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「人を裁くな」の本当の意味

「そうやって人を裁いちゃダメ。聖書にもそう書いてあるでしょう?」――誰かと倫理問題について話をする時、相手にこう言われることがあるかも知れません。聖書の「裁くな」は何を意味しているのでしょうか?聖書には実際、どのように書かれているのでしょうか?

米国カトリック護教団体「カトリック・アンサーズ(Catholic Answers )」の護教家、ジム・ブラックバーン氏の解説をご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。

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「人を裁くな」?

2007年2月1日

カトリック・アンサーズの護教家である私は、身近な人の「不道徳な行動」に悩むさまざまな人たちから、よく相談の電話やメールを受けます。こんな時、(自分にできることがあれば)何をすればよいのか、もしくはどのように対処すべきなのか分からない、という相談です。

例えば、ボーイフレンドと同棲している成人した娘への対応や同性愛者であることを公言している兄弟への接し方などです。相談者は、成人した子どもや兄弟が、相談者の家の中で、その不道徳なライフスタイルを継続することを許すべきかどうかで悩むことが多いようです。彼らを一晩同じ部屋に泊めなければならないのか? 子どもたちにはどう伝えればいいのか? 愛をもって、この問題に対処するにはどうすればよいのか? 隣人の不道徳な生活を拒否しながらも、その隣人を本当に愛することはできるのか?

このような状況に置かれている人たちは、すでに何らかの行動を起こしてみた人たちが多いのですが、相手からたちまち「あなたは人を”裁いている”」「聖書は”人を裁くな”と教えている」「他人の問題に首をつっこむな」と非難され、打ちのめされてしまったようです。そして、こうも言われたようです――「結局のところ、私はあなたを裁いていないんだから、あなたも私を裁くべきではないでしょう。聖書をよく読んでみなさい」。しかし本当に、聖書はこのように教えているのでしょうか?

聖書のどこにその根拠があるのか? と問うと、その質問に答えられる人であれば、大抵、マタイによる福音書7章に出てくるイエスの言葉――「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」を挙げるでしょう。多くの人はここから「聖書は人を一切裁いてはいけない」と教えていると確信し、そこで思考が停止してしまうようです。しかし、この聖句や関連する聖書箇所をよく読んでみれば、少し違ったイエスの教えが読み取れるでしょう。

まず、イエスの言葉の全体的な文脈を見てみましょう。

マタイによる福音書‬ ‭7章1~5‬ ‭節
1 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 
2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

この箇所を一行ずつ分解してみると、イエスは弟子たちに「他人の行動を裁いてはいけない」と言っているのではないことがわかります。むしろ、他人の行動を判断することが軽率な判断になってしまわないように、また隣人を効果的に諭すことができるように、自ら正しい生活をするように、とイエスは注意しているのです。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」――この言葉だけでは、「他人の行動を裁かなければ、私は神の裁きから逃れることができる」と聖書は言っているのだ、と解釈されてしまいます。すべての人が神に裁かれることになるのですから、当然、これは正しい理解ではありません。イエスはこう言われた後で、ご自身の言葉を肯定的に言いかえられています――「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。実際、イエスは、弟子たちが人を「裁く」ことを求めていますが、自分たちも同じように裁かれる、とも警告しているのです。

この言葉は、『主の祈り』の中の「わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように(マタイ‬ ‭6・12)」という一節を彷彿とさせます。これは「自分が他者に接するように、神も私たちに接する」という単純な警告ではありません。「人に接するときには、できるだけ『神のように』なりなさい」という、私たち一人ひとりへの呼びかけなのです。『カトリック教会のカテキズム』は、このように説明しています。

2842 神の規範にただ外面的に従おうとするだけでは、主のおきてを守ることはできません。おきてを守るためには、神の聖性、あわれみ、愛に、「心底から」、いのちがけであずかるべきです。わたしたちがその導きに従って「生きている」(ガラテア5・25) 霊だけが、キリスト・イエスのうちにある思いを「わたしたちのもの」にすることがおできになります。

先ほど見た聖書箇所の次の2行で、イエスは偽善を戒めています。

マタイによる福音書‬ ‭7章
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。(3・4節)

