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なんで資産形成してるのか、ときどき分からなくなる

 自由を手に入れる。

 そんな気持ちで、いわゆるFIREというやつを目指し始めた。そうして節約、貯金、積み立て投資をこつこつ続け、気づけばもうすぐ丸3年。得たものもあるけれど、失ったものもあるかもしれない。ふと、そんなすきま風が心にひゅーっと吹くことがある。私はなんのために、せっせとお金を集めているんだろう。自由って、どんなものなのだろう。

 そもそも、なんでFIREに魅力を感じたのだろうか。

FIREとは「Financial Independence, Retire Early」の頭文字を取った略語で、経済的に自立した状態で、早期リタイアすることを意味する言葉です。FIREは仕事にもお金にも縛られずに生活したいという人の新しいライフスタイルといえるでしょう。

あおぞら銀行HPより

 そうそう。働かなくてもいい暮らしへの憧れと、仕事が嫌でたまらなかった一種の逃避をこねて混ぜて、出来上がった固い意思という名のコンクリート。それを土台に、FIREという人生設計をしたんだった。どのくらいその石、ではなく意思が固かったのかというと、「これから15年、こつこつ真面目に資産形成を続けるんだ!」という、20代にしては超長期プランを打ち立ててしまうくらいには、と答えるほかない。

 しかし人というものは、良くも悪くも変化していくもので、良い意味では成長と表現することもできる。そして私も例に漏れることなく変わった。正確には仕事を変えた。いわゆる転職というやつ。

 わたしは看護師だった。この仕事は、昼夜逆転の生活に疲弊しながら人様の命を預かるという、まさに修羅場。そして、そんな血生臭い(精神的にも実際にも)現場からは程遠いところに、今の職場はある。

 自分専用のきれいなデスク。

 笑顔あふれる穏やかな同僚たち。
 
 開け放った窓からは陽光が降り注ぎ、そよ風にのったウグイスの鳴き声が聞こえてくる。

 新しい職場は、まさに平穏そのものである。サバンナのヌーが水場を求めて移動するように、私はストレスフルな環境からの脱出を果たしたといえる。


 そんな今の仕事は、もちろん気に入っている。看護師の頃よりお給料は減ったけれど、興味のある分野で働けている。こうなってくると、FIRE(経済的自立&早期退職)の後半は目指さなくてもいいのかもしれないという気持ちになってきて、固い意思という資産形成を支える心理的土台が、少し揺れている。わたしの耐震強度、どうなっているのやら。

 数年も経てば価値観は変わる

 これが身に染みて分かったことが、30代に入って得た知見といえる。しかし、「継続は力なり」というように、資産形成は続けたほうがいいとも感じている。根が臆病な私は、また数年後に仕事が嫌になるかもしれない、病気で働けなくなるかもしれない、と不安を抱えて生きていく様子がありありと目に浮かぶからである。もともと、こつこつ集めたりゲームキャラをレベルアップさせるような「数字を積み重ねること」に快感を覚える性分であることもあり、転職してFIREに固執しなくなった今も、貯金や投資は継続している。


 貯金や投資は若い時間を浪費している。今しかできない体験にこそ、お金を使うべきだ。

 こういった声が、ネット上だけでなく、周りの友人からも聞こえてくることがある。これぞと信じて歩んできた資産形成への道の途中、転職という脇道にちょこっと足を踏み入れた途端に、気にしていなかったこれらの声が大きく聞こえるようになった。

 節約のためにと浪費に使うお金を制限したことで、ここ数年は飲みに出かけることも、服を買うことも少なくなった。これが「今しかできない体験」であるのなら、確かに私は若い時間を無駄にしているのかもしれない。これが心に吹くすきま風であり、ただただお金をため込もうと動かしていた手を鈍らせる。

 とはいえ、使えるお金に制限をかけたことで得たものもある。

 そもそも、機会損失として先ほど挙げた「飲み会」も「買い物」も、むしろ経験すればするほど損失になるものだなと思う。美味しいお酒を味わうのも、一生着続けたい思える服の購入も、月に何度も経験しなくても十分だから。毎週そんなことをしていては、お金も時間も飛んでいく。

 お金を(収入の範囲で)無尽蔵に使える状況は、自由と似ていて、自由ではない。真っ白な紙に「好きに描け」と言われても、困ってしまうではないか。芸術音痴な私みたいな者には、「青と白の2色だけ使ってクジラを描いてください」などと、枠組みを示してもらったほうがありがたいのだ(それで自分にクジラが描けるのかというのは、また別の、技量の問題である)。

 お金の制限という枠組みを設けたことで、付き合う相手も、手に取る衣服も、慎重に選ぶようになった。さらに、アルコールに頼らずとも、おしゃべりしながらお茶をするだけで十分楽しいことに気づき、読書や散歩なんて新たな趣味まで見つけてしまった。人生を楽しむには酒と服しかない、なんて法はない。

 穏やかで静かな時間も、騒がしく楽しい時間と同じくらいの分量で、必要なのである。思考停止でお金を使う暮らしから離れてみて、それが分かった気がする。「今しかできない経験にお金を使うべき」ということには賛成だけれども、そのためにはまず「お金をどう使うべきか」をしっかり考えた方がいい。そして、自分のお小遣いを減らしてみるのが手っ取り早い。

