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セックスが問題だ

前回の記事で、『アドラーの生涯』という本を開いてみた、という話を書きました。今回はそこから発想したことをとりとめもなく書いていきます。

実は、詳細に書かなかったのですが、この記事に書いている中で、気になったことがいくつかありました。

まずは、マズローとアドラーの話のところ。引用してみます。

マズローの計画は、女子大学生に性的な環境と経験についてインタビューをし、これをパーソナリティの側面に、とりわけマズローのいう優越感情(自尊心)と関連づけるというものだった。1937年の1月までにマズローは百人の女性と十五人の男性にインタビューをして仕事を終えた。同じ月、数篇の論文のうちの一篇を刊行するために提出した。これは一部アドラーとの議論にもとづいたものであり、新しい発見、すなわち、女性の自尊心が強ければ強いほど、性的行動も積極的で様々であるが、逆に自尊心が低い女性は性的にシャイであり抑圧されているという発見についての論文である。

エドワード・ホフマン『アドラーの生涯』P.394-395

いや、そりゃそうでしょうよ、という話なんですが、気になったのは、なんでマズローがこういう研究をしたのか、という話。実はその前に、マズローの博士論文の話もありまして、ちょっと長いんですが、引用してみます。

実際、マズローの博士論文は、大人のパーソナリティの根本的な衝動の力に関するアドラーとフロイトの理論の違いを実験的に比較するものだった。マズローの所属していた学部は行動学志向だったので動物実験しか認めなかった。そこで入念な研究をして、サルの社会的なヒエラルキーにおける順位が性行動を支配するのであって、フロイトであれば推測して議論したかもしれないように、この反対ではないとうことを明らかにした。すなわち、雄であれ雌であれそのサルが優位であればあるほど、性的にも積極的であるということである。また、サルが示す異性間および同性間のマウンティングは、一種の支配、服従関係であると思われる、と論じた。サルの間で次のようなことがあるのを見出した。「性行動は脅したり闘ったりする代わりの武器となる、それも、かなりの程度まで取って代わられる」

このような観察からマズローは独自の早熟なセクシャリティについての理論を発展させた。サルの社会秩序の中には二つの別個の、しかし関連のある力があり、それらは個体間の性的関係において頂点に達する、と主張した。一つは交尾へのホルモン分泌の力、一つは支配するものと服従するものという点で優位を確立したいという欲求である。このような興味深い発見にもとづおいてマズローは感激してデータを霊長類の研究を通じて得ようと計画した。このデータが人間の婚姻関係のような人間のセクシュアリティを新しい方法で見ることを可能にするかもしれない、と考えたのである。

エドワード・ホフマン『アドラーの生涯』P.394

マウンティングについては下記の記事にも書きましたが、マズローがまさかマウンティングについて言及していたとは…と、なんだか、つながってくる感じがとても面白いですね。

一応、フォローしておきますと、このマズローの考えにアドラーが同調したのには、過去のフロイトとの論争があります。フロイトの精神分析が性の心理学、つまりはセックスというものを人間のエネルギーの根源に置いたのに対し、アドラーは、それは違うんじゃない?ということを言って、団体を追われることになるわけです。そういうこともあって、フロイト一派と思われることを極端に嫌ったアドラーですが、どうしても精神分析とか心理学というと、ああ、セックスの話ね、みたいな風潮があり、アドラーはそれを嫌がっていたようです。

もっとも、「結局のところ、セクソロジーは当時のアメリカの大学ではタブーのテーマだった」(P.394)という記載もあり、マズローがNGとされている領域にも切り込んでいく、そういうタイプだったことがここではわかります。

マズローもアドラーももともとユダヤ人ですから、家庭を大事にする人たちで、彼らのプライベートからは変な話は出てきていないようです。しかし、特にマズローは、人の力への欲求としてのセクシャリティに興味があったようで、あまり日本では紹介されていないのか、この分野の研究成果が、人間性心理学の思想にどのように発展していったのか、ちょっと興味があります。(この本には、「一九六〇年代の間、べティ・フリーダンはフロイトは派とは区別された女性心理学への新しいアプローチを発展させるために、マズローのセクシャリティのセクソロジーの研究を引用している」(P.394)という記載もあります。)

人間性心理学といえば、もう一翼を担うのがロジャーズですが、こちらは実人生においてセクシャリティの悩みにつきまとわれていたようです。こちらは諸富祥彦先生の『カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ』から引用して紹介します。

ロジャーズはただ性の自由を論じるばかりではなく、自ら実践し始めていました。七〇歳近くなってロジャーズは、かつてないほどセックスに興味を覚え始め、周囲の魅力的な女性たちとそれを体験したいと思うようになったのです。

『カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ』P.120

まあ、ここまでは良いでしょう。理論だけではなく実践したい、というのは、理解できる範囲です。ただ、70歳より前に早く気づけよ、という気もしますが、一応、まだ許せる範囲ということでスルーしておきます。

一九七五年八月一〇日午後十一時、七二歳のロジャーズは、エンカウンターグループで知り合った離婚経験のある女性バニーズ・トゥドレス(Bernice Todres)と一夜を共にします。その後数日にわたる情事の様子をキスの感触に至るまで八ページにわたって記した記録が残されています(Cohen,1997)。

『カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ』P.120

さて、ちょっと変態じみてきました。もちろん、研究者という一面もありますから、そういう意味でロジャーズの行動は理解できます。でも、世間的には変態といってもいいのではないかと思います。

二人の関係はその後四年にわたって続き、ロジャーズは妻に内緒で多額の小切手を送ったりもしましたが、出会いの翌年にバニーズがセックスを拒み始めたあたりから、二人の関係は悪化。お互いに責めあって、痛々しい恋の終わりを迎えます。途中ロジャーズは四〇年ぶりに十二指腸潰瘍を再発し、一九七六年にはあるセラピストに相談に行っています。

『カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ』PP.120ー121

こういうのを読むときに注意しないといけないのは、おそらくこの記述がロジャーズの自伝から起こされている、ということです。バニーズ側の言い分は採用されていないので、記述を鵜呑みにするのは問題あり、かと思います。年齢が記載されずに離婚経験あり、と書かれているのも意図的に問題にならないようにしている気もしますし、多額の小切手を送って、これは今時でいえばパパ活なのかなーと疑ってしまいます。「数日にわたる情事」ってのもなんだかすごい話ですが、ロジャーズの年齢を考えると、単に寝てただけじゃないの?という気もしますが、真実は闇の中ですかね。

そもそも出会いがエンカウンターグループですから、何か心理的に問題があるところに付け込んで、とかなると、倫理的な問題にも発展しそうです。が、個人的な意見では、まず、これが不倫関係であり、奥さんに黙って、というところで、完全にアウトです。不倫ダメ、絶対

で、これで終わりかといえば、まだまだ先があります。

なお懲りないロジャーズは、さらに別のセックスパートナーを探し続けます。自分の周囲にいる女性のうち、性交渉を持ちたい相手のリストをつくったり、第三の女性レイチェルと幾分か持続的な関係を持ったりもしました。一九七七年に書かれた自伝的なエッセイの中では、グループ体験のおかげで自分は、親密で会いに満ちたしかしプラトニックな関係を多くの女性と持つことができたと書かれていますが、若干の偽りがあったようです。

『カール・ロジャーズ入門 自分が”自分”になるということ』P.121

こういうことを偉人に向かって言っていいのかわかりませんが、はっきり言って、キモいですw

ちなみに奥様であるヘレンさんは、ロジャーズのこの旺盛な性欲に対して非難しつつも、それに付き合えないということで許していたそうです。その後、ヘレンさんは一九七七年に亡くなりますが、その後もロジャーズは、数年間に渡り、複数の女性達と性交渉を持ち続けた、とこの本には書かれています。

さて、ロジャーズの業績は業績として評価し、人類に対する貢献には感謝し、なおかつ、その貢献の背後にはこうしたロジャーズの人生の悩みとの格闘が必須であった、ということは理解しつつも、なぜ、彼らが人生の問題として、セックスという問題を扱っているのか、とても気になります。

これが、他の学問ではありえない心理学の特徴であり、だからゆえに、心理学という学問が持つうさんくささ、あやしさにもつながってくるような気がしています。

例えば社会学でセックスを扱ったとしても、もっとドライな扱い方になります。その行為は割とどうでもよく、人の生き方の上での選択もどうでもよく、むしろ、例えば、なんで、男性はキャバクラで接待したりすることがなんとなく許されているのに、女性がホストで接待するとなるとネガティブな印象になるのか、なんていう、社会的な性差の認識の問題になったり、あるいは結婚とか家という制度の時代における変化の問題になったりするわけです。

前回、紹介した向後先生が、心理学はちゃんとした学問としては見られていないので、ノーベル心理学賞がない、というような話もされていましたが、結果として、心理学的な成果が別の学問として、例えば、カーネマンにしろ、もっと昔のサイモンにしても、経済学でノーベル賞を取ったりしているわけです。

ロジャーズも晩年、社会問題や世界平和に関心を持って、影響力を発揮しようとしたそうですが、妻のヘレンを裏切って浮気しまくっていた事実を思いますと、なかなか彼には世界を平和にするビジョンは描けなさそうだな、と思ってしまいます。