偽善的に人を裁いても効果はありません。銀行強盗に諭されるコソ泥は、諭した当人をあざ笑うだけでしょう。そこでイエスは、「正しい裁き方」を説きます。

マタイによる福音書‬ ‭7章
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。(5節)

この記事で一番お伝えしたいことですが、疑いの余地がないのは、このイエスの最後の言葉――「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」は、それが正しく行われる限り、キリストが弟子たちに「人を裁くこと」を許可している、ということです。

表面的には、他人の行動を「裁くこと」を非難しているように見える、他の聖書箇所も、その文脈を見れば、上記同様に解釈することができます。他人の行動を正しく裁くという考え方は、新約聖書のいたる所に見られます。イエスはユダヤ人たちに「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(ヨハネ‭7・24)‭と言われました。

また、誰かが自分に対して罪を犯した場合、どうするべきかを弟子たちに教えています。

マタイによる福音書‬ ‭18章15~17‬ 節
兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

人の行動を裁くことなく、イエスの教えに従うことはできないのです。

パウロも、他のキリスト者を正しく裁くことを勧めています。

コリントの信徒への手紙一‬ ‭5章12~13‬ ‭節
外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
コリントの信徒への手紙一‬ ‭6章2‬~18節
あなたがたは知らないのですか。聖なる者たち(キリスト者)が世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。 ・・・みだらな行いを避けなさい。

旧約聖書を見ると、同じような教えがあります。

レビ記‬ ‭19章15節‬ ‭
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

多くの人が信じたがっていることとは反対に、聖書が、私たちに「他人の行動を正しく裁くことを勧めている」のは明らかです。しかしイエスが弟子たちにされたように、『カトリック教会のカテキズム』も私たちに注意を促しています。

2477 他人に不当な損害を与える可能性がある態度を取ったりことばを使ったりすることは、人の名誉を守るために、すべて禁じられます。

――たとえ口には出さなくても、十分な根拠もないのに、隣人に道徳的欠陥が本当にあると考える者は、軽率な判断の罪を犯します。
――客観的に正当な理由もないのに、他人の欠点や過ちを当人を知らない人間に教える者は、悪口の罪を犯します。
――真実ではないことをいって、他人の評判を傷つけ、当人に対する誤った判断を抱かせるような情況を作り出す者は、中傷の罪を犯します。
2478 軽率な判断を下さないようにするためには、一人ひとりの者が、隣人の考えや、ことば、行いなどをできるだけよい意味に解釈するように心掛けるべきです。
「善良なキリスト者はだれでも、人の説くところを非とせず、むしろ、これを正しい意味に解釈していこうという心構えを持つべきです。また、もしそうできなければ、その人がどのように解釈しているのかを尋ねてみて、万が一、解釈に誤りがある場合は、懇ろに正してやらねばなりません。それでもなお効果のないときには、当人がそれを正しい意味に解し、誤りから抜け出すことができるように、適切なあらゆる手段を講じる努力をすべきです」

とはいえ、相手の「行動を裁く/判断すること」と、その人の「魂の永遠の状態を裁くこと」とは、大きな違いがあります。後者の裁きは、神のみが行うものです。イエスは、この後者の裁きについても言及しています。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭5章22~30‬ ‭節
また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。

この文脈では、イエスは明らかに、裁きとは「断罪や永遠の罰」であると語っています。そのような裁きは、キリストだけにゆだねられています。

では、愛する者の不道徳な行いに直面したとき、私たちはどのように、その行動を正しく裁けばよいのでしょうか? イエスの言葉を借りれば、私たちはまず自分の目から丸太を取り除くことから始めなければなりません――良い模範となるために自ら最善を尽くさねばなりません。そして、自分の良心を正しく形成し、罪を見たらそれが罪だと分かるように努めなければなりません。最後に、他の人が罪を犯しているかどうかについて、結論を急いではいけません。そうすることで、私たちの諭しが、私たちが意図した「愛ある行動」として、相手の目に映るようになるでしょう――愛する者が神の前に正しく生きることができるように、彼らを助けるための助言として。そうして初めて、私たちの努力は、兄弟の目から“醜いおが屑”を取り除くために効果的となるのです。

記事へのリンク: "Judge not? " by Jim Blackburn - Catholic Answers


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