人は未来をコントロールしたいと思うけど
もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
三木清の人生論ノートの希望についての冒頭の一説です。
もし、未来におこる一切のことが偶然で起きているのであれば、将来をよくするために努力することはないでしょうし、もし未来におこる一切のことが自然の法則にしたがって必然的に起こる物であるのだとすれば、これもまた将来をよくするために努力することはないでしょう。
私達は未来におこることを因果律にそった確定的なものとしてコントロールしたいと思いを抱きがちになりますが、神様でもないので、未来に起こる出来事なんてだれも正確にはわからない物だと思います。
さて、自助とか自己責任論とか言う言葉があります。解釈が誤っているかもしれませんが、他の人に迷惑をかけないように、自分自身の未来とか将来のことは、自分自身で備えておきなさい。また、下した判断については自分で責任をとりなさいという意味だと認識しています。
未来のためにいくら備えたからといって、備えたとおりに未来が訪れるとは限りません。そんな未来におこることについて、誰のせいでそうなったかと考えるというのは、あまりに複雑な要因があるためわからないと思いますし、その決断の責任をすべてを決断した個人にとらせるというのは、あまりに冷たいような気がします。
自助とか自己責任論とかが支持される背景には、未来は自分の意思でコントロールできるという仮定があるように思えます。しかし、明日何がおこるかですら、私達はわからないのです。そうであるので、未来は不確定な部分を必ず持っているということを受け入れた方が、未来は確定的だと思うよりも精神的に楽になるのではないのでしょうか。
神様はサイコロを振っているかどうか、私にはわかりません。人間にできることは、与えられた知性をもってその出たサイコロの目を見つめ、どのようなときにどのようなサイコロの目が出やすいかを、予測することしかできないのではないのでしょうか。
不確定な未来は不安かもしれませんが、未来がすべて決まっているのであれば、私達は努力もしないでしょうし、なにより逆に希望なんてもてないと思います。だから未来について、すこしでも希望が持てるように今日を生き、明日のことは運命に任せる力が必要だと思います。