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コーチング×ドラッカー研究会「ICFのコア・コンピテンシーと、聞け、話すな、のマネジメント」発表報告

ご覧いただきありがとうございます。

今回は、2024年5月8日の夜に、NPO法人ドラッカー学会 公認の研究グループ、コーチング×ドラッカー研究会にて、「ICFのコア・コンピテンシーと、聞け、話すな、のマネジメント」というタイトルで研究発表をさせていただいたのですが、参加者の方から、情報量が多くて、一回聞いただけではよくわからない、という声をいただいたので、なんとか文章化してみます。

タイトルだけではよくわからないかと思いますが、テーマは、「ICFのコーチングについての考え方とドラッカーのマネジメント思想の同時代性について」というものになります。

まずは下記の年表をご覧ください。

筆者作成
筆者作成
筆者作成

まず確認したいのは、ドラッカーの活動とコーチングの発見から整備までは、実は同時代の出来事である、ということです。そしてどちらかというと、ドラッカーが先、コーチングが後、という時系列になっていますが、時代は被っています。

そしてこの年表からは、ドラッカーとコーチングをつなぐキーマンも見えてきます。それがマズローです。

コーチングが誕生したのはエサレン研究所がきっかけですが、マズローはそこに出入りしていました。この「自己実現」のマズローと「クライアント中心療法」のカール・ロジャースの思想は、人間性心理学の祖とも言われていますが、いずれもコーチングの有効性の根拠として組み入れられていると思われます。

そのマズローですが、1965年の『自己実現の経営』という著作の中で、ドラッカーの批判をしています。

下記、その批判部分の引用です。

ドラッカーの経営の諸原則は、高度に成長した人間を対象にした場合、非常にすぐれたものを持っている。しかし、ドラッカーの原則は、高い成長を遂げた人間に対してのみ、その本領を発揮するのである。ドラッカーの原則は、このように過去において基本的欲求を満たし、そして現在の状態に満足している人間を理想像として仮定していると言える。

マズロー『自己実現の経営』P.13 

最後に、ドラッカーに対する批判を要約すると、次のようになる。
1 ドラッカーは、彼の経営原則にすべてのものをあてはめようとしている。その選択の必要性については追及しようとしていない。
2 ドラッカーは、人間の持っている悪やきたなさ、また精神病理学といったものを軽視している。

マズロー『自己実現の経営』P.34

また、ドラッカーが仮定してきたような高度な社会的意識を持っている人間は、おそらく現在、存在しないであろう。

マズロー『自己実現の経営』P.35-36

この批判に対し、ドラッカーはマズローの死後に著された1973年の『マネジメント』にて、下記のように答えています。

しかしエイブラハム・H・マズローは、Y理論を支持しつつも、Y理論は私たちが見ていたものよりもさらに厳しいものを要求すると指摘した。(中略)その経験をもとにした著した『自己実現の経営』において、責任と自己責任は、心身ともによほど強い者でなければ耐えられない重荷を課すことになると主張した。Y理論が要求する自律と責任に耐えられない弱者に対して、私とマクレガーはきつくあたりすぎているともいった。

ドラッカー『マネジメント』上巻 PP.287-288

マズローの研究からいえる一つの結論は、Y理論とは多くの支持者が考えているような自由を許容するものではないということである。多くの批判者が考えているような人を甘やかすものでもない。それはX理論と比べてさえ、あらゆる面において厳格である。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.288

ここでいきなり出てくるY理論という言葉は、1960年にマクレガーが『企業の人間的側面』という書籍の中で展開したもの。実はこの本の中にも、ドラッカーについての記載がありました。

「目標管理」というコンセプトが近年たいへんな注目を集めている。それはいくぶんかは、ピーター・ドラッカーの著書に負っている。しかしながら、目標管理はしばしば命令と統制による経営戦略の枠内での、一組の新戦術のすぎぬものとして解釈されている。

