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【絵本】『ちょっとだけ』瀧村有子/優れた育児書としての絵本

1.育児書としての絵本

地域の子育てセミナーに、講師の助手として同行していた時期がありました。

地域の子育てセミナーなのでいろいろな方が参加されていましたが、中でも圧倒的に多かったのは、子育て中のお母さんたち。
自分の子育てはこれでいいのだろうか、もっといい子育てができるのではないか、そんな思いをもって、わざわざ時間を作って足を運んでくださった方たちでした。

セミナーの冒頭、そんな方たちに向けて、講師はよくこの絵本を朗読していました。

この絵本が、言葉にならない子どもの心の中の切なさと、それを理解し素晴らしい対応をするお母さんの姿を、見事に描き出しているからです。
そしてまた、「人を信頼する」という能力がどのように育つかが、具体的にすうっと理解できる育児書でもあったためです。

物語の最後の数ページに差しかかると、くすんくすんと鼻をすする音が、会場のあちらこちらから必ず聞こえてきました。

あたたかな物語が胸に響いて泣いてしまうお母さん方が、たくさんいらっしゃったためでした。

2.どんな物語?

「なっちゃんの おうちに あかちゃんが やってきました。
なっちゃんは おねえちゃんになりました。」
物語は、こんなふうに始まります。

まずはこの物語のあらすじを、ざっとご紹介します。

 主人公のなっちゃんは、赤ちゃんのお世話で忙しそうなママの手を煩わせまいと、いつもならママにしてもらっていたいろいろなことを、自分でやってみることにします。

 お散歩のとき、いつもなっちゃんの手を握ってくれていたママの手は、いまは赤ちゃんをだっこするために使われています。
 なっちゃんは、手を繋いでほしいとお願いする代わりに、ママのスカートを「ちょっとだけ」握りしめます。

 喉が渇いたとき、いつもなっちゃんに牛乳を注いでくれたママは、いまは赤ちゃんにミルクをあげています。
 なっちゃんは、ミルクを注いでほしいとお願いする代わりに、ひとりでコップに牛乳を注ごうとがんばって、やっとのことで「ちょっとだけ」成功します(そしてたくさんこぼします)。

 夜、いつもパジャマを着るのを手伝ってくれたママは、いまは赤ちゃんを寝かしつけています。
 なっちゃんは、手伝ってほしいとお願いする代わりに、ひとりでボタンを留めようとがんばって、やっとのことで「ちょっとだけ」成功します(そしてたくさん掛け違えます)。

