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ビビリは努力をムダにする

何らかの分野で成功をしている人は必ず努力をしています。しかし、努力をすれば何でもできるのかといえば、そんなことはないようです。

残念ながら、あらゆる面で努力が報われるということはありません。

子どもの夢ランキングでは、小学生ではサッカーや野球選手が上位にありますが、中学生になると下位になり、高校生になるとランキングから姿を消します。

成長の過程で、人は「努力だけではどうにもならない」と悟ります。プロスポーツ選手になる子どもの多くは、その頃から特筆した能力を発揮しています。その能力は年を重ねるごとに高くなり、高校生になる頃には、一般的な生徒との差は努力ではどうにもならないくらいに開いています。

誰でも一度くらいは、「天才」を見たことがあるでしょう。

やはり、努力はムダなのか?

努力ではどうにもならない能力を見てしまうと、我が身の能力のなさにがっかりしてしまいます。

しかし、プロ野球選手になる子どもがあらゆる分野で能力を発揮するかというと、そんなことはありません。すべての分野で発揮できる能力はありません。

スポーツ選手が引退後に飲食店を経営して失敗するような話があります。スポーツで能力を発揮できても、飲食店経営の能力があるとは限りません。

逆に言えば、何の能力もない人が存在するのかも疑問です。

ちなみに、ここでは、能力と才能を区別してお話をしたいと思います。

『才能を磨く』(大和書房)の著者であるケン・ロビンソンは才能とは、あなたの中にある可能性であり、能力は才能を発揮させるための努力が必要であると説いています。

能力は才能を磨いた結果であるとすると、能力の高い人は、

・才能を発見した
・才能を磨いた(努力した)

という2点と実践したことになります。

つまり、能力とは、自分にある才能を磨くことで作られるものだということです。

誰にでも何らかの才能はある(はず)

才能が自分の中にある可能性だとすると、まったく可能性のない人間が存在するのかということを考えたいと思います。

考えると言いますか、大切なことはあなたが自分のことをどう考えているでしょう。一般論や人の話は関係ありません。
「自分はまったく可能性がない」と思えば、あなたの可能性は消滅します。逆に、何かの可能性があると思い続ける限り、才能は存在し続けます。

実際、スポーツの才能がなかっただけで、他に才能があるかもしれません。

「自分の可能性=才能」を真剣に探すかどうかが、努力をして能力を発揮するためのスタートラインです。だから、天性の才能を必要とする分野以外では、努力は有効でしょう。

もし、自分の才能を発見したのに、努力をしないとしたら、それはあなたの怠慢でしょう。また、やる前からやってもムダだとか、少しやってやめてしまうのも努力を放棄していることになります。

ただ、この判断は間違っていません。努力がムダになりそうなので努力をしない。この考えは真っ当です。

問題なのは、発見したと思った才能が才能でなかった場合に、次の才能を探さなくなることです。

才能を能力にできないのはビビリだから

ほとんどの人は、いつの頃からか、自分の才能を探すのをやめてしまい、才能を能力にできない分野の仕事をしています。それで満足であれば私がとやかくいう話ではありませんが、「こんなはずではない」と思うなら、あなたの才能は別のところにあるということです。

才能が別のところにあるとわかっているのに、才能を探し、能力を高める努力をしない理由は、あなたがビビリだからでしょう。

何をしても才能と能力のないことがわかってしまうのが怖いという気持ちはわかります。一方で、才能を発見した人は、人生で大きな喜びを感じています。

他に才能がありそうだけど、なかったら困るので、今の仕事をしておこう。そのうちに、才能を見つけることができるだろう。こんなことを考えているうちに、人生は終わります。


普通の人が天才になれるか?

ビビリでない人は、自分の才能を開花させるための努力を惜しみません。その結果、普通の人が天才になることもあります。実際、あらゆる分野で天才と称される人はいます。

よほど特殊な仕事でなければ、才能を活かすことができれば、努力で能力を発揮することはできます。

自分の才能を発見し、努力で能力に開花させた人で、その業績が大きければ天才を言われるのです。

トークや司会の天才と言われた島田紳助さんによると、やはり、人には才能と努力が必要だということです。

紳助さんの著書によると、「5の才能と5の努力があるとして、掛ければ25が最高となる。しかし、5の才能があっても、まったく努力をしない人は0なので、5×0で0点となる。」というような話があります。

150キロのスピードボールを投げることができる人が野球の練習をしなければ野球選手にはなれないということです。

一方で1の才能でも5の努力をすれば、5点。しかも、努力をするほど能力は上がります。

もちろん、誰もが天才になる必要はありません。才能を活かして豊かな生活をするためには、天才と呼ばれるほどの能力は必要ありませんからね。

結局、努力とはなにか?

幸田露伴は『努力論』(岩波文庫)で、努力とは、目標を掲げ、そこに到達するために邁進することであり、自分の「人生の目的」を明らかにすることの大切さを説いています。

人生の目的とは、自分の才能を発見することであると私は思います。

正しい努力があるとすれば、才能を能力にする努力であり、逆は才能がない分野で努力をすることでしょう。

だから、私たちが「人生の目的」(成功)を定めて、それに近づく訓練をすることで、努力は報われます。

そして、結果として天才と称される可能性もあります(称されなくてもいいですけど)。

島田紳助さんも「目標を決めて、自分の教科書を作る」ことを説いています。彼の場合、観客にウケる「面白い漫才」を定義し、それを実践している先輩の漫才をカセットテープに録音して何回も聞いたそうです。

著書の中で、島田洋七氏をパクったと告白しています(ネタではなくシステムを)

つまり、正しい努力とは、

1:人生の目的を明確にする
2:目標を定めて、そこにたどり着く戦略を考える
3:実行する
ということになります。

最後に能力について考えます。

能力が高いとはどんな時にいうのでしょう?

能力とは、よい結果を出すことであり、「結果=人の関心のあること×パフォーマンス」で表現することができそうです。

高いパフォーマンスは、スポーツなどの分野に限りません。人の関心のあることであれば、どんな分野でも能力を評価されることができます。

営業マンであれば、上司である営業部長の関心は売上です。だから、売上を大きくするほど、結果を出したことになります。その結果が、上司の想像を大きく越えれば、あなたは天才と称されます。

別に天才になる必要はないと言いつつ、天才とは何かと考えると、天才とは、「普通の人が考えない方法で、表現をする人であり、予想外の方法で問題を解決する人」だと言えそうです。

この定義は、あらゆる天才に当てはまります。

逆に言えば、私たちが、予想外の方法で問題を解決できたとしたら、私たちは天才になります。そのときに努力は報われています。

ビビって天才になるのをあきらめるのか、自分の才能を活かす方法を考えるのかは、結局のところ、あなた次第です。

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