罪を憎んで、罪びとを愛せ
「それはよくないから、やらない方がいいんじゃない?」――このように相手に指摘することは、昨今難しくなっているようです。人の行動が「倫理的に間違っている」と指摘することは、愛に反することなのでしょうか?キリスト教の「罪びとを愛せ」という教えは、実際どのように生きればよいのでしょうか?キリストなら、どうするでしょうか?
カトリック護教家のデイヴ・アームストロング氏の記事をご紹介します(以下、和訳。リンクは文末)。
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「罪を憎んで、罪びとを愛せ」 ――まさに聖書的!
デイヴ・アームストロング
2020年1月29日
「罪を憎んで、罪びとを愛せ」――多くの人によれば、この文言は”聖書的”ではないそうな。しかし私たちは、聖書で実際に使われている「言葉や文言」と、聖書に存在する「概念や観念」とを区別しなければなりません。確かに、この文言は聖書には出てきません(「三位一体」「聖変化」や「教皇」という言葉と同じように)。しかし、これから説明するように、この概念は確かに聖書の中に存在します。
今日、この文言や似たようなことを発言すれば、あなたはそのまま自動的に「ヘイト・クライム」の認定を受けるでしょう。なぜなら、この二つの区別は抹消されてしまったからです――ポストモダニズムの主観的・相対主義の世代によって。また、客観的で絶対的な真理(特に倫理問題に関するもの)を嫌悪する世代によって。
今日の主流な文化では、「罪」を憎むことは、それをおかした「罪びと」を憎むことと同じだとされています。何を批判しても、すぐに "ヘイト(憎しみ) "とされてしまうのです。誰かを批判したり、誰かが罪をおかしていることを指摘することは、その人への「個人攻撃」だと見なされるからです。そのおかげで、誰に対しても反対意見を述べることはできなくなってしまいました。
「罪を憎む」という行為は、聖書的にはありえない”付け足し”なのでしょうか? 罪をおかした罪びとも、同時に憎まなければならないということなのでしょうか?――いいえ、どちらでもありません(もしそうであれば、私たちは皆、自分自身を憎まなければなりません。皆、罪びとなのですから)。巷で流行っているカッコいいものや最新のトレンドやファッションとは関係なく、聖書は、その他たくさんの事柄とともに、この原則を示しており、いつの時代もこれが変わることはありません。
この原則は、私たちの行いに適用されるべきものとして示されています。
詩編 45編7~8 節
神よ、あなたの王座は世々限りなくあなたの王権の笏は公平の笏。 神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに。神、あなたの神は油を注がれた。喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
詩編 97編10 節
主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。」(参照:詩編101・3、119・104、128、163)
箴言 序 8章13節
主を畏れることは、悪を憎むこと。 傲慢、驕り、悪の道。暴言をはく口を、わたしは憎む。(参照:13・5)
シラ 17章26節
いと高き方に立ち戻り、不正に背を向けよ。〔主御自身が、お前を闇から救いの光に導いてくださるから。〕 忌まわしいものを憎みに憎め。」(参照:19・6)
そしてこの原則は、神についても同じように表現されています。
イザヤ書 61章8節
主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。 まことをもって彼らの労苦に報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。(参照:マラキ2・16)
ユディト記 5章17節
彼らは、神に対し罪を犯さない間は栄えました。不義を憎む神が共におられたからです。
シラ 15章13 節
主は、忌まわしいことをすべて憎まれる。それらは、主を畏れる人にも好ましくない。(参照:10・7)
ヨハネの黙示録 2章6節
だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。(参照:ヘブライ1・9)
私たちがすべての人を愛するように招かれていることは明らかです。聖書から関連箇所をわざわざ引っ張ってくる必要すらありません。と同時に、上記の聖句は、私たちが罪を憎むべきであることも教えています。この2つは全く相容れないものではありません。どちらも聖典の中で間違いなく教えられていることです。もし、一カ所に両方の概念が出てくる箇所を知りたいのであれば、次の節がそれに当てはまります。
ローマの信徒への手紙 12章9~10節
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
