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犬がいた日々(前半)

子供時代から社会人になりたての頃まで柴犬を飼っていた。
時期は、小学校3年生から社会人2年目までの15年間。 
小学生当時、親に駄々をこねて横浜のペットショップで買ってもらったのだ。親からの猛烈な反対を押し切って買ってもらった訳だが、それには条件があった。
「ちゃんと面倒を見ること」という至極まっとうな、しかし一番大変な約束を親とかわした。そのときはそんなこと自分一人で簡単にできると思っていた。実際には家族の協力がなければ無理なのにそのときは自分一人でなんとかしてみせると思っていたのだ。

その犬は血統書付であったし、父親もそれに少しこだわっているようだったが、そんなものはどうでもよかった。子供ながらに犬がそこにいるだけで心が高揚したり、落ち着いたりしたことはそれまでなかったと感じていた。
小犬と呼ぶには少しだけ大きかったから、生まれてから数ヶ月経っていたのだと思う。

ペットショップからは親の車に乗せて家まで運んだ。
犬の名前はその犬が9月生まれというところからもじってつけた。
後になってから10月生まれだと言う事が判明したのだが、名前は変えなかった。
ペットショップから家に着いてからは、犬をしばらく玄関においていたのだが、見ず知らずの新しい飼主が一体どういう人物なのかわからないためか、2日くらいずっと小刻みに身体が震えていて、何も口にしなかった。
子供だった僕は犬の震える身体を自分が起きている間はずっと撫でてやった。
やっとミルクを飲んだのは3日目の震えが止まってからだった。

当時住んでいた家は父の会社の社宅で木造の古い家だったが、ちょっとした広さの庭があった。
その庭で小学校から帰ると毎日犬と遊んだ。
犬はボール遊びが特に好きで、すぐにキャッチボールを覚えた。かなり難しい角度でボールを投げてもハイジャンプして捉える事ができた。ボールを捕らえた後、犬の心の中でガッツポーズでも決めているのか、少し余韻に浸っているような素振りをしてからボールを戻しにこちらにノコノコ来るのがおかしかった。

散歩はたとえ雨が降っても風が吹いても、台風が来ても毎日行った。
何故ならその犬は散歩がとても好きだったからだ。行かないといつまでも鳴き、しまいには吠えだしてしまう。
家族の者が少しでも散歩の気配を匂わせると(例えば散歩という言葉を発したときなど)、すぐにそわそわしだして、甲高い鳴声を出し喜びを隠しきれないのである。
散歩の時に使う首輪につけるロープを見せると、犬の興奮は最高潮に達し、飛び跳ねて喜ぶ。
散歩は毎日行くので面倒だなと思う日も多かったが、犬の行きたがる姿を見ると、行かざるを得なかった。
散歩ではいつも犬に引っ張られ、その引っ張る力があまりに強いので、たまにこちらが力を込めて引っ張り返す事もあったが、一向にグイグイ先へ進もうとすることを止めなかった。ただ、その犬は気管が少し弱かったらしく息があがってくるとたまに「ガー」と鳴き声とは違う音を立てた。
傍から聞いていると、さぞかし苦しいのではないかと思う程に大きな音だったので、すれ違う人々が驚いて犬の方を見るのだった。
それが気がかりだったので、親に頼んで首ではなく身体に付けるロープに変えてもらった。
散歩は犬が唯一自由を謳歌できる時間であった。そして知らず知らずの間に僕も自由を謳歌した。

食欲は旺盛だった。夜はだいたい家の夕食の残り物から与えていた。
だから家族と同じ物を食べていた事になる。いつも足りない様子だったが、それ以上は与えなかった。
今、考えてみるとこれが長生きしたひとつの条件だったのかもしれない。太る事も痩せる事もなかった。
朝はドッグフードを与える事が多かった。当時「ビタワン」というドッグフードがあったのだが、これは好みでは無かったらしく、あげてもそっぽを向かれてしまった。そんな時はそれに牛乳をかけてやれば必ず食べた。
とにかく牛乳が好きで、牛乳をかければ大抵のものは食べていた。

たまに元気が無くなる時があったが、そんな時は決まって食欲が無かったり、下痢をしていたりした。
しかし、それでも散歩だけは行きたがった。
散歩も行きたがらないくらいに元気が無かったことは、憶えている限り犬の生涯の中で3、4回くらいだった。
話す事ができない犬にとって、散歩に行きたくないという行動で示されると本当に体調が良くないのだと感じ、僕の気持ちも重くなった。



(続く)

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