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心の羅針盤を確認してみよう

毎日は出来ませんが、自分自身を中立において、浮かび上がってくる感情などを自分で審判するなんてことをするときがあります。文字で書くと
格好いいのですが、そんな大層なことではありません。

擁するの自身に湧き起こってくる感情をこれは自分中心で考えていないか・・・それとも・・・そんな風に自問自答するだけなんですけどね。

そこには、論破したとか、相手を見下したとかではなくて。

「相手を自身が見下していないか」

「相手を勝手に論破したと言っていないか、もっと言えば言いくるめていないか」

そんな風に自身の中に沸き起こってくる感情を整理していこうとするわけです。

こうした、あたまの中での自身が持つ感情の整理整頓を行うだけでも、かなり気分というのは落ち着くように感じます。

そこでふっと思ったのは、人はどうして、「勧善懲悪」を求めるものなんだろうなぁと思ってしまうわけです。

「勧善懲悪」・・・昭和の時代であれば、水戸黄門とか、必殺仕事人なんて言うのもありましたし、典型的な権力者と悪徳商人・・・それに苦しめられる庶民を身分を隠した副将軍が、もしくは闇の組織が処置をする。

なにゆえ、人はそうしたことに憧れるのでしょうか。

どこかに、溜飲を下げたいという思いがあるわけでしょうね。

そして、それを自分ができないのであれば、それをしてくれる人をどこかに求めてしまう。

すなわち、強い人(ここで言う強い人というのは狭義の腕力のある人という意味ではありません)であり、それが相手を言いくるめる、もしくは責め立てる・・・・そうした人に憧れるわけでしょう。

そして、これもいつも申し上げることですが、そうした人を神格化することで、さらに暴走してしまう。

そんな気がします。

私たちはそうした意味では、デジタルに汚染されているのかも知れません。

デジタル脳化されてしまって、曖昧という理論を忘れているように思うのです。

何でもかんでも、「論破」という言葉で終わらせて、「やっぱすげー」的に反応している人も多いのではないでしょうか。

そんな風に、何でもかんでも色分けしてしまう。

それって本当に良いのでしょうか?

実際にはそうして色分けしてしまって、中間色を作ろうとしない人が増えているように思うのです。

私も好きな人もいれば嫌いな人もいる・・・ただ、そこで好きだ嫌いだだけで分けるのではなく、何が原因で嫌いなのか、好きなのか。その人に良い点はどこにあるのか、無いのか・・・等々色々な角度から見ることも重要だと思うわけですね。

私も時々そんな風に色分けしてしまおうとする自分がいます。

だからこそ、敢えて朝の時間に思索する癖を付けているわけです。

自分の中で起こってくる感情は、左なり右に寄りすぎてはいないだろうか。

特定の政党などに対して極端に脊髄反射的に反応していないだろうか。

そんな風に反省することはあっても、辺野古の話しとか、正直個人的にはどうでも良い不登校の中学生youtuberに関して大人が色々とコメントする話題とか・・・正直そんなことは個人的にはどうでも良いわけです。

まして、それをいちいちSNSで話題にすることも必要ないわけです。

私自身は、ただひたすらにそうした感情に対して、自分の中の羅針盤というか方向を示す針はぶれていないか、更に先に見える光がかすんでいないか・・・そこに尽きると思うわけです。

あまりにも、目先しか見ていないと将来が見えなくなる。

そんな気がするのです。

私はそうした意味からも、常に無意識ではあるのですが、常に個人的な自己批判を行うようにしているわけです。

あくまでも、個人的な話しですけどね。苦笑

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