マクレガー『企業の人間的側面』P.61

マクレガーはこの本の中で、目標管理が「命令と統制」にならないためには、組織の人間観が「X理論」ではなく「Y理論」になってないとダメ、ということを指摘したのでしたが、ドラッカーは『マネジメント』の中で、マズローの批判に対しての反論ではなく、むしろ、このマクレガーのY理論を信奉している世間を批判します。

旧来のアメとムチによる動機づけに代わるものを探すことは当然でもあり、意義のあることに思われる。事実、それは心理学的啓蒙専制(enlightened psychological despotism)でとして提示されたのだった。産業心理学は、そのほとんどがY理論への忠誠を称する。自己実現、創造性、人格をいう。だが、その中身の実体は心理操作(psychological manipulation)による支配である。その前提たるや、X理論のものである。人は弱く、病み、自らの面倒を見られない。恐れ、不安、抑圧に満ちた存在である。自己実現ではなく失敗を欲する。支配されたがる。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.292

心理学によって人の心を支配し操作することは、知識の自壊的濫用である。嫌悪すべき支配である。(中略)ここでは心理学の利用の適切さや道徳性は問わない。しかし、そもそも心理的専制において、X理論的方法論は有効たりうるか。心理的専制は可能か。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.294

いかに多くの心理学セミナーに参加しようとも、心理的専制を実践しようとしてはならない。自らが最初の犠牲者になるのがオチである。失敗するにきまっている。成果はあがらない。仕事のうえでの人間関係は尊敬に基礎を置かなければならない。これに対し心理的専制は、根本において人をばかにしている。伝統的なX理論以上に人をばかにしている。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.295

心理的専制は、人が怠惰で仕事を嫌う存在とまでは仮定していないかもしれないが、マネジメントだけが健康で、他の者はすべて病気であると仮定する。マネジメントだけが強く、他の者はすべて弱いと仮定する。マネジメントだけが知識をもっており、他の者はすべて無知であるとする。マネジメントだけが正しく、他の者はすべて愚かであるとする。まさに傲慢で、ばかげた仮定である。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.295

心理的専制は、マネジメントに対し万能を求め、神経科医とマネジメントの混同をもたらす。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.296

そして何よりも、心理学者兼任ともいうべきマネジメントは、自らの権威され台無しにする。確かに組織においても、心理学的な洞察、助力、相談は必要である。心の病の治療、苦しみへの癒しは必要である。しかし、治療者と患者の関係は上司と部下の関係とは異なる。しかも両立はしない。それぞれ別の基準に従う。治療者は患者の幸せのために働く。マネジメントは組織としての共通の目的のために働く。
いずれの場合にも権威が必要である。しかし、その権威の基盤は大きく異なる。なされるべきことは組織の目的よりも部下の私的な欲求が規定するとするマネジメントは、マネジメントとして落第であるだけではない。誰も信用してくれない。あらゆる関係を破壊し、彼と彼の仕事に対するあらゆる敬意を破壊するだけである。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.296

それはマクレガーのY理論そのものではない。しかし、マネジメントはY理論に従い、働く人の中には成果をあげることを心底欲する人たちがかなりいるものと前提すべきである。さもなければ希望はもてない。(中略)しかしY理論がいうように、人は機会さえあたえられれば、それだけで成果をあげるべく働くなどと仮定することはできない。強者に対してさえ、責任の重荷を背負わせるには多くのものが必要である。もちろん人を追い立てることに依存することはできない。(中略)したがって、X理論による命令と保護による安定に代わるべきものを与えなければならない。そのような組織とは、いったいいかなるものか。それはいかに機能するか。幸い、これを推測する必要はない。Y理論とは関係なしに、そのような組織はすでに現実に存在する。そして研究することができる。

ドラッカー『マネジメント』上巻 P.296

話がややこしくなってきましたが、補足を入れながら簡単に流れを解説すると、こうなります。まず、ドラッカーは1954年に『現代の経営』で「自己目標管理」というコンセプトを紹介します。

目標管理の利点は、自らの仕事を自ら管理することにある。その結果、最善を尽くすための動機がもたらされる。高い視点と視野がもたらされる。(中略)管理とは自らを方向づけることを意味する。しかし人を支配することも意味しうる。目標管理における目標とは、前者の意味での管理の基礎となるものであり、後者の意味での管理の基礎となるべきものではない。目標管理の最大の利点は、支配によるマネジメントを自己管理によるマネジメントに代えることにある。

