痛みを知る
「失ってから初めて気付く」とよく言われるものがある。
いつの間にか片方落として間抜けになってしまったいつものお気に入りのイヤリングであったり、潰れてしまった家から一番近いコンビニであったり、自分の存在を肯定してくれる恋人であったり...
いつの間にか自分の(生活の)一部になっているものたちである。自分という存在が少し欠けてしまった気分になる。
もっとも、”健康”以上に「失ってから初めて気付く」大切な存在として当てはまるものはない。今までできていたことができなくなる感覚。存在を、生を脅かす。これほど恐ろしい痛みは無い。
妹が突発性難聴という病気に罹り、治療のために入院を余儀なくされてしまった。
彼女はとても真面目な子で、元よりそんなに丈夫な方ではなかったのだが、休みなく働いてきた。下積みが重視される仕事で、我慢をしながら、不平不満を抱えながら、人を笑顔にするため地道に技能を習得しながらこれまでやってきた。
きっと彼女は、そんな数年の頑張りに「やってきたことは意味があったの?」とか、「こんなになるまでやりたいことなの?」と、難癖をつけられているような気分だろうが、この先のキャリアは右肩上がりで明るいものだと信じてまた歩いて行って欲しいと、兄の僕は応援している。
また、彼女の頭の中にあるのは上記のような不安だけではなく、冒頭から述べてきたような恐怖も、同じかそれ以上に生まれていることだろう。
突発性難聴というのは、最悪の場合聴力を失い戻ることのない可能性がある病気だ。接客業に従事する彼女は、お客さんとのコミュニケーションに不利が生じるかもしれないとか、音楽を聴くのも映画を観るのもちょっと楽しくなくなるかもなとか、今までに想像したこともないような可能性を考えたりしているかもしれない。
僕の場合も彼女ほどではないにせよ、少し恐怖心を感じている。”empathy”というか、「聴こえない状況」を考えるようになった。
街を歩いていて車の近寄る音に気付かなかったりだとか、ヘッドフォンから流れる音楽を構成するディテール部分の微かな音を拾ったりだとか、「もし聴こえなかったら」と思うと、その度に一瞬冷んやりとした悪寒がぼくを撫でていくのだ。
もっと踏み込んだ言い方をすれば、”障害”を意識するようになったのだ。身体の機能が果たされないということもそうだし、それによって社会が己のしようとすることを阻む状況という意味でも、両方の意味で。
分かった気になっていたのだ。障害について見聞きする機会を得ることで考え、理解しているつもりになっていたのだ。だが、身近な人間の痛みに共感してやっと実感を伴って知りつつある。
人は、他人の痛みに鈍感である。
「かわいそう」とか気持ちの類いは、”共感”とは呼ばない気がした。
自分を以てして痛みを感じているわけではないが、血を分けた存在の痛みを少しは知ったつもりになりたかった今日この頃である。
『生理マシーン、タカシの場合。』
ちょっと雑だけど結びとして。痛みと共感つながりで。
妹の快方と完治を祈るばかり。
追記:
このテーマについてとても良いコメントを頂いたので、読者の方はコメント欄も是非ご覧下さい。
また、妹は先日退院することができました。お気遣い下さった皆様のお陰です。ありがとうございました。
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