見出し画像

「自信を持たなくてはいけない」に、縛られることなく。

きっかけがあったわけでもなく、頭の中で自動的に嫌な出来事を思い出すときがある。身体を動かしているときは、忘れられていられるものの、たとえば仕事中などにふいに思い出し、わけもわからなく悲しくなったり、傷ついたり、憎しみさえ抱いたりする。過去の嫌な出来事、というのは自分を否定されている(と感じる)ようなものばかり。自分自身という存在が揺らぐ瞬間に、冬の冷たい夜闇の中に薄手の服のまま放り出されたような、そんな寄る辺のない感覚になる。

君は後ろを向いてばかりいる、と言われたこともある。実力ある人を嫉妬している、と言われたこともある。とくによく言われたことは、「自信を持たなければだめだ」ということ。自信がないと、当人が苦しむから自信をつけたほうがいいのだ、という理屈はわかる。けど、わたしに「自信を持て」と投げかけた人は、「自信を持つことが正しい」ということを、少し盲信しているように思えた。彼らが投げかける「自信を持つこと」の簡単な理屈は理解できても、どこか自己啓発書の類を安易に引用しているように思え、心に落ちることはなかった。

時間が経って、何でこんなに「自信を持て」という言葉に、自分がひっかかるのか、モヤモヤするのか、その謎が少し解けた。当時の自分は、「自信」という言葉に包括されている意味を、知らなかったのだ。

教育博士の渡辺弥生教授は「感情の正体」という本の中で、「自信」(=自尊感情)にはふたつの種類があると述べている。ひとつは、他者から褒められることで得られる自信(随伴性自尊感情)。この感情の欠点は、他者からの承認がないと、自分自身がぐらついてしまうというところだ。そしてもうひとつの自信が、本当の自尊感情ともいえる、「本来感」。これは、自分のありのままを受け止められるので、外部からの判断基準に頼ることがない。ーーこの部分を一読して、わたしが言われてきたのは、「本来感」という自尊心を育てよ、ということなのだ、となんとなくわかった。

けれど、「自信を持て」と言った相手が、これをどこまで理解して言っていたのか、よくわからない。わたしの前から過ぎ去って行った人たちだし、その事実を確認することができない(その場にいたとしても、事実確認すると嫌がりそうだからしない)。表面的に「わたしはできる!」「わたしはえらい!」と言葉を繰り返すことでも、少しずつ自尊感情は育てられるのだそうだが、わたしにはそれよりも、至らない自分を、認めていく(許していく)ことのほうが大事な気がしている。そちらのほうがいい、と直感的に思うのは、自分を無条件に褒めることに、慣れていないせいもある。 

至らない自分を認める、というのは甘えることとは、少し違う。たとえば、人を憎いと思う自分がいるのなら、まず自分がそれを許してあげる。憎んじゃだめだ、と抑圧せずに、受け止めてあげる。そうすることで、感情の増幅を抑えることができる。目標にクリアできない自分がいても、いったん「そういう自分」を受け止める。そしたら、「次はどうすればいいのか?」という思考の切り替えがしやすくなる。

という論理ではあるけど、そんなに簡単にできるものでもないことも、直感的(あるいは体験的)に、なんとなくわかる。でも、まずはそこから始めてみたいと思う。

「自信を持たなきゃだめ」ということに縛られずに、「自信が持てない自分がいてもいい」というふうに。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?