見出し画像

コロナ禍と認知 その7:人と人はアジェンダのみで理解し合っているわけではない(らしい)

今年の春から私たちは職場と家族以外ではあまり直接人とコミュニケーションをとらなくなってきています。その代わり、ZOOMnなどの遠隔コミュニケーションツールを使って今までとわちがう人と人とのやりとりのあり方を模索している状況です。

 職場と家族以外でのコミュニケーションが遠隔コミュニケーション主体となったことで、まずは「つらい状況だ」と考える人と「とても楽だ」と考える人がいると思います。もちろんこれには「あなたはどっちの人?」みたいな2分化は適さないと思いますし、程度の問題もあります。ただ、より辛いと考えることとか、より楽だと考えることとかが何に基づいているものかと言うことについて思いを馳せることで、他者とのやり取りの中で人が何をつかみ取り、何を感じ、何に傷ついているのかということについて少し理解できるような気がします。

 私自身は、人と人とのやり取りが遠隔になったことで、明らかに「とても楽だ」と感じている人間の1人だと思います。感覚的に言って、直接声のトーンや、相手の表情の変化や、相手の熱量を感じるダイレクトなコミュニケーションは、私にとってかなり侵襲的なものです。例えば、「うん」という言葉1つにしても、直接近い距離で話している時にはどうしても「この『うん』は、これを攻撃しているのかそれとも擁護してるのか?」みたいな邪推をいちいちせざるを得ません。これは完全に1人相撲であることはわかっているのですが、それでも、物質的に場を共有しているときには、話している人の「他者性」について自然に切り分けることが難しいのです。同じ場所に近い距離でいて、そこで同じように呼吸をしているということそのものが、一部の人間にとっては耐えることが困難なほどの侵襲なのかもしれません。授業が教室ではなくネットで行われるようになって、今まで登校できてなかった生徒が、遠隔授業ではちゃんと授業に出るようになったという話を何度か聞いたことがあります。これはとてもよく理解できます。

 職場と家族以外における私の人と人とのコミュニケーションがZOOMに移ってから、私自身の人との関わり方は明らかに変わりました。まず初めに 話をする相手の範囲が大幅に広がりました。遠隔コミュニケーションを前提としていない場合は、話をする他者がどうしても「医療人クラスタ」かつ「都内の人」に限定されがちでした。今ではこの箍がほぼはずれています。私自身にアプローチしてくれる人も、医療とは全く関係がない人だったり、地理的な距離がものすごく離れていたりする人たちだったりします。他者とコミュニケーションを始めるのは少なからず心理的なハードルを伴います。そしてそのハードルは、職業の分野が異なったり、地理的に離れていたりすると自ずと高くなっていました。遠隔コミュニケーションへの変化は、これらのハードルを大きく下げてくれた恩恵だと思っています

 コミュニケーションが遠隔になったことでもう1つ変わったことは、他人と話すことがそれほど苦難ではなくなったということです。実は私は人と話す事が苦手なのです。これは私の人としての欠落なのではないかなと大学生くらいの頃からずっと思っていることです。だからこそ私は、コミュニケーションを研究したいと思ったのかもしれません。「人と話すことが苦手」という表現は正確でないでしょう。おそらく私を知る人の多くは、私を話上手だと認識していると思います。実際私は、話をする上で特定のアジェンダとどれぐらいの時間を話すのかということが設定されていれば、多分ものすごく話をするのが上手です。ところが、何を話してもいいからとりあえずおしゃべりをするということについては、信じられないくらいうまくやることができません。さらには、「だいたい5分」とか「だいたい2時間」のように、ほかの人と話をする時間の長さが予め設定されていないと、何を話していいかもわからなくなります。このような特性を持っている部分的に死ぬほど話ベタな私にとって、遠隔コミュニケーションはアドバンテージがとても大きななものに映りました。ですから、遠隔コミュニケーションになったことで、私は積極的にほかの人に対して「今度お話ししましょう」ということを気軽に言えるようになりました。「今度お話ししましょう」を人に言うのは、私にとってはとてもハードルの高いことだったのです。

