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『この村にとどまる』(マルコ・バルツァーノ/著、関口英子/訳 新潮クレスト・ブックス)

生まれ育った土地で、ずっと変わらない平凡な暮らしを送りたかっただけなのに


初読後の感想がこうだ。

「始めから終わりまで理不尽しかないというのは一体どういうことだ」

胸中で言葉にならないいろいろな何かをどういう形で自分に納得させればいいのか、3回読んだ後でも答えは出ない。

オーストリア、スイス、イタリアの国境沿いにあったクロン村。
第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国からイタリアへ割譲されたという背景があり、イタリア領ながらドイツ語が母語として話されていた。
本作はこのクロン村が、ファシスト、ナチスから相次いで干渉を受け、果ては第二次世界大戦の終戦直後にダム建設のため水に沈められた歴史を、一人の女性の視点から描いた物語だ。
ファシストのイタリア化政策による弾圧に疲弊していたクロン村の人々は、1939年にナチスから「偉大なる選択」と称したドイツへの移住を迫られる。ファシストから解放され、より良い暮らしができると夢見て移住する選択をした者たちと、村にとどまる者たちとの間では深い分断が生じ、その混乱の中で主人公トリーナの娘、マリカが失踪する。
このことでトリーナのみならず、夫のエーリヒ、息子のミヒャエルも深い喪失感、悔恨、怒りをそれぞれに抱えることになるが、この出来事が、物語の根幹をなす重要なファクターとなっていると思う。
村で生じている分断が、まさか家族内で起ころうとは夢にも思っていなかっただろう。肉親に反乱分子がいたようなものだ。トリーナたちにとって、マリカの失踪は二重の意味で衝撃を与えたと言っていい。以降、クロン村に降りかかる災難に直面するたびに、彼女の影はずっとトリーナにつきまとう。

そんな精神的ディスアドバンテージを抱えながらも、トリーナは前を向いて進んでいく。
戦争のことでもダムのことでも、物事の先を見通し、自らの矜持を守るために闘い抜くエーリヒと比べると、トリーナ自身はあからさまな闘争の姿勢を見せることなく、むしろ相反する二つの想いの間で揺れ動く優柔不断な部分があるが、決して流されず、折れたりはしない。しなやかな強さを持っている、とでも言おうか。
異なる視点から物事を捉え、導いてくれる父や、何にも縛られず、悩む前に手を動かすのがモットーの母など、身近な人間に支えられた面もあると思うが、何より彼女は言葉を大切にしていた。心に溜まった様々な想いを書き綴り、やがてそれを手放していく。そうすることで、思い悩みながらも、いろいろなものを消化し、自分の足で立って歩いていこうとする姿勢が見て取れる。それが彼女の魅力だ。

しかし、村の外からの度重なる圧力は容赦ない。
やっと戦争が終わったと思いきや、その翌年にはダム建設計画が再開される。ここで村人たちが一致団結したらまた結果が変わったのかどうかは分からないが、クロン村の住民の大半がダム建設に対し無関心だった。闘う術を知らず、その気力もない。目の前が平穏無事ならばそれで良い。権力の横暴に長くさらされ、疲弊していたというのもあるかもしれない。エーリヒをはじめとする行動委員会のメンバーや司祭の活動、トリーナによる手紙での言葉の訴えもむなしく、最終的には敗北してしまった。この場合は結果がすべてだからこそ、その抵抗活動の過程が生々しく、読み手の心に重くのしかかるようだ。村人たちの上げる声、行進する足音、手を伸ばしても届かないもどかしさに似た想い。

どんな歴史的事実もそうだが、我々は表面的な内容でしか学ばないことが多い。時の権力者によって都合のいいように書かれることもあるかもしれない。ここで文学という手段が、より心の深いところで歴史を理解する良い機会を与えてくれると思う。


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