「ハロー地球人アンド日本人オイラ瞳孔パックリチョッピリキてます宇宙人」(ピエール瀧/電気Groove)


武人と文人とのヨタバナ(与太話)

できること=スキルで仕事を選ぶと荒む

『できる・できない』で考えるって、
「一生仕事になるスキル」=「一生金になるスキル」で考えるってことだった。
そして、その根っこには『食いっぱぐれないようにするための』っていう【条件】がついていた。
『食いっぱぐれないようにするための』+「一生金になるスキル」が必要。だから、『食いっぱぐれないようにするための』+「一生金になるスキル」が欲しくなる。
そして、『食いっぱぐれないようにするための』+「一生金になるスキル」を手にしたいから『食いっぱぐれないようにするための』+「一生金になるスキル」を身につけるための勉強をする。
『食いっぱぐれないようにするための』+「一生金になるスキル」が身についたら、それが自分の「できること」ってなって、その「できること」の世界線で生き始める。
この世界線ってのは『食いっぱぐれないようにするための』世界線ってことになる。この『食いっぱぐれないようにするための』【条件】がついた世界の中で「できること」を仕事にしたから、『食いっぱぐれないようにするための』仕事をすることとなる。
この『食いっぱぐれないようにするための』っていうのは、無意識の中に「食いっぱぐれる」という前提があるから生まれてくる。なぜなら、『食うことには困らない』っていう前提だったならば「食いっぱぐれないようにする」必要はないから。なので、この「できる・できない」で考えるという考え方は、『食いっぱぐれる』という前提があって、『食いっぱぐれる』を防ぐためのスキルを身につけ、それを「できる」こととして仕事にしている。
そうすると、『食いっぱぐれる』を防ぐために『食いっぱぐれる』を意識する仕事になるから、『食いっぱぐれる』に怯えなければならなくなって、結果的に心が荒むに繋がる。

というかその「できる・できない」は誰の声ですか?自分でやって検証してみましたか?

『食いっぱぐれる』に怯えなければならなくなるって、結局『食いっぱぐれたらどうしよう』って無意識的に思っているということ。それって、『死んだらどうしよう』ってことと同じだ!だから、三種の病原を捨てるに至った経緯に書いたことと同じになる。
すると、「食っていかなくっちゃいけない」「稼がなくちゃいけない」「金がなくちゃいけない」を握り締めていたってことなんだろう。この声に対して、「本当にそうなの?」って聞いて、しっかり現実を見るといいのかも。現実を見てみると、既に「食ってる」し「稼いでる」し「金ある」しだったりする。程度の問題?

「できる・できない」で考え始めると自分の「好き」がわからなくなる

この【条件】がついた「できる・できない」で考えると、『食いっぱぐれる』を防ぐために『食いっぱぐれる』を意識しているんだから、「好き」や「興味」に意識が向かなくなる。
さらに、『食いっぱぐれる』を防ぐ行動が「食いっぱぐれないように」の行動となるのだから、「好きなことはしないし、やりたいことはやらない」ようになってしまうから「好き」とか「興味」の感覚が薄れてしまうのも当然の結果。

が、自分に素直になると「好き」を感じられるものたちは戻ってくる

何らかの【条件】を受け入れて、それに従って行動をするのではなくて、自分の「好き」や「やりたい」という自分の気持ち受け入れて、その気持ちのままに行動することが、「好きなことを好きな様にやる」とか、「やりたいことをやりたい様にやる」ってこと。
だから、自分の気持ちに素直になれば、自分の「好き」なモノや自分の「やりたい」コトが意識できる。
意識ができれば、常々自分の「好き」や「興味」にアンテナを貼っていることになるから、自分の「好き」や「興味」にアクセスできる。
アクセスできた自分の「好き」や「興味」に向かって行動をすれば、自分の「好き」や「興味」に近づいていけるし、自分の「好き」や「興味」を手にしてそれらを身の回りに置けば、自分の「好き」や「興味」に囲まれる。それを続けていればその状況が日常化する。
結果的に、自分の「好き」や「興味」が戻ってくることになる。

「好き」は結果的に大きなエネルギーを生み出すので、「好きなこと」をやってたら勝手に「仕事になる」って時代になるのでは?

