見出し画像

TOO MUCH PAIN

gooooooooodest godest now on time !!!

 おととい実家を逃亡したので、昨日も更新できなかったジェニーです


意識を高くしたかったと言うよりも、過敏体質で、自分の中の怒りや悲しみや不平不満にも、外の世界のそう言うものも、底なし沼のような重さや苦しさを感じてしまうのが耐えられなくて、必然的に這い上がってきました

何とか沼から抜け出しても、油断したらまた滑り落ちてしまうし、落ちてしまうのは簡単で、またそこからロッククライミングみたいに、一段一段、しがみつきながら登って行って、上に行くほどキツくて、辛くて

なんども何年も沼に落ちては、天井の空を見上げ、どうしたら自由に軽やかに明るく生きられるのか模索し、多くは自分の中の自分と闘いながら、生きやすい現実を創造しようともがいてきました


自分を許せるように、認められるように、どんな時も味方でいられるようになってから、少しずつ、気持ちが軽くなり、責めなくなり、落ち込んでも回復が早くなり、観るもの、聴くもの、触れるもの、食べるものも心地良いものが頭や知識だけじゃなく、体感で分かってきて、合わないものを欲さなくなり、やめられるようになっていきました

体の浄化も出来てくると、ますます思考もクリアになって、今まで気づかなかった不快なものに気づくようになりました


少し回復しても、また感情が乱れたり、体調が乱れたり、生活が乱れると、バランスを失い、荒れ放題に荒れて、手当たり次第に衝突し、傷つき傷つけボロボロになり、沼の底に落ち、もうどうでもいいと何もかも諦めたり、何も感じたくなくて貝のように自ら闇の中に閉じこもったりもしました

目を閉じても、耳が聞こえ、自分の中の自分の声や体の音から、外側の世界の風の音や鳥の鳴き声、時にはハーレーの鼓動に鼓舞されて、まだいきられると思ったり

目を開けて、空を見上げれば太陽も星も雲も美しくて、自分を含めた人間という生き物に絶望しても、自然や動物や虫たちがいつも癒してくれて、満たしてくれました


一つひとつ、変えられるところは変えて、変えられないものも、これじゃダメだって思うのではなく、私は変えられると言葉に出して、信じて時を待ちました


一緒にいると楽しくて、気分が良くて、軽やかで、満たされる人との時間もあったり、愚痴や悪口や悪態や否定的な感情や言葉を発する人との時間もありました

ジャッジしない、全て自分の投影と思えば、どんな現象も必然で、有意義で、学びで、贈り物で

相手がどうこうよりも、まずは自分を整えようと思えるようになりました

そんな自分を誇りに思えます


誰のせいでも無い

誰のものでも無い

自分の人生

自分が主体で生きるとは、自分の意思を持ち、自分で決めて、自分で選択し、自分が責任を持って、自分が後始末をして、ケジメをつける

納得して終わらせる


時代や、世の中の流れは変えられなくても、自分がその流れの中でどうすれば満足か、幸せか、快適か

出来ないことより、出来ることの可能性を探る方に意識を向け、力を注ぐ


自分の弱さ、不完全さ、未熟さ、無知さを知っているから、この世の全てが思い通りにならなくても、自分の目の前の小さな世界、手の届く範囲が黄金律のように調和し、満たされていることで、生きる苦しみを乗り越えられると考えます


それぞれの世界があって

それぞれの聖域があって

それぞれの満足があって

強制的に削って貼って凸凹を矯正するよりも

経年変化で自然にそうなるか

距離を取って

間に風や水を流して

自分の城を守りたいです


快適の追求は、年をとればとるほどに上手くなると思います

自分と調和し、内と外を調和し、今の和音を楽しみ、いつでも軽やかに柔軟に動ける脳と心と体でありたいです


今日は一段と意味不明ですが

どうぞ流し読みしてやってください


人の話なんて「ふ〜ん」で聞いとけばいいのです

心がときめいたら「ふんふん」ってなって

つまんなくなったら「ふ〜ん」でいいのです

聞きたくない内容なら「ふん!」でいいのです


たぶん



今日はnoteが書けて嬉しいです

最後までお付き合いいただき有難うございました


ではまた〜⭐︎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?