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不幸の生産と五十嵐さん

端的に言うと現代社会が嫌いだ。平和で平等な世界を謳いながら、目を凝らせば裕福の陰に隠れた貧困があり、恣意的な大義を得た力のあるものが人々を殺している。

とりわけ現代を生きにくくしているのは、“差別”の概念だ。LGBTQや性差別、国籍による差別、発達障害への差別、今時は数え始めたらきりがない。 たいていは"少数派"を"多数派"が虐げ、"少数派"の声が不当に掻き消されてしまう構図が多い。

自称正義感に溢れた者たちはこれらをすぐさま問題提起する。そしてネット社会はこれに敏感に反応する。しかし、中には問題提起をしなければ問題ですらなかったこともたくさんあると思う。かつてアフリカに名ばかりの正義の名の許に銃を持ち込んだことによって、血塗られた民族同士の争いが急増していったように。

極端な例を考えたい。生まれつき障害があったり、少数民族だったりするように、我々は生まれつき固有の姓を持っている。日本だと山本とか佐藤とかよくある姓がある一方で、結構変わった姓も存在する。一時期話題となった人の姓でもある佐村河内なんかは珍しいし、読み方で言えば小鳥遊(たかなし)なんて知らなければ読めない人もいるだろう。五十嵐(いがらし)もよくいる姓ではあるが冷静に見るとかなり変な読み方をしている。
こうした珍しい姓を持つ"姓的少数者"は人生のなかで結構苦労しているはずである。「判子が無い」だとか、「書類や手紙で名前を間違えられる」だとか、「子供時代に姓でいじめられる」だとか。生まれ持った特性によって不当に不利益を被っている点では、よく問題提起されることがらと構造は同じである。それでもこれらがあまり問題にならないのは、「問題提起されない」うえに「当事者も問題だと思っていないから」ではないか。(もし問題だと思っている人がいたら申し訳ない)

もし、彼ら以外の誰かが「姓的少数者が不当に不利益を被るのはおかしい、社会が変わらないといけない」と言い出し、「すべての姓の判子をすべての店に置くことを義務付ける」だとか、「難読姓を読めるように義務教育で学ばせる」だとか言い出すのはどう思うだろうか。いままで問題だと思っていたなかった問題が生産されるのはどうだろうか。社会全体として、利益となることであろうか。コストとか、実務とか、実現可能性とか。

さらに、例えば男尊女卑的社会に対して現在は厳しくあるが、昔の女性はそれをある種の当然のものとして受け入れ、与えられた環境なりに諦めながら生きてきたはずである。そこに突然「お前たちは不幸なんだ」「お前たちの現状は問題なんだ」「男どもを叩き直さないといけないんだ。」と言うことによって、いままで不幸だと思ってこなかったのに「自分達は不幸だったのか」と幸福の価値を貶めてしまった人も存在するだろう。
それは五十嵐さんに向かって「お前は読みにくい姓の家に生まれたがためにいろいろな不利益を被ってきた。お前は生まれながらにして不幸な姓なんだ。なんの苦労もしていない佐藤とか高橋はその社会を当然だと思っているし、変えようとしない悪者だからもっと責め立てないといけない。」と言うようなものだ、しかも無関係の部外者が。

当然、当事者が苦しいと思って声をあげること、結束して社会を変えてゆこうとすること、支援の力を求めていくことは支持するし、あるべきことだと思う。最初に挙げた性的少数者や障害などをもつ人の声はこちらだ。彼らの声を拾い上げて我々はできることをしたほうがよい。
疑問を抱いているのは、無関係な部外者が「こんなことも問題なのでは」「こんな発言は差別なのでは」「この振る舞いは侮辱的なのでは」などと憶測でものを言い、ありもしなかった問題を生産することだ。これによって本来傷つく必要のなかった人が傷ついたことになり、不幸を生産していることだ。或いはこの文章もこの不幸の生産に繋がっているかもしれない。

この不幸の生産こそが現代社会、ネット社会の罠のひとつなのだろうと昨晩考えていた。もっと「そっとしておくこと」を現代人は覚えるべきなのかもしれない。

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