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「自分を変えろ」、は暴力じゃないけど。

 学生時代によくいわれたことのひとつが、「自分を変えろ」だった。その言葉をいわれるたびに、今の自分を否定されている気がして、居心地が悪かった。いい気分にはならないし、変えろ、といわれたからといって、すぐに自分自身が変わることはない。そういう気持ちが発動しないのもあるけれど、そのアドバイスを聞き入れて、変えようと行動をしても、真から変えたいと思っていないので、どうにもうまくいかない。
 でもひとは、「変えろ」という。
 それは私の未来を案じてくれているのかもしれないけれど、でも、いわれた側としては、どうしても「今の自分」を否定されているように思えるのだ。
 変えろ、という言葉はかんたんだ。かんたんだし、変えろ、というのは、間違っている言葉ではない。ひとはいずれ、肉体も心も考えも変わっていくし、環境も変わっていくのでそれに適応して否応なく変わっていかなければならないときがある。
 でも、私が生きていたなかでいわれた「変えろ」は、その言葉のなかに、相手が私を否定しているようなニュアンスが伺え、その根拠に、「変えろ」といってなにも返答しなかった私に対して相手はたいてい、「駄目だこれは」といった蔑みと諦めが含む言葉を投げかけていった。
 変えろ、変われ、が私にとって重荷だった。
 教育というのは、ひとに、変われ、といい続けることではないと私は思う。変われ、といってその言葉だけで心を変えることのできるひとはいるかもしれないけれど、私はそれまでの自分、今の自分に対して、他人から間違っていようとも、自己愛を持っているのでなかなかそれを手放し変えることはできない。
 では教育というのは、どういうものだと思うのか、と問われれば、そのひとがそのひとの心から変わっていくのを待つことなのではないだろうか、と私は考えている。
 でもただ待つだけでは、ひとの心に変わりたいという気持ちは芽生えない。でも、そのひとが変わりたい、このようになりたい、というきっかけをつくることは、教育者にはできると思う。
 変えろ、という言葉だけでは私は変わらなかったけれど、多くはない人間関係で交わした言葉のなかで、私の考えは少しずつ変わってきたし、ひとと触れあえないときでも、本を通じてなにか変わってきたこともあった。ひとによっては、本ではなくてそれがスポーツだったり、仕事だったり、生活のことだったり、遊びのことだったりするのかもしれない。すべて、変わる(と少なくともそういう気持ちが発動する)ことはなにかの体験からなのだと思う。
 小説、というのも、なにかの教育なのかもしれない、と私は思う。読む側が教えられることもあるし、小説を書いているひとならば、物語をつくりながら、自分自身のなにかが変わっていくことがあるかもしれない。すべての小説が、ひとを教育させるためにあるものではないかもしれないけれど、読書、書く、という体験は、自分自身をつくりあげる行為だと、少なくとも思う。
 人生に無駄がない、というひとつの格言は、ひとつひとつの体験こそがひとを育てていく、という意味にも捉えられるのではないか、と私は思う。体験を通して、悲しくなったって、絶望を感じたって、死にたくなるほどしんどくなったって、ひろく見れば、そのひとをつくりあげるということにぜんぜんマイナスにはならない。なるはずがない。
 ときれいごとみたいなことを書いてしまった。
 つい最近、悲しかったことがあって、でもそれは私にとって損なうことではなくて、それがあったことに少し感謝をしている。これも新しい自分をつくってくれる体験なのかもしれないな、と思いながら。

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