「錆びた雨が降る街に汚れたNEWSが走る」(Chaos/氷室京介)
三種の病原を捨てたら最新人生がリリースされました
(文人の死生観話その1)
リリース作業のタスク一覧
タスク1:気づきから把握したこと
(致死率100%ということに気づいたことで把握したこと)
死を怖がっているという自分の感情
死というものは必ず訪れる抗えないものであること
死を怖がりながら今を生きているということ
今を怖がっていても、怖がっていなくても死というものは抗えないということ
タスク2:把握したことから仕様を見える化する
仕様:死に対して、私は今怖がっている。
死というものは抗えないこと→私にはどうにもできないこと=変更できない
怖がっているという今の感情→怖がるという感情ではなくてもいい=変更できる
タスク3:見える化した仕様を再設計する
1.行動を把握する(病気生活の振り返る)
食事制限をしていた=好きなものを好きな様に食べていない
病気が治ってからやるんだと、やりたいことを後回しにしていた=やりたいことをやりたい様にやっていない
2.本音を導き出す(把握した自分の行動に問いかける)
行動から感じたことは何か?=人生を楽しんでいない
感じたことから生まれた思いは何か?=思いっきり自分の人生楽しんでやろーじゃないのー!!!!
思いの中ある感情は何か?=楽しい
思いの核になる信念は何か?=自分の人生の責任(主導権)を持つ
タスク4:プルリクエストを作成する
□死という現象と怖がっているという感情を分ける
□怖がっているという感情を楽しんでいるという感情へ置き換える
□自分の人生の責任者(主導権)を自分にする
タスク5:マージしてデプロイする
主体的に今を楽しんで生きる。
【最新】人生2.0がリリースされました。
武人と文人とのヨタバナ(与太話)
「自由に死ぬ」が最終目標なので例え己の死期を悟っても他人には言わない
生きる自由があるなら、死ぬ自由がある。これは、生をまっとうするというのが前提にあっての話です。全力で生を全うしたのなら、死期というのが感覚的に分かるようになるのではないかと思うのです。だって、生を全うするには感覚を研ぎ澄ませ続けることが必要だからです。それっていうのは、感覚的に捉えられたものが現象だから、人生をデザインするには感覚が必要って話。
病院で死ぬ、だと?
健康とは、『自分が生きたい様に自分で生きることである。』というのが持論です。
何故そう考えたのかと言えば、自分の人生の責任を持つと意識し、自分が今どの様なあり方で生きたいかを明確に知り、それを素直に行動に移すということを淡々とやってきた結果、ココロとカラダと周囲の人間関係が整ったからです。
その前は、ココロとカラダは分裂し、人との関係が恐怖でしかなかったです。
やりたいことをやって次の場所に行く、が死ぬことの本来の姿だろう?
ただ淡々と、自分のココロとカラダを一つにして、現実を創造し続けるのが生きることなんだと思う。生の延長上に死がって、自分自身はそれに気づかないで次のステージ(面)へ行くみたいなことなんじゃないかと。ゲームの裏面に行くみたいな・・・。生と死はひとつなんだと思う。
なので「ピンピンコロリ」に遭遇してその感覚を得たい
結局のところ、生きているのが辛かったり苦しかったりする事ばかりを自分が選んでたら、ずっと辛いし苦しいと思う。苦しい思いや辛い思いをして頑張った先には、幸福はない!
だから、ピンピンコロリに遭遇するためには今をピンピン生きる必要があるという事。
弱って死ぬ、は死の本来の姿じゃないはず
老いる=弱るという定義を疑っている。だって、自分が今20代の頃よりも断然元気だからです。
若い時は、自分を知らなすぎました。というか、自分を知ろうなんて思った事なかったもん。自分のココロを把握し、自分のカラダの操縦方を鍛錬すれば、楽に楽しく人生を描いていけるって思う。その経験値は、老いる毎に高まる→大往生!