ドラッカー『現代の経営』上巻 P.180

これに対して、マクレガーは1960年に、せっかくドラッカーが「支配によるマネジメントを自己管理によるマネジメントに代える」ために提案した「目標管理」が命令と統制による経営のために使われちゃっている企業があるよ、ということを指摘して、Y理論の考え方に基づいた経営をしなくちゃだめだよ、と指摘したわけです。

このY理論の考え方を採用したマズローは、1965年の著作で、ドラッカーの想定している人のレベルが高すぎない?と批判したわけです。

その批判に対してドラッカーは、そもそも従業員にY理論を押し付けるところが支配的なマネジメントじゃね?と反論するわけです。

なんというか、こうして解説しててもわかりにくいw

北九州市立大学の山下剛先生が、『経営学論集第85集』の中で下記のような指摘をされていて、なんかお互いに批判しあっているように見えて、実はそこに意見の対立はないんじゃね?という論を展開されていますが、私にもそう見えます。

実際に、マズローの言う自己実現とドラッカーの言う自由は、一つの理想として、同じ地点を目指す別の表現であると考えられる。このことは、二人がともに、「人間を操作する」という発想に疑問を呈しているところに表れている。興味深いのは、両者が「心理学とは何か」という問いに対して、同じ解を提出していることである。マズローは、人間を自由にし、創造的にし、内部決定的にすること、外的コントロールから解放することとしたのに対して、ドラッカーは、その人自身の洞察を得ること、その人自身を統御することとした。つまり、他人をコントロールするのではなく、自分を自分自身でコントロールできるようになること、この意味で、自由となること、自己実現できることに二人は心理学の価値を見出したと言える。したがって、両者とも「人間の操作」という考え方に対する批判に向かう。マズローは「啓蒙的管理論」について、そこから多くの示唆を得ながらも、諸個人の心理的健康という問題について言及しないとして批判した。また、ドラッカーは、Y理論の支持を表明する「啓蒙的な心理学」の論者について、それは心理的操作を通じたコントロールであるとして批判した。以上のように、人間の本性についての理解、自己実現もしくは自由への志向性、「人間の操作」への批判という根本的な部分をマズローとドラッカーは共有していたと言える。

『経営学論集第85集』所収
北九州市立大学 山下 剛 「ドラッカー『マネジメント』における「マズローの批判」」より
https://www.jstage.jst.go.jp/article/abjaba/85/0/85_F39-1/_pdf

人の心は操作してはいけないし、人を支配してもいけない。この主張は一致しているわけです。

実際、マズローは、20世紀初めにポグロム(ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為)をのがれてアメリカに移住したユダヤ系ロシア人移民(貧困家庭)の長男だとされています(Wikipedia)。そして、ドラッカーはドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれています(Wikipedia)。そしてナチスの迫害を恐れてウィーンからイギリスへ、そしてアメリカに移住しました。

いずれも人が人を支配する、コントロールする、迫害する、ということに対してはセンシティブで、そしてネガティブであったと思われます。

人が活き活きと働けるために、こういう仕組みがあると良い、こういうルールがあると良い、そういう提案をいくら書いたとしても、それが制度化されると人を支配し統制する道具として使われてしまう。このジレンマをどう乗り越えるのか、について、実は、マズローは1965年の『自己実現の経営』の中で、もうひとつ、面白いドラッカーへの批判を書いています。

次に、強調しておくべき点は、コミュニケーションの重要性についてである。あらゆる次元について、さまざまなコミュニケーションがある。ドラッカーの理論にとって、コミュニケーション原理を取り入れることは、必要であるとともに、彼の理論をいっそうすぐれたものにするのに役立つであろう。

