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愛情の二面性:「そそぐ愛」と「縛る愛」

 しばしば医療専門職という職種は「患者を愛すること」を義務のように架せられることがあります。そして、私自身も「患者を愛すること」がちゃんとできる専門家になりたいと思っています。しかし、「愛する」というのはなかなか皮肉な二面性を持っているといつも思います。

 私たち医療の専門家は、しばしばクライアントである患者に対して苛立ちを覚えます。では、専門家は、どんな時に依頼者に対して苛立ちを覚えるのでしょうか?たとえば、「あんたの声はキンキンしてうっとうしい」と言われたときに苛立ちを覚えるでしょうか?まあ覚えるかもしれませんが、「専門家として」は覚えないでしょう。「専門家として」苛立ちを覚えるときというのは明確です。それは、自分の発した専門的な推奨を患者が受け入れようとしないときです。

 たとえば、ものすごく血糖値が高い人がいて、そんな人を目の前にしたときに、医療者としては「このままではいられない」と思うと同時に、「何とかしなきゃ」と思うわけです。これは、専門家としての義務を果たそうとしている使命感からくるものかもしれません。そして、しばしば、患者思いの医療者ほどこのような気持ちになるようです。果たしてこれは「患者に対する愛」なのでしょうか?

 多少意地悪な意図を持ちながら、私はこれは「愛の一つ」と思っています。専門家にとって、「患者を愛すること」と「自分の思い通りに患者をコントロールすること」は切っても切れない関係にあるのです。そして、患者にとってみれば、専門家が専門家の思い通りに自分をコントロールしたいと考える欲求を「あなたに対する愛情」ととらえていることはたまったものではありません。

 ここで一般的に認識されている「愛すること」について考えてみます。「自分以外の誰かを愛すること」について、過去様々な哲学者や心理学者が考察し提言してきました。私は、「愛し合っている状態」と、「愛するという行為」は若干意味合いが異なると考えているのですが、「愛するという行為」は「自分の一部を他者に提供したいと考えること」と「他者の一部を自分のコントロール下に置きたいと考えること」の2点から成立していると考えています。前者が「I Love You」であり、後者が「I Need You」に近いニュアンスです。あるいは、前者は「あなたと一緒にいると幸せ」という気持ちの表象であり、後者は「あなたがいないととても辛い」という気持ちの表象といってもいいかもしれません。以後、前者を「そそぐ愛」と呼び、後者を「縛る愛」と呼びます。

 こう考えると、「他者に愛情を向ける」という行為は、結構侵襲的な行為です。「そそぐ愛」においては、愛する人間がその対象者にそそぐ「贈り物」が、当事者にとって喜ばしいものならいいのですが、もし不快なものであれば、それらを提供し続けられることは結構うっとおしい状況といえます。しかしながら、「そそぐ愛」はうっとおしさ以上の心地よさもあるかもしれません。「心地よさをそそぎあう」ような状況が持続するなら、(あまり人間的ではないかもしれませんが)そこには幸せな関係性ができているのかもしれません。

 より侵襲的なのは「縛る愛」です。これは、愛情を向ける対象に対する「あなたは私のもの」的な気持ちを表しています。具体的には、「常に見張っていたい」「常に自分を気に留めていてほしい」「自分色に染めたい」「自分の意図の通りに相手が考えたり行動したりしてほしい」という気持ちです。「あなたは私のもの」といわれて幸せな気持ちを得る人は少なからずいるかもしれませんが、少なくとも私は私に愛情を向けてくれる人がいたとして、その人が私に対して「常に見張っていたい」「常に自分を気に留めていてほしい」「自分色に染めたい」「自分の意図の通りに相手が考えたり行動したりしてほしい」という気持ちを感じ取った時点で引いてしまいます。それは、恋人のみならず、配偶者や肉親であっても同じです。私は、このような気持ちを「愛情の副作用」とすら考えています。

 皮肉なことに、強く他者を愛するとき、人間は「そそぐ愛」と「縛る愛」を切り分けて自己管理できないようです。「そそぐ愛」が強ければ、そこに比例して「縛る愛」の度合いも強くなる傾向にあります。若い愛し合う二人の破たんは「昨日どこに行っていたの?」という詮索から始まることが多いような気がします。

