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向後千春先生のアドラー心理学の講義が面白過ぎたので『アドラーの生涯』を開いてみた件

昨年からオンラインの連続講座として開催させていただいております「連続講座『コーチング心理学概論』」。これは、ナカニシヤ出版から日本人著者による初のコーチング心理学の学術書兼テキストが第2版を迎えるにあたり、でも、日本の大学等でテキスト採用されていないし、この本に基づく授業も実現していないので、編著者がとりあえず始めてみよう、という趣旨の元、今年はその2回目を開催しています。

この講座の第4回第5回は早稲田大学人間科学学術院教授の向後千春先生にお願いして、「アドラー心理学とコーチング」についてお話いただいているのですが、その話が面白過ぎたので、その後、ちょっと調べたことを記録として残しておきます。

なお、向後先生はnoteをかなり書かれていますので、こちらもリンクしておきます。

一応、『コーチング心理学概論』も貼っておきます。


研究者として不完全だった(?)アドラー

さて、結論から言いますと、アドラーというのは人間的には素晴らしい人だったようですが、後から研究する立場の人から見たらめんどくさい人だった、ということになるかと思います。

向後先生に(昨年)オススメされた『アドラーの生涯』を読んでいて、その研究者的めんどくささの理由がいくつか出てきました。

引用してみます。

アドラーがウィーンのフォルクスハイムで行った成人教育のための公開講義にもとづいた『人間知の心理学』は、明らかにアメリカで広く売れることをねらっていた。後に刊行されるアドラーの多くの評判の良い本と同じく、アドラーは実際に書くことにはあまり関わらなかった。この点、フロイトとは違う。フロイトはイメージも表現も美しいので国際的に文学として受け入れられるに値した。しかしアドラーは文才に欠いていた。遠く離れた家族に打ち解けた手紙を急いで書くことは別として、書くことに喜びを感じなかったのである。

『アドラーの生涯』P.255

アドラーは作家になることを『欲する』ことはなかったーー書くことをあまり信じなかった……アドラーが思うに、人間の理解のどんな新しい火花も、このことについて一対一で話をする者同士の間で燃え移らなければならない。そして究極的にはそれがおそらく真理であることを認めなければならないだろう

『アドラーの生涯』PP.272-273

いや、いいんですよ。アドラーの本業は精神科の診療と講演活動だったようですから、個人の人生としては良いのですが、後世の人が研究しようとすると、書かれた文章もどこまでがアドラーの考えなのか、疑わしくなってしまうという事実があります。

現に、アドラーの書籍を編集した方のコメントも載っていて、

アドラーの原稿がうまく整理されておらず、文体も迫力がなかったというだけではなく、多くのセクションで語られる考えはメレには十分展開されていないように思えた。(中略)仕事の半ばでアドラーは、「自分のこれまでの仕事ぶりを見た。そして『意味が通じるように、気にせず推敲したり敷衍したりしてほしい』という手紙を書いてきた

『アドラーの生涯』P.272

とまあ、こんな感じ。自分が書くわけではないので、編集者の仕事量だけ本が出せるわけで、しかも「売れる」ことを狙って書いているので、どこまでをアドラー思想のコアだと考えるのかということは、かなり研究者泣かせなんではないかなーと思うのです。それでも研究されている方には尊敬の意を表します。

それはさておき、一応、アドラーは、自分の心理学のことを「個人心理学」という名称で体系づけようとしていたようですが、向後先生によると、そもそもアドラーは、自分の名前を冠した思想や心理学が有名になるよりは、自分の考えが全人類に広まって、普通の考えになることを欲していた、ということのようなので、まあ、ある意味、作家性に関心がなかったのかもしれません。これはこれで素晴らしい人格のようにも見えますが、しかし、研究者泣かせであることは間違いないです。

