YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 増田繁人編
ずっと考えていた。何でこんなに辛いのに、何でこんなに苦しいのに、自分はサッカーを続けているんだろうと。報われない努力を、耐え難い悔しさを、どうして繰り返さなくてはいけないのだろうと。でも、もうその理由はわかっている。辿り着いた答えは、ごくごくシンプルなものだ。
「『やっぱり自分はサッカーが好きなんだな』って。一度サッカーから離れてみて、改めて『自分にとってサッカーって凄く大切なものなんだな』って認識しましたし、『もっともっとサッカーを続けたい』って強く思えたことに嬉しさを感じています。だから、ちゃんとピッチに戻りたいですし、今は本当に簡単な状況ではないですけど、諦めずに、ちゃんとサッカーと向き合って、またあのピッチに戻って、活躍したいなと素直に思えている自分がいます」。
ブラウブリッツ秋田が誇る、ポジティブな190センチのハイタワー。増田繫人がピッチに帰ってくる日を、彼を取り巻くすべての人がとにかく楽しみに待っている。
出身地の千葉県鎌ケ谷市は野球が盛んな土地。増田少年も父親の影響で、小学校4年生から野球チームに入っていた。打順は3番で、ポジションはピッチャー。「当時はそれなりに能力が高かったこともあって、バシバシ投げて抑えて、足が速かったので、バッターになったらヒットを打って、盗塁、盗塁、ホームスチールみたいなこともしていましたね」。当時の憧れは松井秀喜。プロ野球選手も将来の夢の1つだったという。
きっかけは偶然だった。ピッチャーにつきものの肘の痛みに悩まされていたため、通っていた接骨院の先生に、あるサッカーチームを紹介されたのだ。「中学校に進学するタイミングでサッカーがしたいと思っていたので、接骨院の先生に相談をしたら、『友人がクラッキス松戸というチームでコーチをしているから、セレクションを受けてみなよ』って言われたんです」。
どんなチームかもよく知らずに赴いたセレクションは、不合格。だが、代表の方から意外な言葉が発せられた。「終わってから5人が集められたんですけど、『今日はお疲れさま。君たちは今日のセレクションに来ている中で、一番下手くそな5人だ』と言われて、『えー、そんな感じなの?』と思っていたら、『でも、諦めずに最後まで来てくれ』と言うんですよ」。
めげずに受けた次のセレクションも結果は同じだったが、3度目のセレクションで何とか最後の1枠として合格を勝ち獲ることになる。「たぶん最後までやり切ろうと思って、3回も行ったんですよね。代表の方は3回とも不合格にしていたらしいです(笑)。でも、ブラジル人のコーチの方が『アイツは取り組む姿勢もあって、たぶん伸びるから獲った方がいい』と言ってくれて、滑り込んだという話を聞いています」。ブラジル人コーチの慧眼が、増田を本格的なサッカーの道へと招き入れる。その時の年齢は12歳。Jリーガーとしてはかなり遅めの“キャリアスタート”だと言っていいだろう。
中学校3年生になると、既に180センチを超える長身ディフェンダーとして知られていた増田は、多くの高校からオファーを受けるまでに成長していたが、一番熱心に誘ってくれたのが流通経済大柏高校を率いる、高校サッカー界きっての名将・本田裕一郎監督だった。
「本田先生が大きなスイカを2つ持って家まで来てくださったんですけど(笑)、その時に『ああ、この人とサッカーしたいな』って素直に思って決めました。実際に話した感触が本田先生はずば抜けていて、『この人は本当に凄い人だ』と思ったんですよね」。その年に全国二冠を獲得するなど、県内のみならず国内有数の強豪の門を、増田は叩くことになる。
「『これはオレの仕事なんだ』って、『このチームを良くするために自分が動かないといけない』って完全に思い込んでいましたね。クソマジメだったんだよなあ……」。そう振り返る“仕事”というのは1年生キャプテン。個性派ぞろいのメンバーをまとめる役割を、入学直後から担っていた。結果的に卒業するまでキャプテンを務め続けることになるが、とにかくそのポストが精神的に堪えたそうだ。