私たちの主イエスは、上記の箇所ほど簡潔ではありませんが、様々な方法で同じ原則を教え、その原則を自ら生きました(黙示録2・6では、主イエスの言葉が記録されていますが)。その多くは、「知恵文学」――箴言や実用性を主テーマとする聖書の書物――に書かれています。姦淫の罪で捕らえられた女性とイエスとの出会い(ヨハネ8・3~11)は、主がこの原則を適用された具体例です。キリストはその行いと言葉をもって、私たちにお手本を示してくださいました。
確かに、イエスはこの女性に慈愛を感じ、それを示されました。しかし、主がこの女性の罪を容認したことは一瞬たりともありませんでした。主がされたことはただ、彼女を石打ちの刑にしようとした人々も皆、罪びとであると指摘することでした。その後で、主は女性に「もう罪をおかさないように」と言われたのです。現代のキリスト者が嫌われる理由は、この最後の部分のせいでしょう。
もし私たちが、そのようなことをあえて指摘しようものなら(特に現在最も”流行っている罪"について)、多くの人たちの憎しみの対象となってしまうでしょう――「罪をおかしている」とか「罪に囚われている」と他人から言われたくない、と。彼らは、キリスト教が教える”愛”や”思いやり”、”赦し”の面だけを好むのであって、倫理的な教えはあまり好まないのです(特に、性行為を制限すること、またその倫理的許容を特定の範囲や制限――すなわち男女の結婚――のなかで定義することを)。
しかしイエスは、まさにそのように話しているのであり、完全に聖なる存在として、私たちの模範となっているのです。また、別の聖書箇所では、ご自分の名のために私たちキリスト者が嫌われることをキリストは予言しています。イエスはこの女性に「罪深い生活をまた再開しなさい」とは言いませんでした――すべてが赦されているから、あるいは赦される予定だから、あるいはどんな場合でもイエスは彼女を愛してくださるから、と(これは「アンチノミアニズム[反律法主義、無律法主義]」として知られる誤りです)。
キリストは、女性に「もうやめなさい」とおっしゃいました。罪が人を滅ぼすことを知っておられ、そのために罪を憎んでおられるからです。私が「聖書的である」と弁論しているこの原則に、イエスが則って行動する箇所が他にもたくさんあります。
例えばマタイ9章9~13節には、イエスがマタイを自分の弟子にしようと呼んだ時のことが書かれています。イエスはマタイの徴税人の友人たちを愛しつつも、同時に彼らを”罪びと”と呼びました(現代では「絶対にやってはいけないこと」ですが)。イエスは明らかに罪を嫌っておられました。「罪びとには病気を治してくれる”医者”が必要だ」と言われるほどです。イエスは霊的な病気(罪)を表すために、身体的な病いという比喩を使っているのです。
ルカの福音書7章36~50節も同様です。ここでは、罪を憎んだが、罪びとを愛さなかった(善意のつもりだが間違っている)ファリサイ派の人について書かれています。イエスは、ここでもその「両方」のことをされました。イエスは、ここに出てくる女性が罪びとであることを否定しませんでした。イエスは「彼女の罪は多い」と語り、そしてファリサイ派の人は彼女よりも(少なくともいくつかの点で)大きな罪びとであることを示唆しました。イエスは、私たちが習慣的にしてしまう(”罪を憎むこと”と”人を愛すること”の間に)二文法をつくるようなことはしません。人から好かれようとして、「相手のために(愛をもって、優しく、できれば信頼関係のなかで)間違いを指摘すること」を避けたりするようなことは。
私たちは、すべての人からたたえられ、褒められ、好かれ、愛され、慕われるのが好きです。しかしイエスが望まれるのは、人々が罪をおかさず、癒され、救われるのを見ることです(たとえそのために人に否定されたり、憎まれたり[あるいは殺されたり]しても)。私たちは、もっとイエスのようになるべきでしょう。
記事へのリンク: "Hate the sin, Love the sinner- quite Biblical!" by Dave Armstrong - National Catholic Register
※「罪を憎んで、罪びとを愛す」という言葉は、聖アウグスティヌスの言葉から生まれたと言われています。
聖アウグスティヌスの『手紙211』(424年頃)には、「Cum dilectione hominum et odio vitiorum」という言葉があり、これは大まかに訳すと「人間を愛し、罪を憎む」という意味。この言葉は「罪びとを愛し、罪を憎む」や「罪を憎んで、罪びとを憎まず」(後者はマハトマ・ガンジーの1929年の自叙伝に登場)として有名。
リンク:Who said, "Love the sinner, hate the sin?" - Catholic Answers
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