アドラーの影響を受けた大物達

結果として、こんなことが起こってしまいました。

この本にも書かれているわかりやすいところで言うと、アドラーは1935年に27歳のマズローに出会い、指導していたそうです。マズローの博士論文はフロイトとアドラーの理論の違いについて、だったそうで、前掲の書籍には、

この時期、アドラーは若い同僚(注:マズローのこと)に強い影響を及ぼした。師の役割を適切に果たし、求められれば勇気づける助言を与えた。アドラーはまたマズローの関心を人間の特徴である共同体感覚の考えに向けた。

『アドラーの生涯』P.395

とありますし、実際のマズローの言葉として、

マズローは、1970年に亡くなる少し前に宣言している。「私にとってのアルフレッド・アドラーは年を追うごとに正しいものになってゆく……特に……全体としての人間を強調したことを」

『アドラーの生涯』P.427

という言葉が紹介されています。

まあ、この本自体、アドラー称賛のために書かれたものでしょうから、そういうバイアスは加味して読む必要はあるでしょう。

同じく、この時代にアドラーから影響を受けた、と語っている一人に、カール・ロジャーズが居たようです。

これも引用します。

「私は……1927年から28年の冬に……アドラー博士に会って、話を聴き、観察するという特権を持った。ニューヨークで当時、新しい児童相談研究所でインターンをしていた時である」とロジャーズは後に人生を解雇している。「研究所は大恐慌の時につぶれてしまった。研究所のかなり厳格なフロイト派のアプローチに慣れていたので……病歴は74ページに及び、子どもを『治療する』ことを考えるよりも先に一群の包括的なテストをしなければならなかったーー私はアドラー博士の、子どもと親にじかに関わる、非常に直線的っでだまされたと思うほどシンプルなやり方にショックを受けた。私はアドラー博士からどれほど多くのことを学んだかを認識するまでにはしばらく時間がかかった」

『アドラーの生涯』PP.264-265

フロイトの理論にこだわっていたロジャーズが、アドラーに会って解放された、と言う話はロジャーズの著作やインタビューでも確認できますので、実際、当時、すんなりと理解したかは別として、後世のロジャーズの思想に大きな影響を与えたようです。

さて、マズローにロジャーズといえば、後に人間性心理学を立ち上げるわけですが、他にもアドラーの影響を受けた人はいるようです。

1985年の北米アドラー心理学会の学会誌に、論理療法の創始者であるアルバート・エリスへのインタビュー記事が掲載されていて、その中で、質問に答えてエリスはこのように語っているようです。

質問:アドラー心理学との関わりにおいて影響を受けたことは何でしょうか。
エリス:第一に、数年間にわたる臨床実践ののちフロイト派心理学に完全に幻滅してから、私は、個人心理学が精神分析の一派ではなく独立した流派として確立されていること、他の精神分析学派と比べて効率的な流派であることに気づいたのです。第二に、私は、人間が惑乱する元凶は幼少期の歴史に根付くのではなく、個人が持つ人生哲学によるものであるという事実に気づいたことです。アドラー心理学は最も哲学的な学派の一つであり、人々の目標、目的、理想、価値、基本的構えによって、自分を感情的に惑乱させている人が、人生哲学を変えることで惑乱が軽減されることを明確に示しています。(中略)アドラーは、感情的惑乱が観念発生的である側面について、フロイトの指摘した点を大きく発展させました。そのため、アドラーの仕事は論理療法と重なる部分が大きいのです。

アルバート・エリス博士へのインタビュー」より

そして、こんなことも言っています。

アルフレッド・アドラーは、良識的な心理療法を教育や家族相談に適用することを強調した、最も近代的な心理学者の一人なのです。論理療法はアドラーの考えに全面的に同意しますし、より多くの人々に彼のメッセージが伝わることを希望しています。

同上

はい。ここまで見てきてわかったことは、世界にインパクトを与えたフロイトの精神分析が広まって、それを学んで実践しようとして壁にぶちあたった心理学者たちが、アドラーに出会って救われた、という流れです。

