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教育を市民の手に取り戻す

<子どもたちこそが地域を救う(京都新聞2016年寄稿より)>
これは今から3年半前に、京都新聞南丹支局より依頼があり寄稿した文です。備忘録的にここに改めて掲載しようと思う。
当時、まだデンマークとの交流を始めた最初の年で、地域の重鎮からは「なんでデンマークなんや」や「なんもデンマークなんかより美山の教育はいいんやぞ」という、なにをいまさらよその国に倣わないといけないのかという論調が、ぼくにあびせかけられつづけた頃だ。(いまでもそれは根強くあるが)
そんな本当に歯がゆい言葉を投げかけられながら、それでもひとりづつ支援を広げ、それなりの成果を出しつつあっても、
「良いことだとは思うが、今はまだ難しい」という感じで、正直なところ町の正式な動きにはつながらない。
理由はいろいろあるだろうが、僕がかつて町の教育委員から「君にはイベントは作れても教育は無理」と真顔で言われた言葉からわかるように、「おまえは教育者ではないから」という理屈だ。

あらためて思う。
教育は教育者、つまりそれなりの専門教育を受けた専門家や、そのOBたちだけのものなのだろうか。
ぼくはこの10数年、全国で子どもの成長と関わり、多くの子どもの様子を見続けてきた。教員ではないが、教育に関して真摯に向き合って生きてきた自負がある。そしてその中で確信をもったのが、「教育は社会全体で行うべき」という考え方だった。
残念ながら、ぼくの考え方ややることを否定する人たちは、「教育は教育者たちの聖域」であると考えているのだろう。
今、日本中で、教育の限界や崩壊が叫ばれているにもかかわらずだ。
社会全体で子どもたちを見つめよう。
それこそが社会の問題を根本から解決する一番確実な手法である。
そして、それは実は昔ながらの日本の社会そのものなのである。


子どもたちこそが地域を救う

 京都国体を機に始まった公道を走る自転車競技「美山ロード」への出場をきっかけに美山町に惚れ込み、大阪から移住して7年がたつ。しかしこの間に人口は千人近く減った。
 かやぶき民間など日本の原風景が残り、観光地として有名な美山町。だが、人気の高さとは裏腹に少子高齢化と人口流出が止まらない。5校あった小学校はこの春、1校に統廃合された。子どもの数が減り、「このままでは学校の体をなさない」と、町の中央部に美山小学校が新設された。

 美山町は、西の大野ダムから東の芦生研究林まで約40キロもある。統廃合で広大なエリアが校区となるが、中心から離れた地区の子どもはあまりにも遠距離の通学を余儀なくされる。「通学困難との理由で、子どもを持つ家庭が住みにくくなる。このままでは近い将来、地域が消滅する」との声も聞かれる。
 私が気がつかなかっただけなのかもしれないが、保護者以外の住民は統廃合に関する説明を聞く機会があまりなく、知らぬ間に話が進み、決まった印象はぬぐえない。小学校が無くなることは全ての住民にとって、とてつもなく大きな問題であるにもかかわらずだ。

 ここに至っては、子どもの数が減ったとの理由から、適正人数の学校に集約するのは致し方ない判断だったのかも知れない。しかし、不思議に思う。「子どもの数が減ったから、学校をひとまとめにする」との結論の前に、なぜ「子どもの数が減ったから、子どもの数を増やそう」という議論にならなかったのか。
 多様な世代が適度に混在し、途切れなく時を繋いでいくのが町の健全な姿と考える。一定の世代のみで占められたコミュニティーが数十年後、町の機能を失った例は数多い。美山町に子どもが少ない事実は近い将来、町全体の急激な縮小を予感させる。世代を繋ぐためにも子どもに目を向けた議論を活性化し、「子どもが増えた町の姿」のビジョンを住民の多くが共有することが必要と思う。

 子どもの数を増やすアプローチはいくつもある。その一つは充実した教育環境だ。豊かな自然や地域性を最大限活かした教育環境を実現し発信できれば、美山町で子どもを育てたいというUターンやIターン者が増えるかもしれない。今の学校をそのままに、町全体で子どもたちの学や体験を考え、これまでにない「場」を作り出し、子育てのしやすい優れた地域性を実現する。それは必ず全国に向かってアピールできる大きなポイントになるはずだ。

 まずは子どもたちを増やそう。子どもが増えれば、教育や医療など町を取り巻くさまざまな問題が大きく改善していくはず。教育に重点をおいた北欧の国々では「人こそが資源」という基本理念にのっとり、子どもに豊かな教育を与えて人口を維持し、町を守っている。人口減少に悩む地方こそ、子どもにとって最高の環境は何かをあらためて考える時が来ているように思う。
(京都新聞丹波版朝刊 口丹随想 2016年7月1日)

子ども向け自転車教室 ウィーラースクールジャパン代表 悩めるイカした50代のおっさんです。