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思索:視覚化瞑想訓練より。恐怖との関係性

Adjustment の視覚化瞑想訓練について、言葉に起こしてまとめてみます。

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フールに学びをお願いする時、「今日の自分をタロットの霊に捧げる生き方について教えてください」と言った。

メイガス(師)にもこのことを話すと「あなたはそういう生き方ができると思いますか」と問われた。私はできると思いますと答えた。
自分を思うと不可能なのだけど、そう答えられたのは、そのように生きる力も自力によるものでないからだと後で気づいた。答えるという行為すらも同様ではないか。

Adjustmentでは自分の場合、マアトと向かい合い、マアトの子のように同じ姿勢を取る。小さな剣も誂えていただく。仮面はなく、目をつぶる。
まず内部に集中すること。
今日は剣の感触がリアルに感じられた。三日月のツバのところなど。
マアトより、最初の問いかけ(捧げる生き方)に対して、立ちはだかっていることは何かと聞かれた。
恐怖があること。何かしら迫ってくる。日常のいろんなこと、期限や予定などにプレッシャーを感じると話した。
振り返り、こんな風に感じていたんだと改めて思う。これらは恐怖だったんだ。究極的には、生に期限があること(死)への恐怖が隠されてると感じた。

「爪先立ちで立ちなさい」と示され、立ってみると、不思議と恐怖というか圧迫していた感覚が消えた。
なぜだろう。爪先立ちという一点で立つということと、ある何かが一本の軸のようになる感じがした。
大地の剣を突き立てている、その剣の力もある。それがあるから立てている。
確信できるまで学ぶこと(師の精神が乗り移るほど)、学んでいる場を完全に信頼することが、力となり支えとなることだと思った。"自分"が出てこないほど学びと信頼につかまる。今日剣の感触がリアルだったのは、この支えが間違いなくあると確信できるほどに学び、信頼のうちにありなさいということ。

そのうち両肩に羽根があるのが感じられた。
タロット実存共同体 / 生命共同体 その世界を主にして生きること。この現実ではなく。それは爪先立ちで立つことから始まっている気がした。

上からチェーンが降りてきて肩を通り、次に天秤が降りてきて、ガタン、とはまった。チェーン、天秤、自分が一つの身体のようになった。これまでの一連の所作があって、ここに至る気がした。順を追うこと、どれも省けない。ぜんぶ揃ってタロットの霊の力が働き、人類の一部である自分に注がれる。
そこで初めて、この世でない時間のある世界に生きることが始まるのかもしれない。

「あなたの内側を見つめなさい」
黒い円が見えた。Disks 5のアーカーシャみたいだった。
これを軸に生きていたんだな。これを中心として、いつもこれありきでいたんだと思った。
黒い円は恐怖のようにも、穴のようにも、アビスのようにも感じられた。
そこを通ってエネルギー…注意や集中力が、吹き抜けて出ていってしまうように思った。

「恐怖や心配はあなたとどういう関係ですか」
「あなたではないですか?別ですか?」

私には別のものに感じられた。でも自分の中心にあったということはエゴと結びついている。「私」がこれらを遠ざけようとすること自体が、個人的な動きになる。
どこまでも「私」を主体として生きるなら黒い円が象徴する恐怖・穴は消えない。恐怖も心配もずっと悩みとなる… まさにDisks 5のよう。
そこに光の球体を思い浮かべ内側の光を感じると、黒い穴のような円を埋めるようにすっぽりと収まり光を放っていた。
最初に問いかけた「タロットの霊に自分を捧げる」とは、個人的な感情やあらゆる思考、恐怖や心配から旅立ち、この内的な光を新しい自分の現実として生きることなのではと思った。

言葉がきれいごとに映るのは、私自身がこのことを本当には体験・理解していないからだと思う。旅立ちとは言っても自力ではできない、でも苦手な感情からはどうしても逃げようとする、自力に頼る。
旅立つというより、そういう見当はずれな自分のぜんぶごと突入することが捧げることなんだ。

恐怖も心配も過去から生まれた古い意識だ。その意識が私を作っている。
「私」という意識は消えたくないから、私は恐怖を感じていたのだろうか。
終わりのある世界で必死にとどまろうとする意識が、私の中心なのだろうか。

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私は本当は個人ではなく、人類という意識の一部である。
光の球体が表す世界を本当に信頼でき、そこにいると何物も決して侵入できないことが実感できる。
今歩いている道は、必ず辿り着く道である。

この3つは、現在対峙しているテーマですが、
これらにぶち当たるところにいません。距離があります。
今回の視覚化訓練も、黒い穴と自分との関係が曖昧な感じ、遠いです。

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