しかも、そのメンバーがすごい。

自己実現のマズローと、クライエント中心療法のロジャーズは後に人間性心理学を立ち上げます。エリスは論理療法の祖であり、その考えが発展して、認知行動療法(CBT)の基礎を生み出しています。

このメンバーはどう考えても、コーチングの基礎となった考え方に多くの影響を与えていますが、影響の中身については、また別記事にしようかと思っています。

アドラーが唱えた個性心理学の末路

それはさておき、アドラーの死後、個性心理学はその発展を止めてしまいました。前掲書によると、それは、個性心理学そのもののがアドラー個人のパーソナリティと行動によって成立していたから、という解釈をしていますが、ここまで見てきたところから考えるに、そもそも、体系だったものをきちんと固めて残そうとしていなかった、アドラーのまさに個性に依拠するものだったように思います。

彼はあまりにすぐに好意的なアメリカの聴衆とメディアの注目を集めるのに成功したために、興奮はほとんどが彼自身のカリスマ的なパーソナリティに集中したのであって、理論的な体系に集中しているのではないことを見て取ることができなかった。同じことはアドラーの治療のアプローチにもいえた。診察したり治療したりする時は、デイヴィスやフィリーンのような見識ある患者ですらいつもその手腕に大きな感銘を受けた。しかし、彼らが賞賛したのはアドラーの治療の方法論ではなく、セラピーの達人としてのアドラー自身の資質、すなわち温かさ、楽観主義、人生の課題にあってベストをつくすように啓発する能力だった。それゆえ、皮肉なことに、個性心理学と自らを名乗った体系は究極的にはたった一人の個人の力に依存したのである。おそらくアドラーはあまりに謙虚だったので、このことを正確に見ることはできなかったのであろう。(中略)あるいは、アドラーの熱烈な支持者の誰もあえてそのことを伝える勇気はなかったのであろう。

『アドラーの生涯』P.425

さて、最初の方で、アドラーが研究者泣かせ、という表現を使いましたが、これは撤回した方が良さそうです。アドラーが自身が執筆しない膨大な著作群を残し、なおかつ、きちんとした理論的な体系を構築しないで亡くなったことで、後世の研究者にとっては、研究するネタの宝庫が残った、とも言えます。

個性心理学、という研究分野はアドラーで途絶えましたが、代わりに、アドラー研究、という研究分野が立ち上がった、とも言えます。もちろん、それをアドラー個人が望んでいたことかどうか、はわかりません。

コーチングの歴史にアドラーがどこまで影響を与えたのか

このようなアドラーの性格や生き方、要するに個性のことを考えたとき、コーチングの歴史にアドラーがどこまで影響を与えたのか、というのは、これも答えるのがとても難しい問いになります。

ちなみに、『コーチング心理学概論』では、西垣先生によって、下記のような図が示されています。

『コーチング心理学概論 第2版』より

ただ、この図はあくまでもコーチングの初期の話。『コーチング心理学概論 第2版』の章立てを見ると、「コーチングの背景理論」として、「アドラー心理学と人間性心理学」「ポジティブ心理学」「認知行動コーチング」「解決思考コーチング」となっていて、この図で線がひっぱっていない理論家からも、影響を受けていることになっています。

このあたり、他の海外の書籍との比較も面白そうですが、それはまた別の機会に。

心理学者はなぜ仲が悪いのか?