 なっちゃんはそんなふうにして、赤ちゃんのお世話をするママの大変さが少しでも減るよう、自分にできることを精一杯やってみます。

 でも、眠くなったときだけは、どうしてもママにだっこしてもらいたくなります。
 なっちゃんは、眠い目をこすりながら、ママにお願いしてみます。

 「ママ、”ちょっとだけ”  だっこして…」

 なっちゃんが精一杯がんばっていたことをちゃんと見ていたママには、そのお願いがとても切実で大切なものであることが、ちゃんとわかります。

 ママは言います。
 「 ”ちょっとだけ”  じゃなくて いっぱいだっこしたいんですけど いいですか?」

 なっちゃんは、にっこり笑って答えます。
 「いいですよ!」

 こうしてなっちゃんは、張りつめていた気持ちを、大好きなママにたっぷり受け容れ抱きとめてもらいます。

 そのあいだ、赤ちゃんには  ”ちょっとだけ"  がまんしてもらって。


3.心の中の安全地帯

① 挑戦するために、必要なこと

子どもが新しいことに挑戦してみようとするとき、その原動力となるのは、「心の中の安全地帯」だと言われます。

安全地帯となるのは、生まれて初めて心の結びつきを作った、一番身近な大人。
家庭環境にもよりますが、一般的には母親や父親の存在です。

子どもが生まれて初めて、一番身近な大人と心の結びつき(信頼関係)を作ることを、「アタッチメント(愛着)形成」と呼びます。
 
このアタッチメント形成がうまくいくことで、子どもは「人を信頼する」という能力を育むことができると考えられています。
(参考:「ハーロウの代理母実験」

なっちゃんは、大好きなママとの間にしっかりとアタッチメント形成ができていました。

そしてこのことによって、ママが赤ちゃんのお世話のために自分から離れていても、ママの愛情を信頼し、心の中にいるママが「安全地帯」として行動することができました。

安全地帯が心の中にある、ということ。

それは、「失敗しても大丈夫」と思えることでもあります。

何があっても受け止めてくれる人がいる、失敗しても戻ってこられる場所がある、と感じることで、子どもは新しい一歩を踏み出すことができます。

心の中に安全地帯を持っているからこそ、
子どもはいろいろなことに挑戦してみることができます。

② 「受けとめてもらえる」と信じられること

ひとりでいろいろなことに挑戦したあと、疲れて眠くなったなっちゃんは、ママにだっこをお願いし、十分に受け容れ抱き留めてもらいます。

自分の要求をしっかり受け止めてもらう経験を積み重ねてきた子どもは、本当に苦しいことに遭遇したとき、受けとめてもらえることを信じて、こんなふうに自分からSOSを出すことができるようになります。

だっこしてほしいとき。

自分を見つめてほしいとき。

いじめられて苦しいとき。

学校に行きたくないとき。
 
成長するにしたがって「苦しいこと」のステージは移り変わっていくけれど、この「受け止めてもらえる」という信頼があれば、「助けて」と言うことができます。

4.「人を信頼する」という能力

①信頼の部屋

幼い日に「受け止めてもらえる」という経験を積み重ねた子どもの心の中には、人を信頼するためのスペース、「信頼の部屋」ができあがります。

そしてその信頼の部屋に、人生で出会う大切な人たちを、招き入れることができるようになるのです。

両親、友達、先生、恋人、配偶者。

人生のステージによって招き入れる対象は変わりますが、心の中にこのスペースがある限り、人は大切な人との繋がりを信じることができる、と言われています。

②「人との繋がりを信じる」という能力の、計り知れない価値

目に見えない「人の気持ち」を信じる、というこの能力は、人生において計り知れない価値を持ちます。

その能力がどのように育つのか、その具体的な例を日常の場面から切り取って見せてくれる絵本、『ちょっとだけ』。 

子育てをする上でとても大切なことを、優しいことばとストーリーにのせて教えてくれる、とても素晴らしい絵本です。

5.ただただ、あなたを抱きしめたい

最後に、作者の瀧村有子さんのことばをご紹介します。

ご自身の子育てを通じて感じた思い、子どもたちへの溢れる愛情。
あたたかな言葉が、胸を打ちます。

【私の3人の子どもたちへ】

 心の中でいちばん大切にしてきたおもいを、絵本にしました。
 ただただ単純に、あなたたちを抱きしめたいという、お母さんの思いです。
 「ちょっとだけでいから」と言ったあなたの瞳は、まっすくお母さんを見て、「どうかどうか……かないますように」とキラキラしていました。
 お願いはたくさんされるけれど、” 本当にこれだけは特別なお願い ”というときには、ちゃーんとわかるんです。だってお母さんだもの。

 洗濯物は後でたためばいいよね。
 赤ちゃんが少しぐらいぐずってもいいよね。
 その他にも……お母さんがやらなきゃいけない事、たくさんあったけど……いいよね。

 ここにおいで、お母さんのひざの上に。
 あなたはお母さんのにおいをすって「いいにおい」と言いました。
 「そう?あなたの方がもっといいにおい」
 「お母さんはあったかい」と言いました。
 「あなたの方がもっとあったかい」
 そうして、お母さんもあなたもにこにこ笑ったよね。

 私の大切にしてきたおもいは、これからもずっとおなじ。

『ちょっとだけ』作者のことばより




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