 そして、なんといっても興味深いことは、たとえ愛が侵襲的であったとしても人は愛することをやめることができないし、愛されることで自分の存在を確かめているし、そして、愛し合っている状態をもってもっとも大きな幸せを感じるという生き物だということです。

 だからこそ、「愛のかたちはこのままでいいじゃない」という意見はもっともだと思います。しかしながら、私はいろいろなことをいちいち功利的に考えてしまう癖があります。私が思うのは、「そそぐ愛」と「縛る愛」を分離させる方法はないのだろうか、ということです。

 異論はたくさんあるかもしれませんが、「そそぐ愛」は多い方がいいし、「縛る愛」は小さい方がいいと私は思っています。「この人を自分の意図通りに考え、行動するようにコントロールしたい」という気持ちは、愛情なのかもしれませんが、人の自由を束縛する極めて強い感情です。そして、この感情はしばしば陰性感情、すなわち「悲しみ」とか「怒り」を生み出します。さらに、「悲しみ」「怒り」は人を傷つけていきます。これは切ないです。

 「縛る愛」から自由になり、ただただ「そそぐ愛」で愛情が満たされるような愛情の在り方で世界が満たされると、この世から戦争がなくなるのではないかと思っています。ということで、まずは自分から、人を愛するときに、自分の中から「縛る愛」をどれだけ排除しながら「そそぐ愛」にコミットできるだろうかと考えながら毎日を生きています。ここ7-8年くらい意識してやっていたら、ようやくここ1-2年なんとなくできるようになってきた気がします。すぐに誰かれなく「愛してる」といってしまうところがダメなところではあります。

 「そそぐ愛」と「縛る愛」を「ある程度」独立させて、「そそぐ愛」を強く、「縛る愛」をなるべく弱くしていくような方法として、最近考えているのは、「人は誰でも一人で生まれて、一人で死んでいく」ということを意識するということです。これは、「饗宴」でのプラトニック・ラヴを根底から否定する考え方です。でも、「運命の二人が出会う」というのは、ロマンチックではありますがしんどいです。たまたまであって、たまたま愛し合ったけれども、ブルゾンちえみが言うように、世界には30億以上の異性がいるし、同性も含めれば60億以上いるわけですから、きっと二人が出会ったのは「たまたま」なのだと思ってみるのもいいのではないでしょうか?二人が出会ったことが「運命」ではなく「たまたま」だった時に、もし相手に対する愛情が薄れるのだとしているのだとしたら、それはひょっとしたらその相方を「無理やり」愛している部分があるかもしれません。私は、今の奥さんとはきっと死ぬまで添い遂げる気がしていますが、同時に彼女と出会ったのも「たまたま」で、地球のどこかにはさらに自分とマッチする人が複数存在するかもしれないとも思っています。そして、そんなこともどうでもいいことなんです。なぜなら、今のわたしは彼女と愛し合っていることで幸せを感じているからです。「運命」を意識することは、自らの自由を束縛することでもあるかもしれません。そして、自由な状態で愛し合うことができれば、その愛情は長続きするにせよ終わるにせよ自分にとって最高のものであると感じることができる気がします。

 最後に一般論から専門職がクライアントに向ける愛に戻ります。専門家がクライアント一人一人を愛しているのかと問われたら、少なくとも自分は「80%ノーで20%イエス」と答えています。専門家がクライアントに対して発する愛情の多くは「そそぐ愛」ではなく「縛る愛」だと思っています。そして、最初のステートメントと矛盾しますが、わたしは「縛る愛」は「愛情」としてカウントしないようにしようと考えています。専門家は、自分の専門家としての価値観に対する忠誠心を強く持っています。その忠誠心に従い、相手をコントロールしたいと考えることが「患者のことを思うこと」だとしたら、それはとても侵襲的な考え方だと思います。ただ、専門家はその規範から自由になることは大変困難です。せめて自分ができることは、「患者をコントロールしたい欲求」から自分をできる限り解き放った状態を作りながらも、専門家として自らの専門家としての規範を背負いながら誠実に推奨する、という矛盾した行為をどうやってちゃんと実践できるか、ということについて考え続けることなのだと思っています。

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