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不快が教えてくれるもの

雨上がりの匂いが大好きだと改めて感じる今朝のジェニーです


私はたくさんの不快に囲まれて生きていました

ずっと

何年も

何十年も

そして、年を増すごとに感覚過敏も増してきて、時代の変化とともに、世の中に、人生に不快なものばかりが溢れている気さえしていました


感覚過敏があるからこそ生きづらくて、そこまで過敏じゃない人にしたら、何をそんなにイライラしたり、ハッとしたり、ウッてなったり、大げさなって思われて、繊細さが悲しみや怒りもきっと人より多く感じてしまって

自分でも気にするから気になるのかなと、「平気平気」って自己暗示かけてみたりもしましたが、気持ちの問題ではなく、感覚の問題なので、それを思い込みでごまかそうとしても限界があるのです

ましてや薬でいっときのごまかしをしたとしても、根本的な解決にならないどころか、私には、薬による体への負担の方が不快でした

どこまでも薬漬けにすれば、感覚も、思考も、意思すらも無くなるかもしれません

私はそんな状態を望みませんでした

けれども、感覚過敏が私を苦しめていて、頭がおかしくなりそうになったことはたくさんありました

実際、映画館で、隣の席の人があくびを何回もして、その度に顎の関節がゴリッて鳴る音が気持ち悪くて、イライラして、でも言えなくて、しかもとても観たかった「ターシャ・デューダー」の映画なので立ち去ることもできず、片方の耳を押さえながら観ていると、今度は反対側の隣の人が腕を動かすたびに数珠のようなブレスレットからジャラッて音がして耳障りで、両耳抑えながら観ていましたが、完全に抑えるとつまらないし、ずっと小刻みに手を動かしながら聴いていて、結果、私が一番怪しい人物でした


今思えば、やっぱり席を離れれば良かったと分かります

もしかしたら別の席に座れたかもしれないし、別の回でも観れたかもしれません


とにかく、この感覚過敏のせいで!って

苦しくて辛くて絶望して悲観的でありご立腹で情緒が乱れまくっていました


今なら、それが全部「自分自身の全否定」から起こる負のスパイラルだと分かったのです


「自分を否定して生きることの苦しさ」


分かり味が過ぎる程に沁み沁みに身心に痛い程に体感した事実です


真面目で頑固で人に親切に優しく生きようとしている人ほど、実はそうです

自分の心の悲鳴も体の悲鳴も棚の上に置き、目の前の人のことや、周りの人のことを慮るばかりに、一番の最重要優先人物の「自分」をないがしろに、いや、自分は周りの人の幸せのために生きることが幸せなんだ!なんて勘違いしている可能性さえもあるのです


私はそうでした


人生をより良くしようと

ただただひたすらに

がむしゃらに

まっすぐに

人の為に

人に優しくすれば、自分に返ってくると信じて


だからこそ疲れ、すり減り、感覚も麻痺してしまうまで全力を尽くし過ぎて、ボロ切れのようになったのです

よく生きていたと思います


過去を悔やんでも仕方ないから

瀕死の体と心を受け入れ

戸惑いながらも、そこまでなって、ようやく自分を労わると言う「当たり前」のことに気づき、始めました


でも「労わる」と言っても、最初は何をしたら良いのか分からず

私は今まで好き勝手生きてきたつもりだったのに、そうじゃなかった

自分のことなのに、自分の体なのに、自分の心なのに、何をしたら「本当に」自分が喜ぶのか、嬉しいのか、幸せなのか、恐ろしいことに理解していなかったのです


朝も昼も寝ていても、ずっと働けないことや、ただ生きていることへの罪悪感、世間や人の役に立たないことへの不甲斐無さ、何をすればいいのかも分からず、焦る毎日で、労わるどころか

ひたすらに

全力で

まっすぐに

自分を責め続けていました


当然、回復などするわけもなく

当然、何もかもがイラついてしょうがなく

当然、落ち込み苦しみ悲しくてやり切れなくなるわけで


またも生き地獄です

働いていても地獄

働かなくても地獄

生きていることが地獄

か細い呼吸をすることが精一杯の中

自己憐憫に浸る中

馬鹿馬鹿しいとさえ思う時もありました


もっと楽しめばいいじゃんって

お酒を飲んだり、買い物したり、楽しく陽気に馬鹿笑いして

その一瞬はハイテンションで無敵で自信過剰で過ごすけれど

またすぐに落ちて、したことへの後悔とか不安が始まって

また自分を責めて否定して抑制して

押し殺して押し殺して

何者かで生きている


そしたら、本当に自分の真の姿が分からなくなって、心からの喜びや満足もなく

諦めというより投げやりな偽りの毎日


そこに本当の幸せなんかがあるわけがなく

あっても気づくわけがなく


食べたいものがなんなのかも分からない

欲しいものがなんなのかも分からない

行きたいところも

逢いたい人も

やりたい仕事も


5年もかかってようやくここまで来れました


不快な音やにおいやものや情報や感触や味に振り回されて

自分のこの感覚を止めるには

死ぬしかないじゃんって思ったこともあるけれど

たくさんの

誰よりも多くの

快もあることを心から実感し、感謝し、大切にすることで

1ミリずつ、一歩進んでは二歩下がるくらいのスピードで

快を広げることができました


完璧じゃないけれど

半分でも快を満たしていれば十分で

むしろ1%でもそこを徐々に広げていくイメージで

大事なことは決して、快が「在る」ことを忘れないこと


この世での「希望」だから


不快ではなく

快にこそ自分の生きる道があるから


掃き溜めのような世の中でも

自分のピカピカの世界を造ることは可能なのです


ちゃんと自分を肯定できれば、自分の心も信頼しているから、反応したものを誰よりも一番の理解者の自分が認めて、そこからどうしたいかを追求する

「不快」さが分かったら、さらに自分の「快」を追求できるチャンス!

可愛い自分の望まないもの、経験しないと、体験しないと、痛感できなかったことが分かった自分はとても幸運で強運で守られている存在で、どんどん自分の理想の世界を現実を創造できると、今は思えます


誰かの世界とか、世間のルールとか、誰かが決めたことだから、自分に100%合うってわけではない


余談ですが、私は(本当に好きなことを純粋に追求している)変わった人が好きです

自分が好きなことをしていて、自分の世界があって、心から楽しんでいる、そういう変わった人って世間的には浮いているかもしれないけれど、誰にも迷惑をかけていなくて、見た目が変でも、表情には愛が溢れていて、自分を愛せているから、人にも優しいし、押し付けがないし、自分のやり方が絶対正しいとか言わないし、なんなら自分で自分に満足していて満たされているから、誰に理解されたいとも思っていない


ただ大好きな音楽がやりたいだけ

ただ大好きなバイクで走りたいだけ

ただ大好きな服が着たいだけ


それのどこが不良なんだ


そうか、そんな子供たちを脅威に感じた大人たちは、ブルーハーツの「ロクデナシⅡ」みたいに、本当は羨ましくて、羨ましいっていうのは、自分の中にも在る自由とか、好きなものを純粋に楽しみたい心とか、自分を表現することを本当は望んでいるのにできなくて、もしくはしたけれど、同じように大人たちにケチョンケチョンに潰されて、自分を生きることを諦めてしまったことへの怒りとか悔しさとか、そんな複雑な気持ちからなんだろうな


うん


では、長くなってしまうのでまたにします


love&peace&rock⭐︎

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