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イタリアの秘境を行く #7 モリーゼ編 トランスマンツァ(大移動牧畜)伏線と回収


Il Molise non esiste.”モリーゼは存在しない”?

アブルッツォの山を降りてモリーゼへ。1963年、イタリア20州の中で最後に独立したモリーゼは一番新しい州だ。元々アブルッツォ州の一部だったために、豊かな自然景観も食文化も似ている。何をもってモリーゼなのか?アイデンティティの所在のなさを、モリーゼの人たちは自虐的にこういう。”Il Molise non esiste."(モリーゼは存在しない)。モリーゼに入って、何度かこの言葉を聞いた。もはや自虐を通り越して立派なキャッチフレーズ。"Il Molise esiste."(モリーゼ、あります)というTシャツなんかも売られている。モリーゼは自他ともに認める秘境なのである。

イゼルニアも候補だったが、アニョーネに行き先変更。気になる老舗チーズ屋さんを目指す。
このルートも絶景続きでアニョーネに着くまで人の姿はほぼなく、絶景貸し切り状態。こんな贅沢感こそ秘境を行く醍醐味だ。

モリーゼ最初の目的地は、アニョーネという街のチーズ工房「Di Nucci」。カチョカバッロというチーズをかび付け熟成する珍しいタイプのチーズも製造している。新しいチーズ工房かと思いきや歴史は長く、創業は1662年。HPもちゃんとしている。どこかが買い取ったのでもなく代々Nucci家が経営。気になる。

モッツァレッラチーズの中でも三つ編みのように生地をまとめるトレッチャの製造中だった。

想像していたより小さな規模のチーズ工房ではヌッチ家のご子息、フランチェスコがチーズ作りを見せてくれた。彼はチーズの生産と品質管理の責任者だ。モッツァレッラの製造は何度か見ているものの、なかなかこれはないと思ったのはスターターの菌が代々継ぎ続けている種菌であることだ。種菌のレシピは1800年代に完成し、今も週に2回状態をチェックしているという。自社の味わいの根幹はここにあると。チーズの自家製スターターは、お隣のプーリア州などでも数は少ないが存在し、チーズに複雑な味わいをもたらし、塩分の使用を低く抑えることができるようだ。

モッツァレッラタイプのチーズは80℃ぐらいの湯温の中にチーズの塊を入れ、餅のように引きのばす「パスタフィラータ」という製法で作る。何度も生地をのばして畳んでを繰り返すことで独特の繊維感が生まれる。この作業をさらに高温で、完全なオートメーションで生産をしているのが、日本のスーパーでもよくある裂けるタイプのチーズだ。

80℃の湯を注いでいるところ。これから素手で生地を伸ばす。

生地をのばすタイミングは、もっとも肝心とフランチェスコは強調した。大事なのは酸度の見極め。これを外してしまうとうまくのびない。自分は酸度計を使わないと彼は言った。酸度計では測れないほど、ベストな時は一瞬なのだと。こういうのを聞くとイタリア節だなと思う。機械より手作業への信仰が絶対だ。裂けるチーズのゴムのような味気ない風味や食感ではなく、ミルキーで自然な乳糖の甘味と繊細にほぐれるような繊維感は一度食べれば違いがわかる。

ディ・ヌッチのモッツァレッラ。ソフトだか繊維質の独特な弾力性。噛みしめると淡甘いミルクがジュワッと滲み出る。

リーマンショックで偶然生まれたチーズ

チーズ作りを見せてもらった後は、目的の熟成タイプのカチョカバッロのセラーを見せてもらう。カチョカバッロもモッツァレッラチーズと同じパスタフィラータ製法で作られるが、出来上がったチーズは保存性を高めるために水分を抜いて乾燥させる。モッツァレッラよりは長く保存がきくがせいぜい1〜2ヶ月が賞味期限。ところがヌッチ家のカチョカバッロの一部は、10日ほど乾燥させた後にさらに熟成を重ねる。4ヶ月ほどで青かびのペニシリンが繁殖し、1年ほどすると毛皮のような茶色いカビがびっしりとつく。