自分の「好き」や「興味」って、自分がフォーカスしたいこと。そして、それを「欲しい」とか「やりたい」とかの欲求がエネルギー。それを素直に受け入れれば、自分を動かすことができる。
只々、自分がフォーカスしたモノコトに自分のエネルギーを使って、自分を動かしているだけなんだけれど、欲求って湯水のように湧き出てくるから持続する。その持続性が、「大きなエネルギーを生み出す」ってことなんだと思う。
自分に素直に行動しているだけなんだけれど、自然と経験値を得ていることにもなるから、気がつけば「ヲタク」になっていたりもする(笑)
「ヲタク」って要は、その分野の極めた人ってことだから、分野の浅い人たちから見たら「先生」だったり「師匠」だったりになる。本人は「先生」や「師匠」になったなんて思ってないけれど、只々「好き」や「興味」を整理整頓してネット状に保管していただけでも発信していることになるから、結果的に「勝手に仕事になってた」になると思う。

「好き」のヒントは幼少時代の「なんとなく」。と辿ると与えられた(生前に選んだ?)運命は決まっているように思える

子供の時の「なんか知らんけどどうしてもいつもやっちゃってたやつ」ってのは、「好き」のヒントになるなって思った。
文人と武人が学校の授業がつまらないときにこんなことしていたっていう話で
 文人:身体の一部分に神経を集中させて動かすとか、凝視するとか
 武人:校庭で石英らしき砂粒だけを拾い集めるとか、影のかたちの変化を観察するとか
このことから、
 今の文人:カラダに興味がある→動かして凝視して体験を通した情報として
まとめる
 今の武人:石に興味がある→情報を集めて成り立ちを観察してまとめる
ってことをやっていると思った。
そうすると、興味っていうのは子供の時から変わらないってことが見えてきた。子供の頃に興味があったことって、親や育ってきた環境が関係しているのかもしれないと考えてみたけれど、カラダのことをなんかしていた人は周囲にいなかったと思う。
だとしたら、運命とか宿命とかがあるって考えてもおかしくはない。

二宮尊徳の銅像は「辛くても頑張る」姿ではなく今でいう「歩きスマホ」だったりして?好きなこと気になることにはいつ何時でも触れていたいだろ…やらなきゃならないことがあったとて、それを差し置いてでも触れていたいだろ…とか?

ホント、それだと思う。
勉強が大嫌いな人からしたら、勉強している姿は苦行をしている姿としか思えないから「辛くても頑張る」姿になると思う。
「歩きスマホ」って、自分の「好き」や「興味」のことを閲覧していると思うのよ。
スマホがなかった時は、図書館か本屋に行っていたけれど、今は手の中に図書館や本屋があるようなもんだから、気になったことは速攻調べられる。調べたことの中にさらに気になることがあったら、また調べて・・・その繰り返しだからずっとスマホで「好き」や「興味」を渡り歩いている。
だから、二宮尊徳は「辛くても頑張る」姿の代表として銅像になっているんじゃなくて、「自分の心に素直な」姿の代表として銅像になっているのだと思う。
「〜しなきゃ」「〜すべき」を差し置いても自分の興味がある方へ進む人って、只々自分自身に素直な人ってことなんだね(笑)
たとえ【条件】がついた「できること」をやっていたとしていても、【条件】付き「できること」を、「便宜上自分で今選んでやっています。」と自分で認めて受け容れていればいいのかもしれないな。

地球を庭にして遊びたい

「地球人はみんな地球の子で、私たちは地球の一部って事になるし、他の動物や植物、鉱物や水や土までも地球の一部。(つまり、人の親は地球より)」の話をした時に、「そういえば、『地球を庭にして遊びたい』って言ってたなぁ」ってことを思い出したんだけれど。
土地は誰かの土地ではなくて、みんなの土地だから、地球はみんなの庭になる。お家の庭で遊ぶように、みんなで地球で遊んだら楽しいだろうな〜っていうのが頭に思い浮かんでそう言ったんだと思う(笑)
地球はみんなの庭だったならば、国境なんて概念がなくなる。そしたら、より自由に遊べるじゃん!
自分が生まれた源が地球なのだから、地球ともっと関わってもいいと思う。もっと様々な角度から、地球と関係性を創ってみたい!


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