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四旬節の黙想① 清いこころといつくしみ

「貞潔(心身を清く保つこと)」はよく誤解されている美徳の一つかもしれません。「自分を押し殺す」ことを他人や教会に強要されるなんて嫌! とネガティブなイメージをもっている人も少なくないと思います。でも「貞潔」は本来、何を目標としている美徳なのでしょうか?

Desert Stream Living Waters(砂漠の生ける湧き水)ミニストリー創立者のアンドリュー・コミスキーさんが6回にわたって指導する「貞潔といつくしみ」シリーズをご紹介しようと思います。この黙想ガイドは、6週間の四旬節(復活祭に向けた準備期間)に合わせた構成になっています。

アンドリューさんは同性愛者でしたが、後に女性と結婚し、4人の子どもに恵まれました。牧師として元同性愛者たちのためのミニストリーを行っていましたが、2011年にカトリック教会に転会。以来、カトリック信徒として活動を続けています(以下、和訳。リンクは文末)。

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美は、もろさに打ち勝つ

アンドリュー・コミスキー
2016年2月15日

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絵:Christ and the Woman of Samaria - Giovanni Lanfranco (1582–1647)

注意深く人目を避けるような、あるたくましい女。彼女はひとりの男の助けを求める声を聞きます。女はイエスの方をふり向きました。そう、イエスは水を求めていました。ですが、イエスはむしろ、女に与えたかったのです――女が必要としているもの、つまり彼女のうちから湧き出て、彼女を永遠に満たす、神のいつくしみの泉を。ヨハネの福音書の第4章(1~42節「サマリアの女」)を読み進めると、この女性の、倫理的に破綻した生活をわたしたちは目の当たりにします。ですが今、この場面でいちばん大切な点は「愛」がこの女のもとにやって来た、ということです。そして、この「愛」だけが彼女を「完全なるもの」にすることができるということです。

「貞潔の徳」とは、「完全性(wholeness)」のことです。わたしたちがよく思い描く、”青白くて覇気のない顔”というイメージとはまったくかけ離れたものです。「貞潔」とは目的をもって、他者に自己を惜しみなく与えることです。「人間の内的統一」(『カトリック教会のカテキズム』2337番)とは、わたしたちは自分の欲望や自意識過剰から解放され、他者の益のために自分を差し出すことができる、ということを意味しています。

イエスは人間として「自己贈与」がなんであるかを体現されました。神としてはもちろんです――ですが、間違いなく人間のひとりとして、それを現されました。イエスは優しくも毅然として女に接しています。イエスは人を惹きつけるのです。サマリアの女自身も不思議に感じたでしょうが、彼女もきっと、イエスを好ましい人間だと思ったことでしょう。いずれにせよ、イエスは彼女にはっきりと”愛”を示しました――この女にとって、”何が最善であるか”をはっきりと示されたのです。

こういった意味で「いつくしみ深い」イエスは、「貞節な」イエスでもあります。「貞潔」とはイエスの、性別(sex)をもつ者として、性(gender)を生きる者としての自己が、唯一たる方(神)への賛美と矛盾することなく、一体化していることを意味します。”縫い目のない“内的統一性――「貞節」である御子イエスは、どのようなかたちであれ「水」を求められました。それはイエスが、ご自分に向けて流れる御父の愛の川をご自身の源泉としているからです。御父の御旨を果たすことだけを求める御子は、男女問わず、どのような人とも非常に人間的な出会い方をしました。この出会いをとおして――この6週間で見ていくことになりますが――、イエスは彼らの人生を「より完全なもの」へと変えていったのです。

わたしたちはイエスではありません。または、堕罪前のアダムとイヴの二人の完全なる複製でもありません――(互いに初めて出会ったとき)恥ずかしがりもせずに、自分がついに孤独ではなくなったことを、性をもつ者として(互いの性の違いを意識しながら)、それを大胆にも喜びあえるような、そのような人間ではないのです(創世記2・18~25参照)。今日のわたしたちはエデンの園の「東(※追放されたという意味)」に住んでいます。恥や恐れや誇大化した欲望に傾いてしまうのです――惜しみなく自己を与える者であるために。それでも――。わたしたちのうちの神の「似姿」はゆがんで、もろくなってしまってはいても、わたしたちは完全にそれを失くしたわけではありません。わたしたちのうちのもっと奥深いところにある何かが、他者を真に愛することができるように、また愛をもって、愛の呼びかけに応えることができるように、と欲しているのです。わたしたちが生きている間、わたしたちは男または女として、この地上で神を表す者として生きているのです。『カトリック教会のカテキズム』は次のようにそれをたたえています――「同等の尊厳を持つ両性は、違った形ではあっても、それぞれが神の能力や優しさの似姿なのです。結婚による男女の結合というものは、創造主の惜しみなく与える心と生み出す力を肉体において模倣する一つのあり方なのです」。(2335番)

わたしたちが「神の似姿」を(この世に)現す存在であるということは、わたしたちがこの真理を「知る」ことができるということです――あなたは「性」をもつ、(他者への)良い贈り物である、ということを。「結婚」とは、そのような贈り物(自己贈与)の表現のひとつです。あなたの男性性は、他者のうちに生命を生み出すことのできることのできる、その力を秘めたものです。あなたの女性性は、そのような生命への、えもいわれぬ「応え」において、創造にあふれたものなのです。独身であろうと結婚していようと「貞潔」は(あらゆる束縛から)わたしたちを自由にしてくれる美徳です。それは「贈り物」となるよう造られたわたしたちが、そのとおりに生きることができるようにわたしたちを成長させ、他者に自己を与えることを学ばせます。 

これを聞いて、少し戸惑いましたか? サマリアの女はひょっとしたら、イエスのまなざしをすっかり避けたかもしれませんね――イエスがあのような優しさをもって彼女と出会っていなければ。しかし同じように、イエスはこの四旬節、全能のいつくしみをもって、わたしたちと出会い、わたしたちとご自分を結びあわせることを切に望んでおられるのです。イエスは、わたしたちのうちに湧き出ようとする「生ける水」の源なのです。この四旬節、自分の古い「井戸」を捨て、主とともに貞潔の徳――「他者に自己を惜しみなく与える生き方」への旅をしてみませんか?

祈り

いつくしみ深い父よ、あなたはわたしを造られました。そして今、わたしを贖おうとしてくださっています。あなたは、わたしが自分を知るよりもはるかに、わたしのことをよくご存じです。わたしをあなたの御前にとどまらせ、あなた(の御業)を待つことができるよう、わたしをいつくしんでください。あなたの愛に満ちた目が、わたしの人間性にかんする、もっとも真実で、もっとも善いものを明らかにしてくださると確信しています。「(神である)あなた」の似姿としてわたしが造られたという事実に、わたしは驚かざるを得ません。あなたをわたしの源として、自分の心に迎え入れたいと思います。性をもつ存在、性を生きる存在として、わたしが生きるべき愛――わたしが与えなければならない、愛の源として。泉よ、湧きあがれ、わたしのうちに。

イエスよ、あなたに信頼します!

記事のリンク:Chastity and Mercy 1: Beauty Trumps Brokenness - Desert Stream Living Waters

https://truthandlove.com/wp-content/uploads/2017/06/Chastity-and-Mercy-1_6.pdf


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