見出し画像

死にたいと言う我が子と遊ぼう

自分の子が「死にたい」と言う

我が子が苦しんでいる
我が子がなぜか苦しんでいる
本人も親も社会も今のその子をこのままでいいとは言わない

親はのたうちまわって苦しむ

我が子を助けるために

すると
私が変われば大切な我が子が変わる
そう思っている親がいる
そう思わなければ希望がない
そう思っている親がいる
その「私」はこの子をこんな風に育ててしまったのは「私」だ
そう思っている親がいる
確かに「子」の周辺の環境の一部である「親」が変われば「子」の環境は変わる
だから「子」は変わらざるを得ない
だから「子」は当然変わる

しかし

しかしである

「子」は「親」が変わったことで変わりたいだろうか
「子」は「人」は他の「人」が変わったことで変わりたいだろうか

「親」は他の「人」が変わったことで変わった「人」を育てたいのだろうか
「親」は自分を変えることで希望を感じたいだけなのではないだろうか

そんなこと言わないでくれよ
どんなことしても助けたいだけなんだ
じゃあどうすりゃいい

何かがおかしい

何かがおかしいのである

何かを見失っているのではないだろうか

僕らは何かを見落としているのではないだろうか

「親」はほんとの敵は見えているか

「子」はどうだ

「社会」はどうだ

「親」も「子」も「社会」もほんとの敵が見えているのか

「私」から見る世界は私そのものか

他の「人」は私の「捉え方」を見て「私」だと言うかもしれない

しかし「捉え方」は日々変わる

どんどん変わっている

こんなもの「私」そのものだろうか

「私」の中のどんどん変わるものを「私」と呼ぶのか

「私」と私の「捉え方」は違う

「私」は「私」

「私」は私の「捉え方」ではない

「子」は子の「捉え方」ではない

いくら「私」の「捉え方」を変えても「私」は変わらない

「子」は「親」が親の「捉え方」を変えらば「子」の環境が変わる

だから「子」の世界への「捉え方」は変わらざるを得ない

でも「子」そのものは変わっていない

「親」も「子」も何も変わっていない

変わったのは「親」の捉え方と「子」の捉え方

子が苦しんでる
死にたいと言う

じゃあ私の育て方が悪かったのか
などという迷いが出てくる

そのような迷いと向き合い
親の捉え方を変えてみてもいい

子の捉え方が変わる

だからと言って

子も親も変わってはいない

それでいいのではないだろうか

子も親もその人の本質は少しも変わらず

子と親がそれぞれ持っている世界への「捉え方」が変わる

それでいいのではないだろうか

親も子も変わらず「捉え方」を変えてみる

親そのものではない「捉え方」を変えて

子そのものではない「捉え方」がどう変わるか

ワクワクする

それでいい

そんな気がする





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?