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「がんばれ!」の使い方あれこれ

週末の朝、公園の一角で2チームに分かれてリレーをする小学生とその指導にあたっている大人のグループを見る。そこはうちの犬の縄張りで、たいていその辺りをウロウロしているものだから、コーナーに立つ男性が「曲がったところにワンちゃんいるから気を付けて!」と言ってくれるのが嬉しい。公園は人間だけのものではないのだ。子どもたちは息を切らしながら手を挙げて応え、そして「がんばれ!」の声援にさらにギアをあげる。

最近、この「がんばれ」という言葉についてよく考える。「頑張る」は困難に耐え、努力してやり通す。自分の意志や考えを通そうとする、という意味らしい。「がんばれ」という命令形は誰かを応援する代表的な言葉である。ところがこの「がんばれ」、いつも喜ばれるというわけではない。

我が家の娘は受験生だというのにすぐにYoutubeの誘惑に負ける。やればできるのになぜやらないのかと苛立ち、つい「もっとがんばれ」と叱咤する。私は心底応援しているのだが、応援された娘は「がんばってるよ!」と逆上。リレーをしている小学生のように素直にギアをあげてはくれないのだ。

かくいう私も慣れない育児に奮闘していた頃、姑に「頑張りすぎるな」と言われ不愉快に感じたことがあった。育児ノイローゼを経験したことのある先輩として私を気遣ってくれたのだろう。姑の親切心はわかるが、やりたいことを制止されることも過小評価されることも気に食わなかった。私の何を知っているのか、と。

そうなのだ。「がんばれ」は他人のがんばりを操作する言葉ではない。がんばりの基準は人それぞれ。がんばれているかいないかは本人にしかわからないものである。

この上なく上等の「がんばれ」が使えたのは忘れもしない大学を卒業したばかりの頃。両親が離婚した幼馴染をカフェに呼び出し励まそうとしたが、日が暮れるまで本題に入れなかった。そんな私の思いを伝えてくれたのが、夕日を背に別れ際に放った彼女への精一杯の一言「がんばれ」だった。互いにうんうんと頷いて、ぽろりと涙をこぼし、ふふふと笑って別れた。

「がんばれ」には特定の意味はないのかもしれない。それは相手を思う心そのもの。様々な「応援しているよ」の気持ちを的確に相手に届けてくれる日本人らしい美しく便利な言葉。時には言葉にしない「がんばれ」が相手を思いやる。特にいきんでいる犬への「がんばれ」はやめておいた方がいい。出る物も出なくなってしまうから。(1000字)

犬と歩けば_3


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