ひとを恨むのは間違ったことでしょうか?

 喧嘩をしてしまった。

 どうやら音速で春が過ぎてしまったということに気づいたのは、川沿いのローソンで切手を買ったあとのことだった。ゴールデンウィークだから郵便局が閉まっていた。わたしの家は海から離脱して流れている川と海の間に挟まれていて、ある日わたしの家にやってきた友人は、「湿気がすごいでしょう」と言った。冬の間、窓のそばにタオルを置いていると、夜露を搾り取れるほどになった。顔を洗ったら、別の顔になれたかもしれない。

「ねえ、たけのこもう売ってなかった。買いそびれちゃった」

 わたしの言葉に、同居人は返事をしなかった。

 彼女が返事をしないのは、それほど珍しいことではない。でも、とわたしは気づく。そういえば、彼女としばらく、会話をしていない。わたしがひとりで喋って、彼女は黙っている。わたしは小さく息を飲んで、それから、少し、考えた。

 土地柄、春先からずっと、いろいろな種類の柑橘類が買える。冬のさなかりんごばかり齧っていた彼女は、やさしい女の子のような名前がついた柑橘を期に言ったようで、よく、食べないで、膝の上に転がしている。いま膝の上に転がっていなかったから、わたしは買い物袋から取り出して、ひとつ、転がした。彼女はわたしを見上げてから、目を逸らした。

「キャベツは値段が戻ってた。ちょっとだけ高かったの、なんだったんだろうね。白菜はなくなっちゃった、五月だものね。いちごを買おうかどうしようか迷ったんだけど、買ったよ」

「買ったの?」

「うん」

 同居人は小さく息をついた。「食べる」

 会話だ。

 わたしは緑色のピクニックテーブルを持っている。それを出してきて、開いた。同居人はスツールの上で、女の子の名前のついた柑橘と、たれぱんだを突き合わせて、何かままごと遊びをしているように見えた。ままごと遊びをしているにしては、難しい顔をしていたけれど。

 わたしはいちごを食べるとき、砂糖と牛乳をかけて、潰して食べる。子供の頃からずっとそうしている。それがおいしいと思っているというより、習慣でそうしている。そして、同居人といちごを食べるのは、はじめてだった。彼女はわたしの挙動をひとつひとつじっと見つめて、それから、スプーンを手に取った。それはわたしにとってとても特別なスプーンだということを、彼女は知っているのだと、わたしにもわかった。同居人はとても慎重に、器に向かってスプーンを傾けた。白い砂糖がさらさらこぼれた。

 同居人はそれから、そのスプーンに、ぐ、と、力を込めた。砂糖にじわりと赤が滲んだ。

「恨むのは」

「うん」

 わたしの宝物、わたしのスプーンで、ぐ、ぐ、と彼女はいちごを潰しながら、言った。

「質問」

「うん」

「得意でしょ」

「うん」

「ひとを恨むのは、いけないこと?」

 わたしは胸の中でこっそりと息を吸いこんで、吐いた。

「いけないことではないよ」

 彼女は納得のいかない顔をしている。わたしをじっと見ている。

「みんな間違ったことをするし、みんなどうしようもない生き方をしてしまう。それで別に大丈夫。誰だって恨まれるようなことをするし、そんなことをされたら恨んであたりまえだ。好きなだけ恨んでいい」

「好きなだけ、って、どれくらい?」

「恨みたくなくなるくらい」

「気持ち悪くなるよ」

「なるよね。でも仕方ないんだ」

「そっか」

 彼女は潔癖症の気があるので、この湿気た家の部屋の隅から黴ていくのを、毎日拭いていたのを、わたしは知っていたし、ありがとうと言っていたこともちゃんとあった。でも、彼女がこの家に執着する様子を見せることに対する、不可思議な気持ちのほうが強かった。ここはあなたの家ではないのに、と、言ったことはなかったけれど、言っているも同然だったのかもしれない。わたしたちは向き合って、いちごを食べた。わたしのスプーンが彼女の口の中に何度も吸い込まれていくのをわたしは見ていた。

「ばんごはんつくる」

 小鳥みたいに小食のくせに、同居人は牛乳を飲み干してから、きっぱりと言った。有無を言わせぬ姿勢でそう言って、キッチンに立った。

 パスタをマヨネーズで合えたものが出てきた。

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