いずれにせよ、自分は社会学の人として、いつも調べていて思うのですが、心理学の人たちって、なんで、こんなに仲が悪いんだろうか、と。なんか誰かを批判して、ケンカばかりしている印象があります。

今回も、アドラーがフロイトを毛嫌いしていて、フロイトの名前が出るたびに激高していたという話がちらほら出てきました。どこかで聞いた理由は、フロイトがアドラーの性的思考についてヒヤリングして分析したのに対し、フロイト自身は自分の話をシェアしなかったのが卑怯だと思ったから、とかいう話も伝わっているようで。

ユングはフロイトとアドラーの論争を見てタイプ分けを思いついたと言うし、ポジティブ心理学の父であるセリグマンは、マズローとロジャーズの死後、彼らの人間性心理学を論文の中でこき下ろすし、もう、ほんと、仲良くして下さい、と言いたい感じがします。

おそらく心理学という学問分野に、自分と違う人間観を持っている人と仲良くできない何かがセットされているのだとは思いますが、その正体が何なのか、ということは、またいつか考えるべき研究課題として残しておきます。

考古学的に「影響」をどう見るのか?

前に下記の文章をしたためた際に、その背景として考えていた学問理論は、実は考古学でした。

私は主に縄文時代の考古学的アプローチをいくつかの講座に出させていただいて学んだだけですが、このアプローチがいかにシンプルで強力か、ということを実感しています。

何かが何かに影響を与えたことについて、考古学の原理はとてもシンプルです。それは、後の時代のものが前の時代のものに影響することはない、という考え方です。これ、当たり前のことですが、言われるまで使わない理論です。

ちなみに、下記の記事も、この考えのもとに記述されています。

アドラーという人の個人の願いや思いは何であったにせよ、また、彼自身が執筆していなかったにせよ、アドラーの著作群や講演、あるいは、実際の彼との対話や指導というのは事実としてあるわけです。そこから誰かが何かの影響を受けることがあったとき、それは、アドラー自身がどういう影響を与えたいか、ということととは無関係に、確かに影響を認められる、ということもあるわけです。

これが普通の学問であれば、正当な後継者なのか、批判的な継承者なのか、というようなことが問題にされるはずです。学問というのは多分に政治的な意味合いを持ちがちで、その政治性が特に日本でイノベーティブな学問の発展を拒んでいるのですが、まあ、それはまた別の話。

しかし、考古学の観点に立つと、そんな正当性や政治性はどうでもよく、影響を認めた上で、では、どんな影響だったのか、ということを探求していくことになります。そして、それは例えば縄文土器や青銅器の文様の変化のように、残されたモノから判断していくわけです。

思想や哲学は目に見えません。ですので、文字化されたものがとても重要になってきます。もちろん、上のガルウェイの記事のように、文字化されたものは事実とは異なるものも含まれている可能性もあります。しかし、文字化さえされていれば、調べて間違いを予測することはできます。

そんな考古学的関心から言えば、マズローやロジャーズ、エリスやフランクルなどに影響を与えたアドラーという存在があって、では、そのアドラーは、彼の思想をどこから着想を得たのか、ということがとても気になります。実際、『アドラーの生涯』に書かれているアドラー自身の言葉では、彼は自分の着想を自分の体験から発見した、と言いたがっているように見えますが、まあ、社会的存在である人間の思想というものは、そんなにオリジナルなものではありえません。

もしかしたら、すべてはフロイトという偉大な天才への反発から生まれただけかもしれませんし、アドラーがユダヤ教徒(後にプロテスタントに改宗)であったことと関係があるのかもしれません。これもどこかで調べたい研究テーマですね。

結論

ということで、向後先生の講義が刺激的であったがゆえに、様々な研究テーマが湧き出てきてしまって収拾がつかなくなった、というのが、この記事の結論になります。こういうのを知的興奮っていうんでしょうかね。

現場からは以上です。お読みいただきありがとうございました。この記事が面白かったという方のスキ、何か言いたいという方のコメントもお待ちしております。

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余談ですが、向後先生のnote活用は素晴らしく設計されていて、とても勉強になります。ただ、自分はあれほどこまめに更新できる気がしないので、そこから、なるべく、見習いたいな、と思っています。

最後にもう一回、貼っておきます。

おまけの告知

今度、「コーチングを研究したいけど、どうすればいいのかわからない」と思っていらっしゃる方のためのイベントを開催します。御興味ある方に届くと嬉しいです。

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