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当たり前とお陰様

今日は少しだけ言葉遊びという訳ではないのですが、「当たり前」と「お陰様」について考えてみたいと思います。

「当たり前」というのは、当然の「当前」が訓読みで「あたりまえ」と読むようになったという説と、漁や狩り等の共同作業で得られたモノを分配するという意味の「分け前」を「当たり前」と言い、分け前を受け取るのは当然の権利であることから「当然」の意味を持つようになったとする説・・・

とあり、正直よくわからないのですが、まあ一般的には「施しを受けて当然」と言った場合に、「当たり前」という言葉を私たちは使います。

その逆に、「思わぬことで施しを受けた場合」は、「お陰様」という言葉をよく使います。

同じように、「お陰様」という意味を辞書で調べてみますと、
お陰様の「陰」は、昔から神仏などの偉大なものの陰で、その庇護(ひご)を受ける意味として使われているということであり、転じて「他人から受ける利益や恩恵を意味する「お陰」に「様」をつけて、丁寧にした言葉」だそうです。

 語源由来語辞典参照

私たちは時には、「当たり前」と思い、時には「お陰様」と思うことが多々あるかと思います。
ただ、振り返ってみたとき。
当たり前と思う回数と、お陰様と思う回数はどちらの方が多いでしょうか。

仕事があるのは当たり前、学校に行くのは当たり前、電車やバスが時間通り来るのは当たり前、夜女性が一人で歩いても危なくないのは当たり前・・・そんな風に思っていないでしょうか。

そして、何でもかんでも当たり前と思ってしまうと、その歯車がちょっとずれると、大変ストレスを感じてしまうのではないでしょうか。

老人だったら席を譲ってもらって当たり前・・・とか。
私はエリートだから、他の人と違って当たり前・・・とか。

どこかにそんな驕りは無いでしょうか。

一概に言えないのですが、他人より優れた点があったりすると、人は知らず知らずのうちに、当たり前と思う回数が多くなって、お陰様と思う回数が減っていくような気がします。

特に権力を持ったりするとその傾向が顕著な気がするのです。

権力というわけではないのですが、私が警察官をしていたころ、夜間の飲酒検問をしていたときでした。

車を停止させて、免許証の提示を求めると、免許証ではなく、学生証を出した人がいました。
それも、窓を全開にするのではなく、少しだけ窓を開けて・・・
夜間ですからうす暗いので懐中電灯を当ててみたら、東京大学の学生証・・・そのあと免許証の提出を求めて何らかのやり取りをしたと思うのですが、あまりそのあとはよく覚えていない。
先輩警察官に交代してもらったかもしれないのですが、いかにも面倒くさそうにわざと、僕は東大の学生なので、お前たちとは違うんだ・・・的なオーラを発していたことだけは今でも鮮明に覚えています。
まぁ、そんな風に勘違いしてしまう人間もいるわけです

閑話休題

でも、これは現在のシーンでもよく見られることではないでしょうか。

議員なは特にそうですね、当選した途端にどんな若い人でも「先生」ですし、周りが急にペコペコしだすので、急に自分が偉くなったような勘違いをする。
だから、凄く偉そうにする。

逆に、自分がそうした地位にあるのは、皆様の「お陰」という態度の方も居られます。

こうした方には、こちらとしても最大限の礼儀で尽くしています。
相手の年齢などは、それこそ関係ないです。
若くても、そうしたことを理解している方にはこちらも最大限の礼を尽くすわけです。

己の地位があるのは「皆様のお陰」と理解している方だからです。

そして、そのあたりを理解しているからは、老若男女問わず、腰が低いですね。
もっと言えば、気品がある。

だからこそ、余計に私としても応援したくなってしまうのでしょうね。

「当たり前と思う回数とお陰様と思う回数」どうなっているか、時々振り返ってみることは大事なことなのではないでしょうか?

自分自身の反省を込めて

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