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トランプ(Think Of England 5)

 この話を書いた頃のイギリスは不動産ブームもあって景気は絶好調だったが、そうでもない時代はずいぶん長かった。留学していた頃は、リーズの街にも「To Let」の看板の出た空きオフィスが多かったように思う。ちょくちょく足を運んでいたWaterstoneというなんとなく三省堂に似た書店の前には古ぼけたコートやらショールやらわけのわからないぼろ布をまきつけて汚い雪だるまのようになったおばあさんが座っていた。誰も、見向きもしていなかった。

 私はどうもホームレスの人に縁があって、〈父〉〈母〉の住むデヴォンの町でもしっかりとホームレスの人と顔見知りになった。まだ大学生だった頃、私はこの町に英語を学びにやってきて、小学生のように朝8時からお弁当を持って毎日せっせと学校に通っていた。校舎は3階建ての、白い漆喰の壁にわらぶき屋根の建物で、ハイストリートのとっつきに建っていた。〈母〉が寝坊してサンドイッチを作りそこなうと、昼食の時間にクラスメートと一緒にパブでバターたっぷりにんにくどっさりのガーリック・トーストを食べて、午後の授業でひんしゅくをかったり、パン屋で貝殻みたいな形をしたコーニッシュパイを買ったりする。それが一日で一番楽しみだったが、ときおりお気に入りのローズ&クラウン・インの前に異様な人物が腰をすえているのが気になっていた。
 絨毯、というかラグというか、とにかく敷物を身体に巻きつけ、髪も髭ものびほうだい。まるで映画『十戒』のモーゼみたいだが、でっぷりと太り、たいへんに血色がいい。モーゼにも似ているが、『ヘンリー五世』のフォルスタッフが病気になる前に、映画のセットから逃げ出して、どこかで泥沼に落ち、そのまま乾いた、というほうが近いかもしれない。
 この平和な田舎町のこぎれいなハイストリートに似つかわしくないし、不気味だし、私たちを見ると、さりげなく片手をこちらに差し伸べるような気がしないでもない。何をするわけでもないが気持ち悪い。ある日、家に帰って〈母〉に訴えると、〈母〉は「ああ、あの人はトランプっていってね。悲しい身の上の人なのよ」と遠い目つきをして昔話をはじめた。

