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誰かに何かを与えるということ

朝6時前から会社に来て、夜は19時過ぎまで残って仕事していた会社の先輩のことを思い出す。…朝も早すぎだし、毎日ちゃんと残業するし、…私からすると、頭がオカシイ先輩だった。

しかも頼りにされると嬉しくなって何でも引き受ける癖がある。だから仕事がどんどん溜まる一方だ。時折だるいだるいと愚痴を言いながら、仕事の合間にネットサーフィンしているし、自分の仕事ではなくて後輩の仕事の心配をするし、色んな人からの質問にも答えるし、色々知っているからといって頼られるし、…で、寂しがり屋で構って欲しくて後輩に無駄口を叩きに叩きまくり、狂ったように栄養ドリンクを飲みまくる。

そういうオカシイ先輩が、結局、色んな人から嫌われているし、同時に慕われているという事実。

私は一生こうなれないなぁと思ったし、なろうとも思わなかった。みんなから頼られていて、慕われているのは、正直羨ましいと思ったけど。

その先輩は承認欲求の塊であり、自己犠牲精神の化身のような方だった。側から見ていても、いつか体を壊すことは必至だと思う。ちなみに尊敬はしていない。

でも、誰かに、何かを、これでもか、というぐらいしてあげるという姿勢は本当に凄いと思った。たとえ嫌いな人から頼りにされた時も、一応きちんと何かを返す。好きな後輩になら、ありがた迷惑寸前、本当にお節介なほど、とことん尽くしている。私には、そこまで出来ない。

思えば、私は誰かに何かを与えた記憶は少なくて、むしろ与えられてばかりだったように思う。私は自分の後輩にも、何もしてあげられなかった、もっとこうするべきだったかな、と今でも時々思い返すことがある。何かを怖がって何も出来ない私とは違って、あのオカシイ先輩なら、うざったらしいほど後輩に話しかけるに違いないし、実際に現場を目撃したこともある。

…それを見ると、まぁ、うざいし、強引である。ただ、今思えば、一切話しかけて貰えないよりは話しかけて貰える方が何倍もマシだと思うし、あのオカシイ先輩は、実は組織にとって、結構有難い存在だったように思う。

先輩自身がどういう気持ちでそんな行動を取っているのかは分からないけど、今流行りの、ギバー・テイカー・マッチャーの考え方だと、あの先輩は確実にギバーだし、私はマッチャーで、私の周りの大半の人間もマッチャーかテイカーだったんだと思う。

先輩には素人目にも分かり易すぎるぐらいギバーの素質があって、いつも自己犠牲しがちだから、もっと周りの人間を見極めて、器用に立ち回っていただきたい…と思うのだが、残念ながら私はもうその先輩と同じ会社の一員ではないから、気軽に先輩に進言することは出来ない。
先輩はおそらく、体を壊すまで、あの会社で搾取され続けることだろう。なまじ後輩から頼られているし、慕われているし、その先輩にも一応ご家庭があるから、辞めにくいというのが現実だろうけど。

私はそんな先輩が、可哀想でもあるけど、とても羨ましく思う。

誰かに常に何かを与えて、誰かから必要とされる存在。果たして私は、そんな人になれるのか。

どうも、私の心の中には、

お節介と思われて嫌われたく無いなぁ、
そこまでして承認欲求を満たしたいわけではないなぁ、
大して感謝もされないような自己犠牲の精神は勘弁だなぁ、
搾取されるのは御免被りたいなぁ、
WinWinの関係ならいいけどなぁ、
とはいっても私には何も出来ないからなぁ、

という気持ちばかりが渦巻いている。私は損得勘定でしか物事を考えられない、人間的には淋しい奴なのかもしれない。損得勘定も時には大事なこともあるから、全て否定するわけじゃないけどね。

ただ、誰に対しても自己犠牲を惜しみなく出来る人を目の当たりにして、何も感じないかと言われたらそうでもなくて、そういう人が上手いことやれば、将来的には成功するんだろうなぁと肌感覚で分かるし、自分も本当はそうした方がいいんだろうなぁとぼんやりと思う。ギバーの周りには、どんどん人が集まってくるものだと、私の経験則でも分かる。

私には誰かに何かをしてあげた、という感覚が殆どない。それは本当に誰かに何かをしたことがないか、してあげたことの記憶がないか、してあげたのに気付いていないか、のどれかだと思うが、私が思うに、記憶に残らないほど、誰かに何かをしてあげて来なかったんだと思う。残念ながら。

誰かに何かを与えるということ…がこんなに難しいなんて。身近な人や大切な人に喜んでもらう、笑ってもらう…、これまでの私の人生で一切なかったわけじゃないけど、私がやってきたことなんて些細なもので、私は本当に与えられてばかりだった。あの先輩にも、私がひたすら「ありがとうございます、感謝してます」というばかりで、結局何も返せなかった。両親にも、これまでの人生でお世話になった方々にも、大して何も返せていないように…。

私はこれから、どちらかというと与える側の人間になりたいし、ならなければならないという使命感もある。だけど、一体私は何を与えることが出来るのだろうか。

ビジネス上のお付き合いはせめて、今私が持ち合わせている損得勘定の考えは残しておきたい。愚かなギバーになって、無駄に自己犠牲もしたくないし、搾取もされたくないからだ。

それよりも、本当に自分が何かを与えるべき人間はいると思う。例えば自分の子ども、家族…、まぁ、これは無償の愛…などというややこしい話になるので置いといて。

お節介だと思われて自分が嫌われてしまうのではないかというよりも、こうしてあげたら相手は喜んでくれるだろうという発想に転換し、

承認欲求は誰にでもあるもの、満たそうとすることは自然なことだと割り切る。

私はまずそこから、与える側の人間になる練習をしようと思う。

…まぁ、会社辞めてからずっと専業主婦やっているので、夫以外の人に、与えるも何も、殆ど機会がないんだけどね。子どもも今度産まれる予定なので、何というか、強制的に与える側の人間にならざるを得ないというか。そのことが全然嫌じゃなくて、むしろ嬉しいんだけどね。

与える側の人間になって、『大切な人を幸せにしたい』から、『社会を・みんなを幸せにしたい』となれば万々歳かな。まぁ、精神病んでて世の中を無駄に恨んでた時期も長かったし、これは理想論。


今更だけど、少しずつ、大人になろうと思う。

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