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今、世の中は清貧な欲望があふれている

朝、デコポンを手絞りして飲んでみた。普段なら絶対しないような料理や料理的な行為が、今の自分の日々を占めている。"時間がある時に”としまいこんでいた意識的なものや無意識的なものを行動に移している。移動自粛という未曾有の制限の中で、それでも私たちは刺激や喜びを欲しがり、普段とは違う種類の欲望と向き合っている。食べることで今多くの人たちが発揮しているのは、清貧な欲望かもしれない。

パンの耳や豆が引っかかる

散歩中、初めての道で初めてのパン屋に入った。街パンぽい雰囲気で納豆トルティーヤなどなかなか面白い惣菜パンが並んでいる。いくつか買ったら「1000円以上お買い上げのお客様には無料でパンの耳を差し上げてますので良かったら」と店主の女性。普段なら、もらっても絶対何もしないだろうからとお断りするところ、「えーいいんですか」と考える間も無く貰った自分に自分が驚いた。

パンの耳を見て、小さい頃、揚げパンにして砂糖をふった貧乏臭いけれど美味しいパンドーナツのことを思い出していた。久々にやっちゃう?クルトンにしてみるのもいいかも。なんなのだ、このウキウキ感は。

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ちまちまとパンの耳を刻み、オリーブオイルをかけてオーブンで焼く。オイルが全体に回るようにガサガサ天板を動かしながらものの10分、15分。この時間を普段は勿体無がっているのだ。不細工だけれど売っているクルトンより、風味は断然良い。材料費は限りなくゼロ。サラダに入れたり、スープに乗せたり、そのまま酒のつまみにもなる。汎用性が高いのがわかると、なんだかすごく嬉しくなる。

最近は、豆料理もやたらに作りたくなる。イタリアのマルケ州に行った時にタケシ(本当はステファノというイタリア人)に貰った、古代種のRoveia(ロベイア。グリーンピース的豆の原種らしいと友人が教えてくれた)やcicerchia(チチェルキア。ひよこ豆の原種に近い)をついに棚卸し普通の豆よりも戻すのにうんと時間がかかると聞いていたので、ずっと冷蔵庫で保存という名の放置をしていたのだ。

こちらにタケシは登場しています。  

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こちらがロベイア。赤紫、緑、生成り、白などいろんな色の豆が混じっているのが原種っぽい。ポリフェノール力が高そう。水がどんどん赤くなる。

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水に浸けていたら発芽!冷蔵庫で2年以上放置していたのにおそるべし生命力。免疫力をあげられそう。そして芽を伸ばしたい衝動に駆られる。

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適当に小さく切ったセロリ、玉ねぎ、人参、ニンニク少々をラードで炒めてひたひたの水で煮る。ローズマリーも投入。柔らかくなったら水を加え戻した豆を加える。好みの塩味にしてEXVオリーブオイルたっぷりかけて食べる。

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チチェルキア。砂利のような風貌の豆。こちらもサイズや形がバラバラだ。畑で窒素を固定するために豆を植える。昔は普通に植えられていたけれど、今は有機栽培の畑で植えられていることが多い。

豆は両方とも二日ほど水に漬けた。時間はかかるけれど戻してしまえばスープにするにもあっという間に火が入る。アロマティックなオリーブオイルをたっぷりとかけた野菜の滋味が馴染んだ液体(スープ)に、辰巳芳子さんの命のスープの話が頭をよぎる。非常時のスープは、命のありがたみを感じさせてくれる。涙が出そう。

そういえばクチーナ・ポーヴェラってことか

イタリアの家庭料理は、 "クチーナ・ポーヴェラ"(貧しい料理)と言われる事が多い。家庭にある、ありあわせの材料でマンマが家族の為に愛情込めて作る、恐ろしく民度の高い料理。イタリアで修業した料理人たちは、仕事としての料理の学び舎は星付きレストランに求めるものの、大抵マンマの料理に胃袋を掴まれて帰国する。「店では出せないけれど、心から美味しいかったのは家庭料理。あれには勝てない」。そう彼らは言う。

クチーナ・ポーヴェラを丁寧に言えば、日々の営みの中で人がやりやすい形で、無理はなく、でも味のために妥協する事はなく、食べる時間を尊重して作られてきた打算のない料理なのだと思う。クチーナ・ポーヴェラと聞くと、作っている人の気持ちにキュンとする。経済活動が止まっても、私たちはお腹が空く。食は、一番の欲望のはけ口になる。目の前にあるものを如何に美味しく仕上げ、目の前の人に喜んでもらうか、その思いの純度が増すほど清貧さも増す。

最近、「イタリア好き」(イタリア好きのためのフリーマガジン)のバックナンバーを読んでいた。このマガジンは、クチーナ・ポーヴェラだらけなのだが、カメラマンの萬田康文さんのあるエッセイに、今の状況がとても重なる気がした。萬田さんのエッセイは、パン職人になったある男性の話だった。