見たことのないカビ。毛布で包まれているよう。セラー内は60-80度の湿度があり、この湿度と清浄な空気により発酵が進む。

モリーゼもその周辺も、南部はフレッシュチーズをよく食べる文化圏。ここで熟成カチョカバッロが生まれたというより発見されたのは、リーマンショック後だった。金融危機でチーズが売れず、売れ残ったものをセラーで保管していたところカビが繁殖した。これを販売してはどうだろうと言ったのはスイスから来たチーズの専門家だった。食べてみたら非常に特別かつ美味。ワールド・チーズ・アワードに出品したところ世界的に高く評価され、売れ残ったチーズは一躍ヌッチ家の大黒柱となった。嘘のような本当の話。

チーズとトランスマンツァ

ヌッチ家のミュージアムでは、息子のフランチェスコから父フランコへと案内役のバトンが渡された。「うちの父さん、スーパーマリオに似てるんだ」と息子。登場した父はまあ確かに。しかし顔よりも印象的だったのは、舞台芝居のように抑揚たっぷりな話し方だった。

髭メンは共通。パルマの大学で食品化学を学んで家業を継いだ情熱家。
舞台役者のような父フランコ。熟成カチョカバッロをもって世界進出を果たす。

図らずも、フランコから語られたのが今回の旅のきっかけの一つでもあったトランスマンツァの歴史だった。
「イタリアの農業の歴史にはトラスマンツァ(移動牧畜)があった。このシステムはナポリ王国がスペインに支配されていた時代に導入された。スペインには既に政治が介入して、移動牧畜をルールに則って実施していた。これを中南部イタリアに導入したのがトランスマンツァだ。移動牧畜のために、道幅約110mの道が整備され、フォッジャに税関が置かれた。移動する家畜の頭数に応じて税収が課され、これは重要な収入源でもあった」

ヌッチ家のミュージアムは家族の歴史の記録であり、同時にトラスマンツァという中南部イタリアの牧畜文化の記録だ。祖父、ジョバンニのためにこのミュージアムを創ったと話すフランコ。

想像外の規模、意味、意義。トランスマンツァは牧畜文化であると同時に政治経済だった。また、牧畜だけではなく、羊毛の商売、チーズ職人、関連する労働者などの集団であり、フランコの祖父ジョバンニは、その集団を束ねる代表を務めていた。

ーナポリ王国におけるトランスマンツァの保護や管理の体制は、家畜の移動が一般の交通を妨げたり、耕作地に入り込んで畑を荒らしたりしないように、移動路を設定し、制度面での整備を行なった点で他の地域の放牧異なっていた。ー
ーナポリ王国は、家畜所有者に対し、移動の安全や冬季の放牧地を確保する代わりに、羊毛や家畜の売買をフォッジャの税関が独占し、毎年5月8日から市を開くことで税収を得ていた。ー

「南イタリア小都市群における道とテッリトーリオ」稲益祐太(法政大学)

十代にわたって続くヌッチ家は、初代のロナルド・ディ・ヌッチから代々が牧畜家でありチーズ職人でもあった。フランコが、スーツを着た紳士達が校舎の前のようなところで立っている写真を指差して言った。
「これは重要な写真。なぜだかわかる?チーズの作り方を職業訓練校で教え始めた頃の写真で1920年代のもの。それまで、チーズ作りは各家で継承される家族の秘伝だった。これが、学校で共有される知識に変わっていったんだ」
第二次大戦後、工業化の波がイタリアにも訪れる。気候や環境が変わり、環境汚染により家畜達の食べ物も変わった。豊かに整備された牧草でなく、冬は備蓄された発酵飼料が与えられるようになると、トランスマンツァは形骸化していった。

こちらはチーズ工房に併設されているショップ。アニョーネの街中にもショップがある。カチョカバッロを中心にしたラインナップ。イタリアの食文化を世界的に知らしめた会社として国からも表彰されている。

往時の意味を失ったトランスマンツァだが、近年、新世代の人々や観光客から再び関心を集め、観光資源のような形で一部継続されている。トランスマンツァと共に育まれてきたチーズは今でも十分美味だけれど、豊かな牧草の
の現役時代、その味は如何なるものだったのだろう。

それにしても、個人的に秘境の伏線でもあったトランスマンツァは、実際に見ることはなくとも、ところどころにヒントのような痕跡をみせながらチーズ工房ディ・ヌッチで回収された。今や、トランスマンツァなしにアブルッツォもモリーゼも、そしてプーリアも語れないと考えている。

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