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【連載小説】十三月の祈り ep.8

 チェーンを掛けたまま、彼女は玄関ドアを開けた。ドアの隙間から見える目は、アイラインでしっかり縁どられ、作り物の人形みたいに大きく開かれていた。マスクをしていたため、表情を読みとるための情報は、その大きな瞳の動きしかなかった。
 吉原さんとのことで、話があって訪ねました。
 それからわたしは、カッターの刃と一緒に届いた封筒を彼女に見せた。彼女は、瞬きもせず黒い瞳をゆっくり動かし、封筒を認めると、またわたしの顔を見据えた。彼女の背後から、場違いにもテレビ番組の観客の笑い声が上がる。寒さと緊張で封筒を持つ手が震えてきて、怖れを気取られないようわたしは即座にその手を引っ込めた。わたしは、と言いかけて、彼女の沼のように暗い瞳を見ると、次に言おうとした言葉を忘れてしまう。視線をずらして、また、わたしは、と声を弱めて訴えた。わたしは、吉原さんとは関係ありません。少なくとも、あなたが思っているような関係ではありませんでした。ただ、吉原さんはわたしの話し相手になっていただけです。それも、メールを交わすだけの相手。履歴をもう一度確認すればわかると思います。吉原さんにとって、わたしがどんなに些細な存在だったのか――。ひと息に言ったら、彼女は玄関のドアを乱暴に閉めた。それで終わった、と思った。たとえ、わたしの訴えが失敗に終わり、誤解がとけなかったとしても。
 でも、もう一度玄関のドアは開かれた。視界に黒いものが過った、と思った瞬間には、わたしのショートブーツの元に、あなたが何年もかけて向かい続けたリングノートが放り落とされていた。
 チェーン越しから彼女は鼻にかかったろれつの回らない口調で、言った。吉原はすべて書いていた、○月○日お前に会ったって、それでもしらを切るつもりなのかよ、お前みたいに真面目くさったやつほど腹黒いんだよ、返せよ、吉原がわたしにくれたはずのものをぜんぶ返せよ。返せないなら今すぐ消えろ、わたしの前から消えろよ、世界から消えろ。
 それから彼女はペットボトルの水を捲き、ドアを閉めた。コートの前が少し濡れたけど、わたしの緊張は去っていった。これで終わったから。消えろ、と言われたことで、彼女の復讐はこれで終わりなのだと思った。赤くなっている指で、足下のリングノートを拾い、開かれたページに目を落とした。久しぶりに見る、あなたの字。青い文字が滲んだ、と思ったら涙が溢れてきた。あなたに会えた気がした。 
 
 ***

 黒いリングノートは手帳サイズで、でも手帳よりも厚めにつくられていた。ページの色は薄い黄色で、広く罫線が引かれてある。あなたの筆跡は、その日ごとに変わっていった。事務的なことを書き留めるときは几帳面な角張った字だったし、心のうちを吐き出すときには、文字を判別するのも困難なくらいの走り書きが残っていたりもした。乱れているときのほうが、長く書いていた。紙が破れる寸前まで何度も青いペンで言葉を消した跡が窪んでいて、指先でそこをなぞったりした。ざらり、とした感触を認めると、あなたの胸の傷口に触れているような気持ちになった。

 人の日記を読むなんて、悪趣味だな。

 ノートから顔を上げると、背をもたれかけていたベッドの片隅に、あなたが胡座を掻いて座っている。夕刻を告げるチャイムが部屋に静かに響き渡り、わたしはテーブルの上のデジタル時計に目をやった。一六時半。照明をつけると、あなたは枕を引き寄せ、「あなたの胸の傷口」なんて、言葉が感傷的過ぎるよ、と口元だけで笑った。それにそこには、僕の身体も心もない。ただ、言葉しかないんだから――まるで、唯物論者みたいなふりをして言う。わたしが非難するようにあなたを見据えると、あなたは笑った顔を元に戻した。まさか、怒っている? そうあなたは問いかけるけど、わたしが怒ることを少しも恐れてはいない。瞳は迷うこともなく、唇の端はしっかり結ばれ、あなたはわたしを試しているのだ、ということがわかる。わたしは頭を振った。ノートのページをめくり、最後にあなたが書き記したところまで遡る。――12月○○日 由紀が帰ってこない。駅まで出て由紀を探す。雲に覆われ、白っぽい夜空の下、駆け出しのミュージシャンが演奏をしていた。聴いていると、Aに会う。しばらくAと話し、それからAに誘われた。自分の部屋に来ないか? と。それから僕とAは……――
「――なんで嘘を書いたんですか?」
 由紀、というのはあなたの奥さん。ここに出てくるAは、わたしのことだった。あなたは枕を隣に放り、わたしの傍まで近づいてきて、身体に触れる。頬にあなたの耳があたり、わたしの腕に沿ってあなたは手を伸ばす。そして、わたしが指で示した箇所を、あなたは同じように人差し指でなぞった。