 貯金や積み立て投資には、金額を積み上げること以外にも利点があるようだ。

 貯金や投資をしているのは、資産形成のためである。

 これは、せっせとこしらえた資産が利益を生み出すシステム(いわゆる不労収入というやつ)を形成するというもので、私はこれを「将来の自分のため」に必要なのだというイメージを持っていた。未来にお金を預ける手法である、と。好きなおかずを食事の最後にとっておく私のような人間には、「年を重ねた将来の自分に何か残しておく」というのは、心躍るものがあった。

 しかし、これを書いている今の肌感覚では、資産形成は将来のためだけじゃなく、「一番若い今の自分のため」でもあるのかな、というのがしっくりくるようになった。先に述べたように、この考えは数年後には変わっているかもしれないのだけれど…。

 わたしが転職を決断できたのは、これまでこつこつ積み上げた貯金があったから(もちろん、一睡もできない激しい夜勤を経験したばかりだったということもあるけれど…)。お金がないのに給料を下げる転職をあえて敢行するあほうもおるまい。それと同じように、ひさしぶりの旅行を心から満喫できるのも、いつもより0の桁がひとつ多い服にときめいて「えいやっ」と買えるのも、ある程度の資産を貯められていたから可能なのである。

 まとまった資産という命綱があるからこそ、自分という凧はどこまでも軽やかに空を昇ったり、時には急降下することだってできる。「アリとキリギリス」でいうなら、わたしは圧倒的にアリ派なのだ。キリギリスのように冬のことを考えずに春を楽しむことはきっと、いや絶対に無理。将来に備えることなく今を楽しもうとしても、将来への不安が影のようにつきまとってきて、おちおち花見もできないだろう。それよりは、アリのようにせっせとこつこつ蓄えつつも、ほっと一息つくぐらいの方が、不安と無縁な、穏やかな心で春を楽しめると思う。 

 お金を貯えることは、今の経験を未来に先送りすることではない。倹約と積立投資は、現在の体験のクオリティを下げるものでもない。だから私は、資産形成が若さを犠牲に成り立っているとも思わない。むしろ資産形成に取り組むことで、今の時間をより楽しめている実感すらあるのだから。

 もちろん、資産形成に全力投球して爪に火をともすような暮らしをするのはいただけない。そりゃそうかと逆を行き、若い自分という人的資本に全て投資して一切貯蓄しないというのも、不安定に感じる。「将来と現在、どちらにお金を使うべきなのか」問題。このような両極端なやり方はバランスが悪いけれど、ネットでは対立構造を利用して耳目を集めるのだから、どちらが正義だと白黒つけてすっきりしたいという空気が漂っている。

 これでは、資産形成についてあれこれ考えたい人にとっては、霧が色濃く煙る海で船の舵取りをするようなものではないか。資産形成、つまり人生の舵取りには、なにかしらの指針がないと難破してしまう。目的地はどこにしようか、どのくらい魚を獲ろうか、そもそも魚は売るのか食べるのか、それとも保存食にするのか。そこをはっきりさせておかないのは、北を指さないコンパスで航海するようなもので…。将来へ備えることと、今を楽しむこと。きっと、この間で適度にバランスをとるのがいいのだ。このふたつの天秤のバランス感が、きっと大切なのだ。バズり目当ての極論なんかよりも。


 わたしは少ないものでも楽しく暮らせている。むしろ、お金を使わない暮らしの方がゲーム性があって魅力的だとすら感じる(「酸っぱい葡萄」のキツネみたくなってはいまいかと、日々自問はしている)。その分、貯金や積み立て投資に回せるお金の比率は大きくなる。金額という分銅で計ると、わたしの暮らしは今を楽しむことより、将来へ備えることに比重が偏っているといえるのかもしれない。

 将来と今とのバランス。

 わたしはミニマリストだからなのか、この天秤は分かりやすい方だ。今の暮らしにお金を使わないから、資産形成に回す。大変シンプルである。しかし、普通はこうはいかない。

 物欲を刺激する広告やSNS、自己実現のための仕事、ネットでどこまでも広がる交友関係。ほかにも結婚や出産、趣味に旅行などなど、世の中は多種多様な構成要素で満ちていて、「将来」と「今」、どちらの天秤にのせる分銅なのかと分別するだけでも骨が折れそうである。

 わたしが偉そうにバランス感が大切などと吠えられるのは、ただ単に抱えているものが少ないだけのこと。お盆に皿一枚しか載せていないウェイターが、得意げに走り回っているようなものだ。

重心をとらえることは大切

 


 とりとめもなく書いてきてから、なにを言いたいのか分からなくなってしまった。ようは、資産形成は将来のために今を犠牲にする取り組みではないし、将来と今のバランス感を見つめ直すことは資産形成に関わらず大切なのではないか。

 なんとも味気ない陳腐なところに着地したように思う…。そういえば、なんで資産形成をしているんだろうというところから今回の文章は出発したんだった。あくまで私は、という前提になってしまうのだけれど(そりゃそうだ)、改めて書いてみる。

 将来に備えることで、安心して今を満喫することができるし、未来にも楽しみを置いておくことができるから。

 書きながら、言語化できていなかった感情のしっぽを捕まえられたような気がして、今とても、気分がいいです。  

 ご清聴、ありがとうございました。

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