話を戻しましょう。なぜか心理学の世界、特に当時のアメリカでは、セックスの問題が取り上げられもしますし、それが話題にもなっていたようです。ロジャーズもそうですが、性の解放みたいな話がまことしやかにささやかれ、それで解放されることがいいことだ、みたいな風潮があり、それはエサレン研究所でのセックスセラピーのような形でいろんな実験が行われたようです。

で、その後、どうなったのか?
これがよくわからない。

ただ、なんとなくですが、世の中、文明が進めば進むほど、資本主義社会化すればするほど、性的欲求に満たされていない人が増え、それが資本の論理に取り込まれていっているように思います。

ロジャーズも毎日、ウォッカの瓶を開けるほどにアルコールに依存していたようですが、性欲とアルコールとの間に関係があるとかいう話も聞いたことがあります。こうしたいろんな俗説が世の中に飛び交っていますが、どうも科学的に証明されているいうエビデンスは見つからず、この分野の研究といったら、のぞき見趣味のような研究が多くなり、そもそも、性的欲求というのがなんなのか、みたいな話はあまり出てこないようです。

参考)

性的欲求、セクシャリティ、性的マイノリティ、LGBT、、、なんか次元の違うごちゃごちゃした世界がまだまだこの辺の分野には広がっているようです。そして、何より、この分野に少しでも入り込むと、どうもお金や経済の話と結びついてしまうところがあり、困ったことに、それに法律なども乗っかってしまって、わけのわからない世界が現出しつつあります。

例えば、カリフォルニアでは、子どもが親に黙って自分の性を選択できるために、親に内緒で手術が受けられるような法律が制定される、という話も聞きました。ガセかもしれませんが、事実だとすると、もはやめちゃめちゃですね。

これは結局、セックスの問題と家族の問題がごちゃごちゃになっているところに問題はありそうです。

アメリカといえば、エプスタインの事件もありました。

問題視したいのは倫理や道徳の話ではなく、なぜ、アメリカの上流階級の人たちが未成年とのセックス(正確にはレイプだと思いますが)なんぞに興味を持つのか、感覚的に言えば、これは日本の性犯罪者と同じ感性を持っている、ということです。なんで上流階級で、ぜいたくな暮らしもしているでしょうに、そんなつまらない禁じられた遊びみたいなものに興味を持つのか、私にはさっぱり理解できません。

個人的な価値観では、不倫同様、人身売買も人の罪としては許しがたいと思っていますが、あえてメタ的に見れば、ここには、お金の豊かさと心の豊かさは実は反比例しているのではないのか、という疑問が浮かんでしまいます。そういえば、韓国でも金持ちのご子息たちが乱痴気パーティをして事故になった話も出ていましたね。日本のバブルの頃もいろいろあったんでしょうね。

社会学的に見て面白いのは、こういうセックスの問題は真面目に研究することについてタブー視されている一方で、人々の話題になったり、炎上したりしがち、ということです。しかも、よくわからないんだけど、満たされていないと感じる人が多い。

この問題は果たして肉体に起因する問題なのか、情報や教育によって洗脳された刺激への反応の問題なのか、成育歴に問題があるのか、子どもの頃の教育に問題があるのか、そもそも、性欲なんてものがあるのか、その実態には別の問題が隠れているのではないか。

そういう疑問が湧いてくるわけですが、ひとつ、ここで言いたいことは、どうしても心理学のアプローチでは、個人の性癖の話にとどまってしまい、もちろん、心理療法としてある物語で救われる人もいるのは事実でしょうが、客観性や普遍性を持った科学的な議論としては、なかなかその次元まで理論を昇華させるのは難しいんだろうな、ということです。

同様に、人類学や民俗学、あるいは生物学などのアプローチも厳しそうで、この全体の問題と個の問題が完全に分離している問題をどのように扱うのか、というのは結構、難しいような気がしています。

ということで、私がここで言いたいことは、不倫と人身売買はダメ、絶対。ということで、そういう行動に出る人たちの衝動がどこで湧いてくるのか、そこに社会問題や社会制度の隙間の問題が隠れてそうだな、ということです。

もちろん、不倫される人も人身売買される人も実態的な被害者なのですが、一方で、不倫をする人たちも、人身売買での顧客になる人たちも、彼らはおそらくこの社会システムの被害者で、そうした被害者を増やさないために、制度やシステムとして何が有効なのか、ということを、そうですね。宦官の視点(別名、賢者の視点)から見ていくことも必要じゃないかと思うのです。(ユーモアわからない人は回れ右)

そして、これをシン・社会学では適切に取り扱えるのではないか、という我田引水が、この記事の結論です。

現場からは以上です。お読みいただきありがとうございました。この記事が面白かったという方のスキ、何か言いたいという方のコメントもお待ちしております。

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