 なぜ私は、アジェンダだとか、会話の時間だとかが設定されていないとうまくお話をすることができないのかということについてあまり人に説明をすることができませんでした。ただ、遠隔コミュニケーションを続けていることでなんとなくわかってきた気がします。おそらく私は、人と言葉を交わすことで、自分が大きなダメージを受けるかもしれないと常に恐れているのだと思います。話にアジェンダが存在しない場合、どうしてもその話の内容は「ことがら」についてではなく、「その人そのもの」について触れていく可能性が高まります。おそらく私はこれに恐怖しているのだと思います。時間についても同じことが言えます。これは例えば、息継ぎをせずに水に潜っているような状態と考えればいいのかもしれません。素潜りだったら何秒まで耐えられるとか、アクアラングをつけていれば何分まで耐えられるとか、そんな計算をしながら私は人と話しているのだと思います。遠隔コミュニケーションはこれらのことが明示的に設定されることを不自然としないので、わたしにとっては「とても楽だ」を感じる環境なのかも知れません。

 もう1つは、人と人とのやりとりの中で「殴られる心配がない」ということと「陰性感情ビームが届かない距離にいる」ということ、さらには「いつでも逃げ出すことができる」という環境が守られているということが、遠隔コミュニケーションが持つ安心感なのだと感じています。私はあるひとつの空間の中で他者と話し合っているとき、常に「突然殴られるのではないか」とか「自分の不用意な言葉で相手をめちゃくちゃ怒らせてしまうはないだろうか」というような恐怖を感じながら人と話しています。絶対に肉体的な暴力が届かない環境でコミュニケーションができるということは、わたしにとっては、より目の前の人に無無防備に踏み出して行くことができる環境であるといってよいでしょう。さらには、いつでもその部屋から退室することが出来ることで、「関係を断絶する」という大変暴力的な行為に言い訳をすることができるということも、わたしを安心させるポイントなのかもしれません。

 翻って、いつも不思議に思っていたことがありました。私は5人以上で行う宴会というものが甚だ苦手で、世の中に存在するあらゆる宴会については、あのな限り出席したくないと考える人間なのですが、宴会に出たときにいつもものすごく不思議に思うことがあります。宴会が終わって、みんなが店から外に出るのですが、なぜかその店の前でとりとめのないことをうだうだとしゃべり続けるという時間が15分後ぐらい続くということがとても良くあります。私にとってこの時間こそが耐え難いほどの苦痛で、なぜ2次会にさっさと行かないのか、とか、終わったんだから早く帰ろうよ、とかどうしても思ってしまうのですが、1次会が終わってお店の前でうだうだしている人たちの多くは、何かこれから別れることとか、次のステージに進んでいく上での余韻のようなものを味わっているようにも思います。おそらく私には、この余韻を味わうようなホモ・サピエンスとしての能力が欠如しているのでしょう。

 ここからはまとめに加えて自己否定みたいな感じの考察にしたいと思います。人は、生身で人と対峙するときに、アジェンダに向かっていくとか、情報のやりとりをするとか以外のことにより意味nを見出している場合があるということです。すなわち、ここでどのようなやり取りが行われたということよりは、やり取りが行われたということそのもの自体に意味を持たせている側面が必ずあるということだと思います。だからこそ、最初にタッチして行く時の恥じらいとか、会が終了してしまった後の余韻を分かち合ったりとか、そのようなことがむしろ人と人とのやりとりの中では大切なものなのだと思います。残念ながら私には人とのやりとりの中でそのような部分を幸せなものとして感じる力がとても弱いのだと思います。この余韻の部分を含めての「物事を知ること」や「メッセージを送ること」、さらには「認識や価値を共有すること」が、コミュニケーションの核の1つであることについて、今の私には逆説的に学ぶ部分なのだと感じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?