「当然何かを言われた方は気持ち良くないので、嫌われるわけですよ。まとまりも全然なくて、注意したら『うるせえよ』と言われて、ケンカするみたいな(笑)。最初に『嫌われてもいいから3年間やろう』と腹を決めたので、やり切れたところはあるんですけど、みんなに嫌われるのは本当にキツかったです」。
加えて、1年生の冬に骨折した足の回復が思うように進まず、2年生の1年間はほとんどをリハビリに費やすことに。それでもチームメイトを叱責する必要性に追われ、置かれている学年キャプテンという立場と、満足にプレーできない現状が、17歳のメンタルを少しずつ蝕んでいく。
だが、そんな状況の中でも増田には絶対に達成すべき目標があった。「やっぱり選手権に出たい気持ちが凄く大きかったと思います。流経に入るのはプロになるためというよりは、選手権に出るためというイメージが強かったので、1年生でも2年生でも選手権に出ていなかったこともあって、『絶対自分たちの代で出る』という強い気持ちを持っていました」。
3年生になると、永遠のライバル・市立船橋高校との激闘を制し、念願の選手権出場を手繰り寄せた流通経済大柏。日本一を目指して大会に臨んだ彼らを、アクシデントが襲ったのは初戦のこと。3年間をともに過ごしてきたある選手が骨折してしまい、その後の大会出場が絶望的になってしまう。しかし、このことがまとまりのなかったチームに、1本の太い芯を通す。
「その子が入院先の病院から僕にメールをくれて、ミーティングでそのメールを読んだら、一気にチームがガツンと固まった感覚がありました。僕も号泣しましたし、みんなも号泣していて、『アイツのために僕らも頑張らなきゃいけない』って一致団結したんですよね」。
最後は国立競技場の準決勝でPK戦の末に敗れたが、キャプテンはとうとう手にした一体感への手応えを感じていた。「やっとチームが1つの方向に走っている感じはありました。それがメチャメチャ嬉しかったです。実はサッカー部を引退する時に、チームメイトから『本当にオマエがいてくれて良かったよ』と、『オマエじゃなきゃこのチームはダメだった』と言ってもらえた時に、『今まで頑張ってきて良かった』と思いましたね」。自分からも、仲間からも逃げずに、日々を積み重ねた高校での思い出は、増田の中に大きな財産としてずっしりと残っている。
プロデビュー戦の記憶は、それから11年が経った今でも鮮明だ。アルビレックス新潟の選手として、ビッグスワンのピッチに立った2011年10月1日。89分に投入されると、ファーストプレーでスタンドを沸かせるヘディングを披露する。
「足がブルブルでしたし、頭も真っ白でしたけど(笑)、一発目のプレーでヘディングに競り勝った時、会場が沸いたのはメチャメチャ覚えています。『ワンプレーでこんなにスタジアムが盛り上がるんだ』と思いましたし、それと同時に『凄く期待してもらっているんだな』と感じられて、とにかく印象に残るワンプレーでした」。だが、以降のキャリアは、決して自身が望んでいたような軌跡を描いていかない。
2年目のリーグ戦出場はゼロ。サッカーキャリアで、初めて全く試合に出られない現実に直面する。「2年目から3年目に差し掛かる時点で、『移籍をしたい』という選択をするんですけど、その時に『自分が考えたことをしっかり人に伝えて、自分で今後どうしていくかを選択しないと生きていけない』と、『これは自分の人生だから、自分で責任を取らないといけないんだ』と明確に思った記憶があります」。
プロ3年目はザスパクサツ群馬へ、4年目は大分トリニータへそれぞれ期限付き移籍を果たすも、流れが好転しないどころか、より悩みは深まっていく。とりわけ大分での1年間は、今から振り返っても一番自信を失っていた時期だったという。
「苦手なところを克服しようと、ビルドアップばかり練習したんです。でも、苦手なことはやっぱりうまく行かないじゃないですか。トライしてもミスして、自信をなくして、上手くなりたいからまた練習して、ミスして、自信をなくして、というサイクルにずっとはまっていて……。自分がどんな選手かもわからないですし、サッカーをするのも怖いですし、それが自分の中で本当にしんどくて、しんどくて。海に1人で行って、ボーッと2時間ですよ(笑)。なかなかヤバかったですね」。サッカーへ灯した情熱の炎は、消えかけていた。
