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自由は人を幸せにするか?

雇用関係は柔軟であれば労働者にとっても自由な職業選択を行いやすく、派遣労働は労使双方の利益に資するという意見が我が国の労働関係の法改正において唱えられてきた。

ただ、労働者の自由な職業の自己選択は、硬直的な雇用関係よりも労働者を幸せにするのだろうか?

新自由主義者は、個人が自分の資質について十分な情報を持っており、自由な自己選択に基づいて職業を決定するのだから個人の満足は満たされ労働者も能力を発揮出来るのだとする。だが、例えば大学を出たばかりの若者や、転職を考えている30代の人間であろうとも、人は自分のことを十分に知っていると言えるだろうか?自分の能力の将来の予測について十分に予測することはできるだろうか?

人間は環境に左右される生き物であり、自分のことを知るにあたっても、周囲との環境の相互作用において知っていくのである。若者は職について始めて社会を知り、自分についても新たな発見をするのである。

職についてもその企業の中で配置転換があり、人間関係が変わり能力の開発や自分についての新たな発見を積み重ねていく。

終身雇用を始めとした硬直的な雇用関係の中で、生まれてくる能力や自分の新たな側面もあるはずだ。

柔軟な雇用関係が実現したとして、転職を繰り返してしまっては自己の能力開発を逸してしまう可能性も考えられるはずだ。

そして、そのような機会損失が発生したものなのかどうかは、誰も定量的に評価できるものではないであろう。柔軟な雇用で、労働者に自由が与えられたとしても、それが人を本当に幸せにするのかどうか、社会に利益を与えるかどうかは判断が難しい。

1つ言えることは、新自由主義者が主張するように、人間が自己に関する情報を最初から持っているなどという主張はあり得ないということだ。

選択肢が無数にあるなかでの自由

これは私がケアマネになってものの数ヵ月のこと。自分が担当している方との関係作りだけで精一杯な時期だった。新規の依頼を受けたこともほとんどない。

そんななか、ある1人の利用者さんが「バスボードを使いたいんですが」と言ってきた。

バスボードと言えば介護保険の福祉用具購入費の支給対象だ。ケアマネがケアプランを組み、指定を受けた業者から購入すれば介護保険から9割が支給される。

でも私は困ったことがあった。バスボードを取り扱いしている業者はいくらでもあるが、まだこの地域でケアマネを始めたばかりの私にはどんな業者があるのかもわからない。相談をしたこともないし手続きもどこまでやってくれるかわからない。気の効いた信頼できる業者はどこなのか?私にはわからず途方にくれてしまったのだった。

私は他のケアマネに聞いてみることにしたのだった。

「○○さん、バスボード買いたいって言ってるんですよ。どこの業者さんに頼んだらいいですかね?」

返ってきた答えは、答えとは言えないものだった。

「うちの事業所からどこを使えというものはないのよ。だからあなたが話しやすい、いいと思う業者さんを使って。」

これには私はますます頭を抱えてしまう。

ケアマネは公正中立にケアマネジメントを行うべきなので、そのアドバイスはある意味では正しいのかもしれない。

だが、何も知らないケアマネに、無数にある介護用品の事業所から何を手がかりに選べというのか?

経験を積み上げ拙いながらも利用者の要望を聞き、福祉用具の業者を迷わず自分の判断で選べるようになったのはしばらくたってからのことだった。

自由というのは与えられても、それが個人の満足感や幸福感を充足するとは必ずしも限らない。自由でありすぎるがゆえに、何をすればいいのかわからないという状況だってあるはずだ。

情報の取捨選択も違った角度から自由の難しさが見えてくる。

かつては情報は新聞やテレビやラジオなど、限られた媒体のみから得ていた人が多かっただろう。

今やインターネットの普及とSNSという媒体の発達であらゆる情報とのアクセスビリティーは向上している。

受動的に情報を受け取っていた時代から、能動的な情報入手へと世の中は移行したのかもしれない。だが、情報選択の自由は、人や社会を幸せにするのだろうか?

3・11の東日本大震災では、東北沿岸部に大津波による大きな惨禍がもたらされた。
被害がそれだけに留まらなかったのは、福島第一原発が事故を起こしたことによる、放射性物質の汚染とそれに伴う風評被害だった。

その風評被害は、東京新聞を筆頭にする一部の既存メディアも関わってきたのだが、率先してデマをばらまき、福島への想像を絶する差別的言動を行ってきたのはSNSなどのインターネットメディアであった。

誰もが情報を発信できるSNSメディアの便利さは私も否定しないが、情報の質は保証されていない。既存メディアもそうではあるのだが、SNSは正しい情報選択を行わないと、毎日デマに自らさらされ、自己洗脳された人が大量発生してしまう。

制限がない自由は、人や世の中にどのような影響を与えているのだろうか?

そしてこれも自由の一つの弊害ではないだろうか。民主主義において選挙が行われて、有権者が政治において何を選択するかはある意味自由である。そこで自由というものが過剰になりすぎると、力なきものの声が通らなくなる。

民主主義を尊重すれば、個人も尊重されマイノリティも擁護されると安易に考える人がいわゆるリベラルに多いようだ。自由や民主主義に対する過度な期待を、どうしてこの人たちは持つのだろうか。

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