うちはうち よそはよそ。
うちは多分そこそこ貧乏だった。
父よーじはチェーン店のめがね屋の店長だった。
母ケイコはパート。
姉は6歳上。
一軒家はあった。白くて二階建ての車庫付き、庭付きの家だった。
ここまで書けば なにが貧乏なんだ!!と言われるが、我が家には父よーじの作ったギャンブル等の借金と家のローンとその他もろもろのマイナスがあったらしい。なのでドラマのような取り立ても来たことがあった。母ケイコはすみませんすみませんと頭を下げることもあった。私はその人たちからペコちゃんの飴を貰っていたのでなんとなく記憶が残っている。母ケイコは泣いていたが私はその人たちが好きだった。次いつくるん?と母に聞いたこともあった。
父よーじはギャンブルが大好きでパチンコならまだしも、賭け麻雀をしていたみたいだ。
完全にカモだったと思う。熱くなると借金をしても勝つまでやりこむが勝つことは無いので溜まっていくのだ。
そんなこんなでマイナス家計を母ケイコが上手くやり繰りをする。
基本的には私は姉のお古を着る。宿命だ。
スレて毛玉だらけのスカートが当たり前だったし、なんかのソース汚れの上着も普通だった。
まぁ、それ以上に私は汚しに汚したけど。笑
休みになると食事は一日1食だった。
学校があれば2食だがない日は1食だった。
ひもじいとも思わなかった。当たり前だったから。
遊んでいた同級生がお昼ご飯で家に帰るのがすごく謎だった。ずーっと遊べばいいのにね。
お腹が減れば、しいのみやグミの実、ツツジの花とかそれで凌げた。食べられる草や味のする花は子供ながらに詳しかったと思う。
それが私の中で当たり前だったから。
夏休みのプールの日の後とか究極にお腹が減る。そういう時はチートを使う。
ばぁちゃんちにいくとボンカレーのレトルトを食べさせてくれた。しかし、ここに住むおばちゃんにまたばぁちゃんに食べさせてもらって!って怒ってくるのが怖かったのでコソコソ食べたらすぐに逃げるように遊びに行くのだ。これは外孫の宿命だ。(笑)
なんとなくばあちゃんにはご飯が家に無いとは言ってはいけないのような気がしていたので言わなかった。
ちなみに平成の話をしている。
平成の話なのだ。
この時代には電話は子機がついているプッシュホンが主流で各家庭に車が1台あってあたりまえ。
そんな時代。
うちは車庫があるけど免許もないし車もない。
夏休み明けには旅行行っただのクラスの発表を聞く。
自分の番はとくにないのだもの。何も言えなかったら先生に「なにかあるでしょ?言いなさい。」と叱られたものだ。だってなにもないもん。笑
そもそも両親共働きで仲が悪かったから家族全員でお出かけした記憶はない。
姉が小さな頃は父よーじが神奈川出身ってことで里帰りついでにディズニーへ行った写真はみたことがあった。わたしもあるんだろうけど、この記憶が無い。相当小さい頃やったとおもう。
よく台所の椅子に座る母ケイコに「〇〇ちゃんちは家族でスキーに行ったんだって!」や「〇〇ちゃんは旅行でキーホルダーかってたんだって!」と言っていた。その度に言われるのが「よそはよそうちはうち。」といって見切りのお刺身とビールを飲むのだった。母の唯一の楽しみで至福のひとときだったと思う。
そんな家で私は生まれ育ったのだ。
改めていうが不幸だなんて思ってないし結構楽しかった。そんな話もこれからポツポツしていきたい。続けば。