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「よかれと思って」について    (ちょっと霊的視点)

誰か(大抵困っている人)に対して、こちらが多少の手間や面倒をかけることがある。
で、それが”よかれ”と思ってやったことでも、相手にその意図が伝わらないことが多い。
というか大体において伝わらないと思っておいていいw

人は助けたい、という欲求も生まれるもの。
実はそれもちょっとしたエゴだということに気づかずに。

そもそも”陰徳を積みましょう”とかいうけれど、そのほんとのところを知る(直観的に解る)人は少ないと思う。
誰かを黙ってお助けしましょう、という、その対象である”誰か”って何でしょうかという話ね。

シンプルに(深く)いえばこの世界は「自分=相手」でありワンネス、そしてその先はワンネスという意識すらない(外れて統合する)わけなので、「誰かのために」と少しでも思った時点でそこにはエゴが挟まる。(だってそれも自分でもあるから)
分離を通して何かを感じたいだけ。
というわけで、意識できないところに、エゴが生まれているわけ。
だから”ボランティアは自己肯定ワークだ”というのもあながち間違いともいえないわけ。

‥とはいえ。
人間は(まだ)エゴを持って生きるので、とどのつまりそのエゴとどう折り合いをつけてうまく(?)やっていくか、ということになる。
”誰かのために何かをする”ということで成長を経験できることもあるだろうし、相手との関係の良化を通してさらなるコラボ経験ができたりする。
だから、基本的には助け合いの精神は素敵で大切。

‥だけど、あまりにもどちらか一方がgiveギブぎぶのオンパレードになるようだったり、相手からひとかけらの感謝もなさそうなら、やはりその関係はヤメたほうがいい。
無駄とはいわないが(それも経験だからね)、あまりバランスがよくない。

世界は天秤のようにして成り立っていて、とりあえず二つの端っこがある。陰と陽、光と闇、男と女、善と悪。で、そこにエネルギーの循環という要素があいまって、なんとなく(絶妙な)バランスをとっている。
giveだらけの人もtakeだらけの人も、そのバランスをコジラセているわけ。
与えているから善い、というわけではないのがミソ。
(もちろん人助けは基本、素敵なことではあるが)

自分が”よかれ”を発動しすぎていたら、少し他者と距離をおいてみる。
あげすぎていないか。甘やかしていないか。
(過剰なgiveはつまりは甘やかしているのだ)

そして、ただその人を信じることも大切。
「助けなくても大丈夫だよね、君なら自分でなんとかするよね。」
と。

変に厳しくしなくていいけど、助けようと思わなくていい。
それよりも自分に集中したほうが余程、人を助けるよりも調和した世界になったりするよねと思う。

それに、そもそも”よかれと思って”と意識している時点で無償ではない何か(自己承認欲求、他者への恩着せ、etc)が生まれてしまってるので、だったらやらない方がマシだったりするのであった。

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