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【連載小説】十三月の祈り ep.11

 バスがトンネルに入り、膝元に置いたあなたの日記に暗いオレンジ色の陰が滑っていく。顔を上げて、バスの車内を見渡すと、立っているひとはいなく空席が目立っていた。車掌近くの吊り革が、ひとの手をかけたみたいに揺れていて、そこからしばらく目を離すことができなかった。とつぜん、後ろから光りが差し込んで車内が明るくなり、やっと我に返る。隣の窓に頭をもたれかけ、そして額をあててトンネルから抜けた眩しい外の景色を見た。銀杏並木の黄金の葉が、アーチを描くように道の上を飾り、その葉の隙間から洩れる金色の陽光によって窓が白く反射した。あなたと訪れたときと、違う景色がそこにはあった。当然のことなのに、なぜだかわたしはそのことに寂しさを覚えた。

 美術館に入り、受付の人にチケットを切ってもらった。エスカレーターに乗り二階に出ると、壁の代わりに一面窓ガラスが嵌められている通路の床には、美術館の庭に植えてある白樺の幹の陰が細く映っていた。進路方向を指す看板の通りに進むと、落ち着いた暗い部屋に入った。初めに目に入ってきたのは、絵葉書みたいに小さな額に収められた背景画。西日にさらされてか、崖の上に立つ木の葉や樹の肌はセピア色がかり線の輪郭がぼかされていて、カメラのフィルターを通したみたいだった。さらに部屋のなかを進むと、ひとりの男の人が海の荒波を描く絵に、じっと目を向けているのが視界に入ってきた。一瞬、胸のなかで心臓が跳ねた。背丈も顔の形も違うのに、黒のコートを羽織った男の人があなたの姿に見えた。
 パパ、とどこからか声がして、わたしも彼もその方向に視線をやると、青いダウンジャケットを着た男の子が、駆け寄るには覚束ない足取りで、男の人に近寄ってきた。男の人は屈むとチケットを握った手も一緒に両手を差し出して、男の子の頭を優しく叩きながら、「館内では、走るなって言っただろ」と軽く叱った。でも男の子はうれしそうに、父親を仰ぎ見ながら、わざとその場で足踏みをして走る演技をして見せた。こら、と言いながら男の人は、男の子の脇に手を入れて持ち上げた。きゃあ、と男の子は声を挙げ、顔を反らせて笑う。男の子は父親に抱きかかえられ、彼の肩に顎を乗っけると、わたしの視線に気づき、笑顔をやめて真っすぐに見つめてきた。わたしは目を逸らし、彼らとは反対の壁を向いて、熱っぽい視線を窓の外に向けて筆をとっている女性を描いた絵に、集中しているふりをした。やがて、彼らの気配は遠のき、見渡しても辺りには誰の姿も見えなくなった。