――僕たちが夕飯を食べ終わると、交わす話題もない僕たちの間に沈黙が下りた。僕が帰ろうとすると、Aは僕の手を反射的に握ってきた。一瞬力を強めたが、自分のやっていることを恥じたのか、やがてその手を放した。僕の顔をろくに見ようともせず、Aは「寂しい」という言葉を何度か繰り返した。ボランティアとしてAの相談を受けていた頃から、Aは周囲に馴染めないことを悩み、孤独感に怯えるような子だった。
 僕はAに何をしてあげられるのだろう? そのことをいつも考えていた。Aのために彼女が好きな美術館に連れ出したり、Aの友だちになれるような本を貸してやり、たまにいくつかのプレゼントを贈ったりした。
 でもそのすべてよりも、僕と触れていたかった、自分が孤独じゃない方法はそれしかなかった、とあるときAから言われた。それ以来、僕はAに会うたびに、Aを抱きしめることをした。それはとても簡単なことだった。Aが孤独から逃れる方法として。僕がAに余計な心配をしないで済む方法として。――でも、問題はそれをやめられないということだ。
 その日も結局僕は、Aを抱きしめた。僕の腕の中でAは苦しみから自由になれているようだった。朝目覚めても、Aは僕の身体から離れなかった。吉原さんといると、安心するんです。Aが僕の胸に顔を埋めて言った言葉で、僕はAに残酷なことをしている、と気づかされる。もし僕らが元の場所に戻ったら、Aは果たしてひとりで生きていけるだろうか? 
Aのことを考えるたびにKの声が囁いてくる。お前は、Aを騙している。Aはお前しか頼る人間がいないというのに、それを利用している。「利用」している――お前がAのためにやっていることは、お前自身を満たすためのものじゃないのか? 孤独感に怯えているのは、お前のことじゃないのか? 
Kの声を消すために、家に帰ると台所の棚から頓服の錠剤を多めに取り出し、水で無理やり流し入れた。

――僕は早くKを消滅させ、自己の克服をしなければならない。

 初めてその文を読んだとき、理解できなかった。なぜ、あなたが嘘の記述を残したのか。でも、何度もわたしの中にいるあなたに問いかけるうちに、わかったような気がした。これは、「誰かに見せるため」の日記。あなたは、由紀さんが読むことを想定して書いたのだ。そう思うと、あなたの日記のすべてを信じることができなくなった。

 ほら、僕が答えなくとも理由はわかっているじゃん。由紀に読んでもらうためだよ、すべて。君には悪いけど、由紀に罪悪感を抱かせたくなかったから。

「そんなに意地悪な人間だったんですね」
 思いのほか、声は冷たく響いた。あなたはわたしから、身体を離す。今更気づいたふりをしているの? 君はもうとっくに、僕の本性をわかっているのだと思っていたよ。それから、あなたはわたしからノートを取り上げた。金色のリングに、残っている紙の切れ端を指で除き、拾いあげる。この日記が完璧なものではないという証拠も残していたのにさ。どの部分を僕が破ったのか、君は興味が湧いてこなかった? わざと試すように言うあなたの「演技」に嫌悪し、わたしは深く息を吐いた。そういう「ふり」をするの、やめてください。あなたは、ただ意地悪をするだけの人じゃないということも知っています。それからあなたは、白く揃った歯を見せて笑った。「ふり」を始めたのは、君からだよ。――心に描いたあなたでさえも、わたしはうまく掴まえられない。そうやって、あなたはわたしの問いから逃れようとする。

 あなたが破った箇所について、もうわたしは知ることができない、永遠に。破られたページの前後を読みながら、わたしはあなたが何を隠そうとしたのか考えを巡らした。でも、それは意外と簡単な事実だったのかもしれない。日記を最初に読む人――それはおそらく、由紀さん――のために、あなたはそのページを破った。そうだとするのなら、由紀さんに対する本心をあなたはそこに書き残していたはずだ。
 ――吉原が「わたしにくれたはずのもの」を、ぜんぶ返せよ。
 
由紀さんは、あなたを愛してはいなかった。

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