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捨てられない人たち

 所有する喜びは誰にでもあると思います。例えば家、車、家電など、生活に必要で使いこなすものは、デザインや機能において自分にふさわしいものを選ぶことでしょう。
 服も同じ。着こなしやすさや自分をどう見せてくれるか、自分に合わせて選びます。
 モノにも寿命はありますので、壊れたり、自分に合わなくなったりして、やがて捨て時が来ます。所有欲を満たしてくれた感謝とともに、処分をすることでしょう。
 ただ、捨て時が来ているのにモノを捨てられない人もいるのです。

 アメリカのテレビ番組でHoardersというチャンネルがあります。ゴミだらけの不潔な環境で過ごし、周囲の人たちに悩みを与えているにもかかわらず、汚れた瓶ひとつ捨てられない人達が主役です。番組と医師や片付け業者がチームを組み、その人たちの家を片付けていくのですが、すさまじい抵抗にあうことが珍しくありません。
 私の目にはゴミとしか映らないものが、その人にはお金に見えているのだろうか。それとも、ゴミを捨てることで自分のアイデンティティを失うという恐怖があるのだろうか。所有する喜びがあり、自分にふさわしいと思っているようには見えないのです。
 ゴミに囲まれてキッチンやトイレも使えず、虫が湧いているにもかかわらずそこが心地よいという心理。画面には映りませんが、酷い悪臭だと思います。この番組ではため込みの症候群というよりは、はっきりと精神障害であるとまで言い切っています。

 ここまで極端ではなくても、捨てることを嫌がる人は多いです。捨ててしまうことで、何か大切なものを失ってしまい、それは二度と手に入らないと考えているのかもしれません。

 そのようなケースを見聞きするたびに、私は小さいころの布の切れ端を思い出します。それは祖母が作ってくれた丹前の切れ端で、寝るときはしっかりと握って、和布独特のシャリシャリとした手触りを楽しんでいました。起きたらまずその切れ端を触って安心していました。ボロボロになっても捨てられず、それがないと眠れないのです。傍目にはゴミに見えていたかもしれませんが、もはや心のよりどころだったのですね。
 人は日々成長したり衰えたり、変化をし続けています。布の切れ端も、いつの間にかなくなっていました。もし、寝ても覚めても握りしめていた子どもの頃に捨てるように言われたらどうでしょう。きっと私もHoardersの人たちのように泣いて抵抗したと思うのです。
 捨てられない人は、その切れ端と同じ役割をモノに対して感じているのかもしれません。私は、捨てられないものは捨てなくてもいいという考えです。ただ、許容範囲を超えてモノを所有すると、あらゆる面で不都合が起こります。
 モノを捨てられない人は、「今の自分にとって明らかなゴミ」を捨てることから始めてみるのがいいと思います。自分にとっての要不要を、体験としてしっかり取得することが、心地よい空間になる第一歩だと思うのです。


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