キャパシティは小さいほど早く倒れられるので楽で良いよ…
見た目からもそうだけれど、筋力があまりない私なのよ。だから、踏ん張りが効かないのよ。筋力がないから筋トレをして筋力をつけるってことをしていた時もあるのだけれど、全然つかなくって諦めました(汗)
そのお陰様で、諦めが肝心って気がつきました。だって、筋肉がないのが私なのですから。
踏ん張りが効いていたら、成りたい自分に成ろうとまだ頑張っていたと思う。
自分の機嫌を取ってこそ
自分の機嫌が悪くなるのは、誰かが私の機嫌を損ねる様なことをするからだと思っていました。だから、自分の機嫌が良くなるためには、誰かが私の機嫌をよくする必要があると思っていました。
そして、相手の機嫌を取り、相手の機嫌を良くする事で自分の機嫌も良くなるってことをしていたけれど、必ずしも相手の機嫌が良くなるとは限らなくて・・・。
そんだったら、自分で自分の機嫌を整える方が理にかなっているってことに気がつき、相手は関係ないことを知りました。
さらに、誰かに機嫌を取ってもらうってのは、赤ちゃんがしていることで幼稚で自立していないことだと気づきました。痛い大人だった(涙)
いい人、じゃなく個性、を生きてこそ
誰かに機嫌を取ってもらうってのは、誰かにとっての都合の良い人でもある。それを辞めて、自分で自分の機嫌をとる様になると、自分が何に癒されて、何に喜んで、何に興味があって、それをやることで自分が良い気分になるもんだから、自分の個性が磨かれていく。だから勝手に個性で生きちゃうってことなんだと思う。
奥方(女)の閃きを体現してきた天下人たち(男)
自分で自分の機嫌をとるのがスタンダードになると、個性が勝手に発揮されちゃってて。頑張っている状態じゃないから、力んでない自然な状態。そういう時に、自然と発している言葉が閃きになるのかもしれないな。奥方はそんな風に生きていて、側近の天下人はその閃きから天下統一へと向かっていけたんではないかと。
ラドン温泉と懐妊
ラドン温泉というか、源泉掛け流しの温泉がカラダをいい状態へ持っていくと思う。体調が悪かった頃、湯治と言いながら源泉掛け流しの温泉を探して入りに行って遊んでました(笑)いい温泉に入って、いい水を飲むと、ご飯が美味しく感じて、たくさん食べられたんだよね。いつも食欲がなかったから、温泉とか水のお陰かなって思ってました。だから、妊娠した時に「こないだ入った温泉か?」って頭を過ぎったんだけれど、まさかね・・・ってその感じたことをなかった事にしてたのを思い出しました。その真意は分からないけれど、地球から出てくる物質はスゲーんだよという武人の言葉に頷くしかなくなりましたよ。ジオヲタには抗えませんです(。˘ㅅ˘)
つまり人の親は「地球」だよね、とすると?
地球から生まれる水とか温泉とかの影響で子が生まれると考えると、子供はみんな地球の子になる!地球人はみんな地球の子!!だから、みんな兄弟姉妹だし、みんな父母だし、みんなで手を取り合って育て会えればいいって思えるよね。それってすごい事だって思った。
それは縄文時代のことで
縄文時代は争った形跡がないってことを知った時、人間ってそもそも争わない生き物なんだろうな〜って勝手に思ってたんだけれど。みんな地球の子って視点を持っていたならば縄文時代の在り方に近づけそうって思いました。
地球の子という視点を持ったならば、私たちは地球の一部って事になるし、他の動物や植物、鉱物や水や土までも地球の一部だし、それらとも家族同然。
子供は誰かの子ではなくて、みんなの子供。土地は誰かの土地ではなくて、みんなの土地。物は誰かの物ではなくて、みんなのもの。そういう考えになると思う。この日本には、元々シェアリングエコノミー?って考え方が生きていたんだろうな。でも一体、所有するという概念はいつどこでどうして生まれたのだろう?
文人考案・現代を生きる我々の三大タブー「死・金・性」にまつわるシガラミが解けるのでは…(ヒーーー)
地球の子という視点を持って見ると、この三大タブー「死・金・性」にまつわるシガラミが解けていくと思う。
生と死を見てみると、単なる地球の中の循環と思える。お金を見てみると、一生懸命に働かなくても地球の循環のペースに合わせて仕事をすれば衣食住は賄える。性を見てみると、自分の性を自分でただ認めればいいんだと思う。男と女の2色じゃなくて、その間には色んな色があって地球の一部の色って思える。
「ちゃんとするってどういうこと?」に対する返答「ちゃんとはちゃんとだろ!」には失笑よ…
改めて「ちゃんとする」って都合の良い言葉だなぁって思いました(笑)
子供につい「ちゃんとしなさい!」って言っちゃって。でも、自分で言っときながら「ちゃんとって何?」って自問自答して(笑)
子供を自分の都合の良い様にしたかったのかもしれないなと思いました。嗚呼ごめんなさい(汗)
「ちゃんとしなさい!」という大人に対して、「ちゃんとって何よ!」と子供が返して、それに対して「ちゃんとはちゃんとよ!」とちゃんとを説明できない大人がいて・・・。大人も結局は、地球の子なのよね(。・ω・。)
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