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自分自身の時間を作るということ

私たちは常に誰かのために時間を使っている。

・家族や友人のため
・パートナーのため
・クライアント、会社、プロジェクト、プロダクト、 仕事のため
・地域や国、社会のため

幸せな家庭を築き、健全な人間関係を保ち、愛する人と成長し、成果を出して価値を提供して機会を掴みたい。責任や、守り大切にしたいもののために与えられた役割を全うし貢献することが、やりたいこと、すべきこと。だから、できることや求められることに応え、働きかけることが当たり前、そう考える。

自分以外の誰か、何かのために時間は溶けていく

そういった時間を否定したいのではない。
人間は社会的動物で、実際、支え合わなければ時代は進まないし、生活はまわらない。自分の存在やアイデンティティを担保してくれるのは他人であり社会なのだ。
でも、その納得があってもそこに費やす時間があまりに多くなると、バランスを崩す。

一方で、日々あらゆる相手や物事に対して感じ、考え、伝え、行動する主体は自分だ。だから自分は自己表現しているし、ある意味で自己実現している。相対する人々や物事から湧き上がる感情だって自分のものだ。

それでもなぜ「自分の時間が必要」と感じるのか。

「自分自身の時間」とはなにか

それは、”本来の自分”の時間が、そこにはどうしても、ないからだ(と思う)。
時間の消費の意味が、他の存在に寄り掛かかる時、他者と共有できる意味や価値の世界に滅私奉公している時は、結局、自分は十分に自分の時間を生きられてはいない。

では、自分自身の時間とは、どのようなものなのか。

私が考える「自分自身の時間」は、社会的アイデンティティを纏った自分ではなく、今、そこにある自分に集中する時間です。
ただ自分が存在していることだけでいい時間。だからなるべく未来や過去のことは、考えない今その五感で感じていることだけになるべく集中する、自分自身の存在に重みを感じられる時間

日々粘りつくあらゆるもを自分から切り離し、自分が感じとるものをただ受け取り、それに向き合おうとすると、そこに置かれた自分と、そこで感じとるものの多さに新鮮さを感じる。そして、世界が自分の存在など御構い無しに動いていることを感じ、少し軽く、安心することができる。

自分の感覚所与を思い出し、それを十分に味わうことは、誰にも委ねたり頼んだりできない。「私の代わりにあの花の匂いを嗅いで」「私の代わりに景色の中におどろきを見つけて」なんてことはできない。誰にも委ねられないそういった自分のことを、世界に対してただひたすらしていると、自分が少しずつ世界に混ざり合うように感じる。


後編へ。
自分自身の時間をとることをためらう理由
・自分自身の時間で育まれるもの  and more 

<背景>この半年で、自分自身の時間を取ることの重要性に気づきました。2018年は怒涛の年で、ありがたいことに忙しく神経を尖らせて過ごしていくうちに、なかなか眠りにつくことが難しくなりました。仕事自体は充実していて、そこに不満はないのに何かが足りない。壊れたら戻れないどこかのバランスが崩れそうに感じていました。そして「自分は何をやっているんだろう?」「何に駆り立てられているんだろう?」と思ったのです。そして一切のことから離れる時間をとり、自分自身が理由で、後回しにされている何かを取りに、日本を離れラオスに行きました。飛行機の中でも「自分の時間を過ごすためにここまでくる必要があったのか...」などと思っていました。でも目的通り、現地では、ただ自分自身でいるだけの時間を過ごしました。これまでは、仕事柄もありクライアントには「いつでも連絡してください」と言っていましたが、今回初めて「この間は、連絡しないでください。連絡が来ても数日答えないかもしれません」と言うことができていましたw。それほど切羽詰まって”自分の時間を過ごさなければいけない”と感じていたのですが、それがなぜか、それでどうなるのかは、わかっていませんでした。

PHOTO at  Parque Nacional dos Lençóis Maranhenses, Brazil

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