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言い間違いじゃない

最近、二つの発見があった。

いずれも馬鹿な私の勘違いから生まれた発見であったが、
私の中では大きな学びだったので忘れないように書いておこうと思う。


それは『吉野天人』の舞台の映像を見ていたときのことだった。

謡本とあわせて見ていたら、ところどころワキの方の詞章が謡本に書いてあるそれと異なる。あれ、こんなこと書いていないのに話されているな、終わりのことばが違うなと思うところがいくつかあった。

阿呆な私は「まあこれだけ長い台詞を覚えるのだから、間違えられるのも当然であろう」と勝手に解釈した上で同情し、しかし、すごいなあ全然動揺なさらないのだからと感心さえしていた。


続いて最近『小鍛冶』の映像を見ていた時にも同じことがあった。

ワキの方の台詞が謡本と異なる。では、この方も……。でもしっかりアドリブで対処していらっしゃる! すばらしいと感動を覚えていた阿呆がここにいた。知らないとはこわいものである。


そして、先日のお稽古でのことだ。

『小鍛冶』の舞台映像の話をしていたら、先生がおっしゃった。

「ところで、ワキの方の台詞が謡本と少し違いませんでしたか?」

「はい! そうなんです!」

興奮して続きを話そうとしたら、先生がおっしゃった。そのあらましはこうだ。

私が習っているのは観世流というシテ方の流派だが、ワキ方にもいくつか流派が存在する。観世流は、もともと福王流というワキ方の流派が座付であったようである。だから、謡本の中のワキ方の詞章も福王流のそれにあわせた記載がしてあることが多い。ただ、現在では他のワキ方の流派と舞台をすることも多々ある。ワキ方の詞章は、それぞれの流派により少しずつ異なることがある。だから、私が持っている謡本と違う台詞が出てくるのも当然のことである。

ここまで聞いて、恥ずかしいやら自分の馬鹿らしさに呆れるやらで笑いが止まらなくなった。

「え! 私はてっきり……!!」と上に書いたようなことをお話ししたら、先生は「いえいえ、そうではないんですよ」と穏やかな笑みを浮かべていらっしゃった。

もともと、流派によりさまざまな違いがあるというのは聞いたことがあったが、「座付」という言葉やらワキ方の流派そして詞章にも違いがあるということは大きな発見だった。



次の発見は、お腹である。

少年少女合唱団と言われて久しい私の謡であるが、一向に上達の気配が見えない。そこで毎日のように映像を見たり録音を聞いたりしてはうんうんとうなっているのであるが、先日も舞台の映像を見ていたらあることに気がついた。

発声の際、お腹が動いているのだ! 装束の上からでも、お腹が上下に動いているのが見える。なるほどこれが発声のコツなのか! と思い、それからというもの練習するときには、どうにかしてお腹を動かしてやろうとあれこれやってみていた。そして翌週のお稽古時に、待ってましたとばかりに最近の発見は!と話し出した私である。

私の話が終わるのを待っていてくださった先生は笑みを湛えておっしゃった。

「通常そういう動きを舞台上でみせるのはあまりよくないと言われていますが、皆さんそれぞれ発声の仕方があるのかもしれませんね」

先生はその映像をご覧になっていないので、具体的にどういう動きなのかわかりませんがという前置きではあったが、例えば肩の上下運動やお腹の動きが見えてしまうのは本当はよくないと言われていますということである。これがコツか! と一人興奮して真似をしていた次第であったが、先生のお話の後、思わず無言でどこでもドアを閉めたくなった私であった。


「知らない」というのはこわいものなしである。

何も知らないからこそ聞けることもあるのかもしれない。そして、ああでもないこうでもないと自分で考え想像するのも楽しい時間である。今回のように大体間違っているのだけれど、そこから学ぶことは大きい。


というわけで、二つの発見の後は『小鍛冶』の呪文みたいな謡の解読に戻る。

今週も課題が山積みである。


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