若い時分に東京も含む世界のあちらこちらの華やかな業界で仕事をした末に、今は訳あって一人、文字どおり手作りでパンを焼いている。
大量消費の経済活動から遠ざかる事で、人が人らしく生活する世界を、彼の想像できる距離感で作ろうとしている。
僕も40代をを迎え、できるだけそう言う生活にシフトしたいと思いながら、東京でいろんな想いや物を抱えつつ生きている。〜イタリア好きVOL.29  「その家で」萬田康文〜           

図らずも私たちは、人らしさに向かった時の自分の欲望と対面している。コロナ災禍のイタリアでは、天然酵母でパンを焼く人が増えていると聞く。

"愛の不時着"の北の料理が美味しそうな件

最近ネットフリックスでどハマりした韓国ドラマ「愛の不時着」は、ヒロイン演じるソン・イェジンが北朝鮮に不時着して、北の将校役ヒョンビンと織りなす秀逸なラブコメ。ヒョンビンは、北のパッツン前髪でも清潔感溢れる麗しさなのだが、それは横に置いておいて、ドラマに度々登場する北朝鮮の食が今の気分のツボなのだ。それはまさに清貧なる美食。

もちろん実情からは相当盛られているのだろうけれど、第一話でお腹が空いたというユン・セリ(ソン・イェジン)にリ・ジョンヒョク(ヒョンビン)が作ったのは押し出し式の手作り麺。いきなり本格的すぎる。そして、第四話では軍の部隊の部下たちと一緒に貝焼きをする。蛤らしき貝を地面に置いて、酒を振りかけてそこに火を落とすとブワッと炎が立って貝が開く。ハフハフしながら食べているのが妙にそそられる。秘蔵酒(焼酎的なもの?)や塩浸けの牛肉は、客人のもてなしや特別な日のご馳走のために各家庭の地下倉庫で貯蔵されている。秘蔵酒を供されたユン・セリは「私、お酒はソービニヨン・ブランしか飲まないことにしてるのに。おかしいわ、なんなの。美味しい」とのたまう。南側視点で言われると余計にリアリティを感じてしまう。

南の超富裕層のユン・セリは、祖国では星付きレストランでしか食事をせず、しかも三口食べて残す"小食姫”の異名をとっていた。その彼女が北朝鮮でハマったのは、米のおこげ菓子。「まさか私がね〜」と言いながらポリポリおこげを美味しそうに食べている姿に、コロナ禍の食卓の風景が重なってしまう。度重なる妨害や障壁の末、南に戻ったユン・セリは、リ・ジョンヒョクの残していった植物を育て始め、北で取り戻した人間らしさを持続していく。

「生きてゆく」川口松太郎に見る日本人の清貧

これも最近、とある目的で読み直した本「生きてゆく」(川口松太郎著)。第一回目の直木賞作家で川口探検隊で有名になった川口浩の実父である。戦前の生まれで生い立ちは貧しく、戦後の日本の経済的成長とともに才能を発揮し、豊かになっていく時代に文人として、企業人として活躍した。「生きてゆく」は私小説に近いと思われるが、戦後、映画会社の役員を務めていた時に視察でアメリカへ渡り、帰国途中に飛行機が故障し、ウェーキと言う小さな小島に飛行機が不時着(→これも不時着だ)した時のエピソードにも、今の自分たちを重ねてしまった。小島で待機中の主人公の呟きは、松太郎氏の本音に近いのではと想像する。

「味噌汁であったかいご飯が喰いたい」とか「鮭で茶漬けが喰いたい」なぞとかってな事を言い出して日本を恋しがった。こんな極限の地に置かれると人間の欲望は食欲一点に集中する」
「今度のアメリカ旅行で最も印象深いのはウェーキの三日間で、米本国の都市美に感心するものがなく、日本の方がすぐれていると思えるものが多いが、所詮は日本人だ。日本が良いと言うことより日本以外の土地には安住の地がない。所詮は味噌汁の国民であり、鮭で茶漬けの習慣からは抜け出し切れない人間たちの国だ。」
「向こうに着いて何を考えたかといえば、昼は何を喰おうかということだけ。人間がいかに食欲のみを考え、その為に時間をさいていると言うことを考えたな。喰うことが先ず第一で、その為に仕事をしていると言ってもいいだろう。そういうもんだよ。(中略)これからは俺も食事を楽しむことにする、これが生きてゆく土台なんだから」

人の欲望を満たすのは経済だけではない。経済がない中でも、人は欲望を見つけてしまう。日々食べることの清貧なる欲望が、今社会に溢れている。SNSの#料理リレーなんて、清貧なる欲望レシピ全集ができそうだ。 

今の食欲は、清貧なまま維持され続けるだろうか。各国の食料輸出規制の動きに大いなる不安を感じながら、今日は何をどう食べようという欲望を静かに受け止めている。










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