自身も認める一番の転機はプロ5年目。当時はJ3で戦っていたFC町田ゼルビアへ期限付きで加入すると、ようやくレギュラーの座を自らの力で確保する。「『ここでダメだったら終わるな』と思って臨んだシーズンだったので、サッカーキャリアの中で一番大きな転換点だったと思います。やっとプロ選手として生活できている実感がありましたし、試合して、トライして、というサイクルで自分が選手として安定して成長する感覚があったので、凄く充実していましたね」。
「相馬(直樹)監督との出会いも本当に大きかったと思います。人としても大きくしてもらいましたし、サッカー選手として試合に起用してもらって、キャリアを作ってもらったこともそうですけど、守り方の部分でも凄く成長させてもらいました。ゼルビアと相馬さんという要素がなかったら、今の自分はないと思うので、感謝しきれないですよね」。23歳で掴んだ手応えが、プロサッカー選手という職業に増田を繋ぎ止めてくれたと言っても過言ではない。
昨シーズンから在籍しているブラウブリッツには、トライアウトを受けて加入した。この前後の時期はサッカーをやめることも選択肢に入っていたが、その決断を思いとどまらせたのは、なかなか試合で活躍する姿を見せられなかったファジアーノ岡山のサポーターの存在が、小さくない要因だったそうだ。
「契約満了になったことで、正直サッカーを続けるかどうかを迷った自分がいました。『別の道を歩んだ方がいいのかな』とも思ったのですが、本当に応援してくださる方がたくさんいたんです。もちろん一番は身近にいる妻ですし、『岡山のサポーターの方々も僕は全然試合に出ていないのに、メチャメチャ応援してくれたよな』って。そういう方々に、このままサッカーをしている姿を見せずに終わるのはちょっと違うなって。『もう1回自分がピッチで頑張っている姿を、こういう人たちに届けたい』と思って、サッカーを続ける選択をしました」。
その経験があったから、なかなか戦列に復帰できない今も、あの時と同じ想いを抱えて、厳しいリハビリに励んでいる。
「本当にサッカー選手っていい職業なんですよ。こんなに自分に想いを乗せてくれる人たちがいることなんて、普通はないと思うんです。僕が頑張ってサッカーをしたことで、『私も週明けから仕事を頑張れそうです』と言ってくださる方がいて、『オレはサッカーをしているだけなのに、そんなふうに思ってくれるんだ』って。そうやって人を幸せにできるサッカー選手って、本当に幸せな職業だとも痛感しているんです」。
「今はなかなかうまく行かないですし、リハビリの進みも良くはないですけど、スタジアムで声を掛けてくれたり、前回のnoteを発信した時にコメントをくれたり、いろいろな人が寄り添ってくれて、『ああ、こういう人たちのために自分は頑張らないといけないんだな』って凄く思えるので、そういう方々を大切にしていくためにも、もっと自分は真摯に、サッカーと自分と向き合っていかなきゃいけないなと。これだけの人が応援してくれることが本当にありがたいですし、その恩をピッチで返さなきゃいけないなって、心から思っています」。
32番はソユスタのピッチに帰ってくる。いや、帰ってこなくてはならない。決して思い通りとは言えないキャリアを歩んできたからこそ、彼が必死にプレーする姿へ想いを乗せる人々が、全国中にいるのだから。そして、その想いの総量こそがプロサッカー選手としての本当の価値だと、プロサッカー選手を前へと衝き動かす最大の燃料だということを、きっと増田は今、誰よりも強く実感しているに違いない。
文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18
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