碩学と博学
学という言葉は、新字体になってしまってからは、その成り立ちがわかりにくくなっていますが、
旧字体では、「學」とかきますよね。
「學」
これは、「教えられたしぐさをまねして習う」という意味から来た文字だそうで、戦後の改革で文字の成り立ちが簡略化した事からおこっているわけですが。
私自身も、新字体しか習っていませんが、母親や祖母は逆で新字体が馴染めないと言われたものでした。
私はというと、古い文庫本等ですと、旧字体で書かれているものも有る(昭和26年頃から順次新字体に切り替わっていったそうです)ので、比較的苦労せずに読めるのですが、これからは旧字体も古典のように扱われてしまうかもしれませんね。
さて、今日は「學」という言葉から派生して、「碩学」と「博学」について自ら思うことを語ってみたいと思います。
とはいえ、浅学な私故何処まで本質に迫れるか判りませんが、ご覧いただければと思います。
碩学(せきがく)とは、 「学問が広く深い」
と、Weblio 辞書 に書かれています。
一つの道を究める、中々難しいことだと思います。
実際に、学問というのは広くて深い
私も最近は、日本国有鉄道という組織の専門家だぁーと名乗って、自分なりに色々たり、動画などをアップしていますが、調べていけば調べていくほど自身の無知と無力を感じるわけです。
ちょっとした疑問が起こってきて、その疑問が幾つかの資料などを付き合わせていく中で整合性がとれたとか、この表現は、こうした部分を覆い隠すように表現しているなぁとか・・・答えが見つかりつつ有るなぁと思ったら、叉別の資料が発掘されたり、別の見方が見えてきて、再度見直しを図ることになったりとか。・・・正直闇を抜けたと思ったら、叉新しい闇が見えてくるみたいな。
私のような、さほど重要でないというか趣味の延長のようなことをしている者でさえそうなのですから、新薬の開発とか、新しい技術を日々開発されるような薬学や技術に精通する技師の方などは私など以上にそうしたことを感じておられるんだろうし、こうした碩学な方とお話をさせていただければ、私のような者でも多少は賢くなれるのにといつも思ってしまいます。
さて、翻って博学な人というのは、おおよそ色々な学問にこれまた精通している方で有り、われわれのような凡人では中々到達できないわけです。
ただ、凡人代表の私が評論家気取りで敢えて、批評させていただくならば。
碩学の人は、物事の真理を突き詰めていくと言うことで、より深く更に深くと深遠な真理を求めていく求道者のように感じます。
博学の人は、その膨大な知識もさることながら、基礎中の基礎(私は、これを根(こん)という言い方をしています。
そして、この根っこから多くの知識を有機的に組み合わせているのかなぁと思ってしまうわけです。
碩学な人も、実は基礎を更に深くすることで真理を求めていく中でより強固な基礎を作る上げるわけで、博学な人は、その中の一つの根(コン)を元に花を開かせていく、そんなイメージでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?