マズロー『自己実現の経営』P.37

これを受けて、ドラッカーの『マネジメント』には、コミュニケーションについての章が現れます。

今日ほど、コミュニケーションに力が入れられたことはない。(中略)事実、コミュニケーションへの取り組みほど、知的な人たちが懸命に働いている分野はない。にもかかわらず、明らかになったことといえば、コミュニケーションは、一角獣のようにとらえどころがないということだけである。コミュニケーションについての議論は多い。多すぎて何が論じられているかさえわからない。
(中略)
もしかするとわれわれは、コミュニケーションを完全に理解することはないのかもしれない。しかし組織内のコミュニケーション、すなわちマネジメント上のコミュニケーションについては、すでにいくつかのことが明らかである。

ドラッカー『マネジメント』中巻 P.140 

まず、われわれはこれまで数百年にわたって、コミュニケーションを上から下へと試みてきた。しかしそれでは、いかに懸命になろうともコミュニケーションは成立しない。何を言いたいかに焦点を合わせている。コミュニケーションを成立させる者が発し手であると前提している。しかしわれわれは、コミュニケーションの発し手は何かを発するだけにすぎないことを知っている。コミュニケーションは受け手の行為である。(中略)コミュニケーションの発し手ではなく、受け手の理解を基盤としないかぎり、時間と労力の無駄に終わる。

ドラッカー『マネジメント』中巻 P.152

ここにおいて、自己目標管理こそコミュニケーションの前提となる。自己目標管理においては、部下は上司に対し、組織全体もしくは自ら属する部分にいかなる貢献をなすべきであると考えるかを明らかにしなければならない。(中略)コミュニケーションの受けてたる部下は、自己目標管理によって他の方法ではできない経験をする。この経験から、意思決定というものの現実、優先順位の問題、なしたいこととなされるべきこととの間の選択、そして何よりも意思決定の責任を知る。

ドラッカー『マネジメント』中巻 P.156

事実、自己目標管理は「何をしたいか」からスタートする。(中略)自己目標管理に加え、業績評価や進路診断もまた、コミュニケーションの基盤となる。部下の関心からスタートし、理解を明らかにし、期待に焦点を合わせているからである。コミュニケーションを、部下への要求ではなく、部下にとってのツールとして使うことになるからである。

ドラッカー『マネジメント』中巻 PP.156-157

マズローの批判を受け、自己目標管理があってのコミュニケ―ションであり、それは受けて主体のものだ、という話が出てきます。さらに、1966年に書かれた『経営者の条件』には、2004年に序章が書き加えられて、下記のような記述がなされます。

ここまで、成果をあげるための八つの習慣について述べてきた。もう一つおまけを加えたい。あまりに重要なことなので、原則に格上げしたいくらいである。聴け、話すな、である。

ドラッカー『経営者の条件』P.15 

ちなみに、1966年に書かれた『経営者の条件』の本文では、

①汝の時間を知れ
②どのような貢献ができるか
③人の強みを生かす
④最も重要なことに集中せよ
⑤意思決定とは何か

という流れになっていますが、2004年に書かれた序章の「成果をあげるための八つの習慣」では、

①なされるべきことを考える
②組織のことを考える
③アクションプランをつくる
④意思決定を行う
⑤コミュニケーションを行う
⑥機会に焦点を合わせる
⑦会議の生産性をあげる
⑧「私は」ではなく、「われわれは」を考える

となっていて、ここにも「コミュニケーション」の文字が登場しています。

自己目標管理を前提とし、受けて主体のコミュニケ―ション、そして、原則は、聴け、話すな…。

ちなみにマズローもドラッカーも、目線は組織に向いていました。一方で、個人のキャリアや成功に目を向けていたのがコーチングです。

下記の記事にも書きましたように、コーチングは、人をコントロールして成功へと導こうとする自己啓発セミナーの反省から産まれました。

『コーチング心理学概論』図表より、筆者作成

そろそろ結論です。

人や組織が、支配・統制関係に陥らずに、いかに成果を上げられるか?
そのためには、どのようなコミュニケーションが有効なのか?

この点において、マズローやドラッカーの関心と、コーチングを発見・発展させた人たちの間には、共通の関心があったのではないか、ということが仮説として成り立つかと思います。

現場からは以上です。

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