 ある寒い冬の明け方、浜辺に見慣れない古いボートが置き去りになっているのを漁師が見つけた。白い塗装はぼろぼろになり、異国の言葉が書かれていた。まだ朝霧が白く立ち込め、海岸に並ぶホテルの入り口には明かりが灯っている。その下になにやら黒い塊がうずくまっていた。漁師が近づいてみると、汚い魚の網だけを身体に巻きつけた老人が眠りこけているのか、気を失っているのか、手足を縮めて階段の手すりに寄りかかっているのだった。親切な漁師は酔っ払いが外で寝過ごしたのかと思い、「おい、風邪をひくよ」とそいつを揺り起こした。老人は目を覚ますと、漁師の顔を見るなり両手でしっかりとしがみつき、なにやら叫びはじめた。どうやら英語ではなく、漁師は英語以外の何語も分からなかったので、しかたなくテンプルストリートの警察に行き、かくかくしかじか、と説明した。若い警官が漁師について海岸へ行き、老人に聞き取りをしようとしたが、学校で習ったフランス語ではないことがわかっただけであとはお手上げだった。そこで警官は町の私立学校で教えているオックスフォード出の先生を助け船に呼んだ。しかし、先生は「これは私の修めたいかなる言語でもない」といかめしく述べただけだった。次に呼ばれてきたケンブリッジ出の医師もラテン語属の言語である、と言うばかりでたいした助けにはならなかった。
 困り果てた警官はとりあえず、魚の網を着ていてもらうわけにはいかないので、親切な漁師のおかみさんに頼み、衣服を調達してもらった。そして5ポンド紙幣を渡すと老人を送り出した。まあ別に何かしたわけでもないし、そのうちどこかに行くだろうと思ったのだ。
 しかし老人はそれからハイストリートの角に座り込むようになった。そして若い娘を見るとよろよろと駆け寄っていって顔をのぞきこむので、一度ならず警官はサイレンのような悲鳴をきいて詰所を飛び出さなければならなかった。「誰かを探してるんだね」と、ハイストリートに並ぶ商店の主人やおかみさんたちは言い合うようになった。「きっと、金髪の美しいイギリス娘と恋をして、その娘が国に帰ってしまったんだよ」と八百屋のおかみさんがキャベツを並べながら言った。「それで、あのぼろっちいボートで故郷を出たんだろうよ、きれいなイギリス娘ったら本当にきれいだからね」とユニオン・ジャックをショーウィンドウに貼っている肉屋の主人がおかみさんにウィンクをした。「きっといろんな港、港を探し回ったに違いないよ、あの髪と髭、見てごらんよ」と買い物にきた客が言った。「そうね、いろんな国を何十年もかけて金髪の娘を探して、若者はとうとう老人になってしまったのね」そういうと、皆、しんとなって鼻をすすりあげた。
 やがて町の人びとはかわるがわるこの老人に食べものを運ぶようになった。老人が座り込んでいたのはキャット・プロテクション・リーグという猫保護団体のチャリティ・ショップの真向かいで、身寄りのない猫を愛する心優しいご婦人方がしょっちゅう出入りしていたので、もちろん身寄りのない人間であるこの老人にも、惜しみない愛が注がれた。温かいスープ、焼きたてのビスケット、あるご婦人はわざわざスカーフと靴下を編んで持ってきた。老人はいつの間にかトランプと呼ばれるようになり、ずいぶんと物持ちになり、丸々と太っていった。
「トランプをあのままあそこに座らせておくのはよくないね」ある日、花屋の親父が言った。「あんなところで風邪でもひいておっ死んだら、寝覚めが悪い。うちの裏に空いてる物置があるから、整理して住まわせてやろう」
 トランプに物をあげるのは簡単だったが、トランプを説得して小屋に住まわせるのは並大抵ではなかった。花屋の親父はまずトランプを指差し、「ユー」と言い、足元を指差して「ヒア」と言ったあと、空を指し、身体を大げさに震わせてみせた。「It’ll be dead cold soon, lad」トランプはうさんくさそうにお昼にもらったフィッシュ・アンド・チップスをつまんでいる。
 「ハウス」親父は紙を取り出して家の絵を描く。ユー、ハウス。トランプの腕をとり、立たせようとする。トランプは腕をもぎはなし、新聞紙に包まれたチップスを隠そうとする。「ちがうよ、あんたのチップスなんてとりゃせんさ」親父は絵をさし、花屋のほうを指差し、自分の胸を叩き、空を仰ぎ、懸命に説得する。新聞紙の包みを背中に回したトランプがなにやらわめきはじめる。
「あなた、だめですよ。トランプはね、恋人を探してるんですから、通りに座ってなきゃいけないんですよ」
 騒ぎを聞きつけて、キャット・プロテクション・リーグの店から上品な老婦人が声をかけてきた。トランプがそうだそうだというように、何事かを言って花屋の親父をにらみつける。「ねえ、何十年もさまよってきたんですものねえ。娘さんももうおばあさんになっているんじゃないかと思うけど、気のすむようにさせてやりましょうよ」
「そうかねえ」花屋は気がすむもすまねえも、俺の言っていることがさっぱり通じてねえんじゃねえかとは思ったが、どうしようもないので引き下がった。

「それからずっとトランプはあそこにいるの。恋人を探してね。今はなんでだかローズ&クラウンの前にいるけどね」
 これは果たして悲しい身の上話なんだろうか、と思ったが、〈母〉が胸を押さえてため息をつき、「なんてロマンチックなのかしら」とつぶやいているので黙っていた。

 トランプはみんなにいろいろなものをもらい、寒い日はあちこちの商店の軒先を借り、おいしい手作り料理を食べ、10年あまりをこの町で暮らしたあと、あるぽかぽかした春の昼下がり、息を引き取っているのを見つけられた。壁に背中をもたせかけていた姿は、はじめて見つかったときと同じだったが、たくさんの古着を重ね着し、何枚もの絨毯の上に座り、頭にレインハットをかぶり、となりには傘が干してあった。ふところには100ポンドばかりの金があった。この町で、たぶんトランプは幸せだったんだろう、と私は思っている。

*トランプの由来はドナルドさんではなく、『わんわん物語』の犬の名前だと思われます。


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