという一文を目にしたことがある)。なぜなら、それぞれの信者が「主体的に自分にとっての文言のみを求めている」という状況が脈々とつづけられているから。

この、「誰もが主体的に自分にとっての文言のみを」という意味で、日本語のありかたからはつくられにくい状況、だと思いますがいかがでしょうかね(〇〇に自分の状況はみあうんですかねという問いのほうが多いのではないか、というか。「パワハラ」や「セクハラ」に対してなど。イスラムのほうでは自分「にしか」興味がないが、日本は社会を気にし、社会に対し腰がひけぎみ)。

2、だからこそイスラム教徒の全員が唯一耳をかたむけるべきものとして『コーラン』(原典)がある。

あの人の話は違うなと思えば『コーラン』を読み、そこにしか戻らない。そこにしか戻る必要がない。誰の『コーラン』に関する解釈も聞く必要はない(聞きたいものは聞いてよい。イラン、サウディ等の話は一旦別個で)。神だけが自分を理解することができ、神にしか理解できなくてよい。

そして『コーラン』は、まあ神のことばなのだけど、それをそのとおり守るのがイスラム教徒なのだろうと日本人の多くはいうけどそれは間違い。『コーラン』が「自分」という「唯一無二のこの時代に生きるたったひとりのこの人間」に対し何をいっているのかを判断するのがイスラム教徒(日本人のイスラム教徒etcは知りません)。

それは「わたし」という「現代」の「女性」or「男性」のおかれた、『コーラン』の示された数百年前とは異なる状況の「わたし」にいわれるとしたらどのようなことばになるのか、それを考えるということである。
このような家族構成で、仕事で、教育で、年齢で、ネット環境があって、どこの国に住んでいて、どんな食べ物が好きで、いまこのような状態の……唯一無二の、今この時代、このときにいきる「わたし」に対して。

だから、約1400年前のムハンマドの妻がいわれたことばが「わたし」にもまったく同じように適用されるなどということは、ないのである。

「異教徒を殺せ」が、今を生きるイスラム教徒に即適応されるということもまたないのである(「大体いつの時代のどんな状況のだれに示されたことばだよ」と)。


そして人は、自身のあいたいしている世界が、何を自分に語りかけているのかに集中する。その自分と世界とを分けているフェーズ(自分の輪郭、の外にひろがる全て)を、「神」と呼ぶ(体内も神なのだが、ここでははしょる)。この「神」というフェーズのおもしろいところは、他人は「同じ信仰を持つ信者同士」ではなく、個々にとっては「神」(外界)の一部となっているところ(ここ重要)。その意味で神(外界)とは「すべてのひとにとって」ひとつ「きり」なのである(私が私である限り、同じ「神」は他人には存在しない。人の数だけ「神」(の認識)がある。そしてひとりの人間に、「神」の全貌なぞわかるはずもない…という)。


イスラム教徒が礼拝をはじめるときの唐突感というのを感じられたことがあるだろうか。さっきまでそこにいた人が急に返事をしなくなり、驚いてみてみると絨毯のうえで立ったり座ったりしながら礼拝をしている。道端でも突然はじめる。さっきまで談笑していたのに。

礼拝の時間は大体が決まっているが、団体行動のように人をしばる時間ではない。女性の場合は特に(男性は金曜礼拝があるからそうみえやすい)。

それが地球の自転にともない移動する時間であるということをご存じだろうか。うわぁ礼拝って天体の動きと連動することなのかと思ったらちょっとたじろいだことがある。

人同士の「話」でできたもので自分の「世界」を「理解」しようとせず、世界(礼拝によって人同士の関係から切り離される)が自分に対してなにをかたりかけているのかにたちかえる(エゴを強化する、ともいえるかもしれないのだが)、その機会が「礼拝」であり、イスラム教徒のいう「神」との対話なのだと思っているのだがどうだろうか。


それを震災でみてみると、ニュースや気象台や噂といった人同士の情報ではなく、仏像でもなく(仏教という「宗教」はイスラムとはかなり違うものだと思うのだが))波や音や空をみろ、今日自分に対しおこったことをみろ、みつづけてわかることからさとれ、とでもいうことにでもなるであろうか。世界は人同士の言語でつくられた世界をおしながしてあなたにその存在を示したではないか、というか。

だからその話は「イスラム教徒だったらおこらなかった」といった「メンバーシップ」と救済、といった種類の話ではないのである、と思う。


イスラムの神は人のかたちをしていない。あなたの目の前の物質的存在すべて。それが神(めっちゃ実体)。ただし意図はよみにくい。自然科学がたえずその探求をつづけているのと同じように(世界に対し、人から聞いた言葉を失ったたったひとりの物質的なわたし、を想像するとちょっとわかる)。


だから、神(世界)はわたしを生かし、また守る方法を教えてくれる、と信じて(自己肯定感もりもり)答えをさがすのである。


あなたをとりまく世界があなたに何を示しているか、それをみてみたら、仏像のかたちが何をおしえてくれる?(よくいわれる(笑))。そんなものではなく、あなたの外界が「いま」「どういうかたちで」あなたにあいたいしているのか、それをみることのほうが、ありじゃない?まあそういうことになるかと。

そういう枠組みになると、まあ自分の経験している事実にしか関心がないとか、自分勝手とか、社会人みたいな意識がまるでないとか、でも結果としてやってることは大概同じとかいろいろあることは、わたしも否定しない。そこもあってイスラム世界だと思ってみないといけないことは重々承知していうけど、まあこういう枠組みなのだと思うのであるが、どうであろうか。


ツイッターの学生さんが怒ったのは「信じてないから罰をうけた」「神の力を思い知ったから改宗」の文脈で「そんなわけねぇだろ!(”神”があんなひどいことをするのか!だからって改宗になどなるか!)」と激昂したのだと思うのだが、話していることの枠組みが違うのである(人の形をした、行動する神を想像するか、すべてを含んだひとつの世界を想像するか)。

日本では、イスラムとは異なったかたちで自然に相対しているのである(行政とか気象台とか。見も知らぬ人(観測した人)の言葉を共有してそれを信じる。イスラム的には推奨できない姿勢のひとつ。ただ日本とはそういう言語の世界なのである)。

だからあちら側にしたら、日本人の側の持つ怒りもまた、想定外のものなのではなかったかと思う。


最近別口でたてつづけに宗教をばかにする文言にさらされてきたので、そのまえにイスラムってなんじゃいということがこんなにもまだ書かれてないじゃないかと現地の調査をしてきた立場で思ったので書いてみました、と。

ちなみにここで書いたことはわたし自身が現地のひとびとのあいだにはいって見てきたことがベースになっているので、反論があるひとがおられたら、いつかどこかでぜひお会いして、事例同士を比較して議論いたすことができたらなと思っている。

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