*** 

 わたしが高校を卒業したお祝いに、という名目であなたはこの美術館にわたしを連れていってくれた。待ち合わせは、F駅のロータリー、美術館経由のバス停前。桜の蕾は開き始めていたけれど、まだ風は冬の匂いを残していた。どの厚さのコートを着ていけばいいのかわからず、気温はまだ低いというのに春のトレンチコートを着て、バス停の列から離れた場所で待った。待つ間に何度かリップを手に取った。久しぶりの再会に湧きあがるうれしさを抑えて、あなたの前でどうにか冷静に振る舞おうと心の準備をしていた。でも、緊張は抑えられず、リップを持つ指先は冷たいままだった。目を閉じながらあなたの姿を何度もまなうらに蘇らせた。どうか、「黒いキティ」をうまく演じられますように。サイトのメッセージでやりとりする自分と、バス停であなたを待つ自分が、まるで別人であるかのように、わたしは指先を擦りながら祈った。
 待ち合わせ時間ぴったりに、黒いピーコートを羽織り、編み目の粗いマフラーを二重に巻いたあなたが現れた。前回より頬が膨らんで見え、厚着をしていたせいもあってか、以前の神経質さは薄れ元気そうに感じた。待った? と言ったのち、わたしの返答の前に「卒業、おめでとう」と微笑んでポケットから美術館のチケットを差し出した。
 この春で、ボランティアを辞めるんだ。
 美術館に展示されていた農夫の絵を眺めたあと、あなたはわたしに告げた。一瞬、頭のなかが真っ白になり、あとからあなたにはあなたの進路があることを思い出した。そうなんですか、と相槌を打つ自分の声に、寂しさの色を滲ませないようにした。ボランティアを辞めたら、もうあなたとは会えない。その予感に怯えていても、それはわたし自身の問題だ。斜めにかけたショルダーバッグのストラップを固く握りしめ、吉原さんも卒業なさるんですね、と笑おうとした。でも弱いわたしはすぐ、その顔を俯けてしまった。
「ボランティア、じゃなくて本格的に助けを求めている人のサポートがしたいんだ。そのために勉強して、国家資格の精神保健福祉士を取る。苦しんでいる誰かの人生を支えることを、僕の人生の目的として生きたいんだ」
 そう語るあなたの顔は、桜の花びらみたいに淡く色づいていた。自分の生きる目的や使命に気づき、確信を持てた人がする、あどけなく輝いた表情。でもそれを見て、わたしは素直に喜べなかった。これまで以上にあなたとの距離が開いた気がしたし、自分の目的を信じるあなたはどこか偽りの姿に見えた。それはわたしの未熟さによるものだったのかもしれない。でも、あの頃のあなたに抱いた違和感はあながち、間違いでもなかった。あなたが生きる目的を「誰かの支えになること」と定めたことで、狂いが生じ始めたからだ。
 わたしが黙ったまま立ち尽くしていると、あなたはリュックから手帳を取り出し、その場で何かを書き留めた。それからそのページを破り、良かったら、と言って個人の電話番号とメールアドレスを書いた紙を渡した。あなたは眉根を指先で掻きながら、
 また、何かあったら連絡してほしい。いつも早く返せないかもしれないけど、相談事でなくてもいいから僕にメールしてほしい。ただ、「友だち」として、僕を利用してほしいんだ。
 と照れた顔を見せながら言った。
 紙を手にしながら、また会える、またあなたと話すことができる、という喜びもあった。でもその一方で、あなたが「利用」という言葉を使ったことに、胸の痛みを覚えた。でもそのときは、なぜ自分が傷ついたのか、言葉で表すことができなかった。
 もちろん、あなたはわたしにだけ連絡先を渡したのではない。男女を問わず助けたい、と思った人にわたしと同じことをした。わたしと同じこと――「友だち」として、僕を利用してほしい――もし、同じ文句を使ったとしたのなら、あなたは愚かだ。人を利用するのは、友だちとは言えないのだから。
 
 言葉の綾っていうことかもしれないよ。深刻にとらえすぎなんじゃない?
 隣に立っているあなたは、わたしに対しあえて楽観的な言葉を放った。わたしは青緑色に濁った小川を描いた絵画に目を向けたままで、言葉の綾というのも、結局はふだんの思考から出た言葉でしょう、と素っ気なく返した。からかわれたことに嫌気が差したのではなく、自分の心から目を背けるあなたの言動が、悲しかった。
 今日は冷たいね。せっかく、もう一度一緒に来れたのに。
 そう、来れたのに。わたしは心のなかであなたに返事をした。愚かなのはわたしかもしれない。
 目の前の小川の絵をずっと眺めていると、肌の白い少女がそこに沈んでいるのが見えてくる。まるで何かを口ずさんでいるかのように少女の唇は小さく開き、半分だけ開いた瞼の下からはうつろな瞳が見える。あなたは彼女の腹部の上に浮いてある、赤いケシの花を指さした。これが、眠りと死の象徴。僕はミレーの作品のなかでこの絵が好きなんだ。そう言って微笑んだ。

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