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数秒先に起こす未来のシナリオを書いて「今」を動かす

「ねえ、お母さん、聞いて」

この数か月で何度娘からこう言われただろう。
この言葉を聞くと頭に父の顔が浮かぶ。父はカッとなると人の話を聞かなかった。私はそういう父が嫌いだった。


小学5年生の時、私は自分に誓った。
「子どもの話がちゃんと聞ける親になろう」と。

恋愛もしたことがない、結婚も考えたことがないまだランドセルを背負う子どもの私がそう誓った。「そんな10年も20年も先のこと、覚えていられるわけがないじゃない!」というもう一人の自分の声に負けないよう、薪の上に寝て苦い肝を舐めるかのごとく子ども時代を過ごしていた。

親になった時、ようやくあの日の誓いを実践するスタートラインに立てたことを嬉しく思った。我ながらすごい執念である。

子どもと討論になるような時は、決まって「小5の私」が上から覗きこむ。私は耳を子どもに傾けつつ、意識の半分は上に向ける。「ほらほら、私は子どもの話が聞ける親をしているよ。私は父さんとは違うんだから」と。こうして皮肉にも父のおかげで、私は子どもたちとよい関係を築いてきた。

それがどうしたことだろう。
このところ末っ子と話すとき、私は彼女の話を遮ってしまっているようだ。


「ねえ、お母さん、だから聞いて!」

娘は顔を赤くして頬を膨らませる。初めてそう言われた時は気づかなかった。2回目に聞いた時にハッとした。いつも頭の上に現れていた「小5の私」がいなくなっているではないか。この1年、コロナ禍の家族としか話す機会のない生活が、長年に渡り気張っていた私の緊張を緩めてしまったのだ。

久しぶりに父の顔を思い出した。普段は気が小さく、腫れぼったい目を細めてへらへら笑っている父が、時々家族にだけは、発作のように爆発する時があった。腫れぼったい瞼の目尻がぎゅっと上がり、厚い唇が不均衡につり上がる顔はまさに般若そのものだった。今でも父の頬にできたしわの深さまで思い出せる。

父は幼い頃から吃音がある。それで外で萎縮してしまうのか、家の中ではいつもお殿様だった。父の内と外のギャップが見えるようになった頃からだと思う。私は意識的に外に出て、人と交わり、父とは似ていない自分を作り上げようとしていた。


娘とはこの1年、頻繁に進路の話をしている。まず、娘がのんびりしすぎていることが気に入らない。それに、普段は底抜けに明るいのに、なぜか定期的に後ろ向きになることに苛立ちを覚える。一歩進めば一歩下がる。まるで進歩がないのだ。「明日からがんばる!」が口癖の娘に、その明日が来たことはない。

「何回おんなじこと言ってるの!」

だからつい、声を荒げてしまうことになる。娘の言葉を遮ってしまう。だって、同じセリフを聞きたくないのだ。娘に前を向かせたい。娘のやる気スイッチを押したい。パンパンに膨らんだそんな思いが張り裂けて、私の思考の門を突き破ってしまうのだ。

そういえば、父と私は何を話していて、父は私の何の話を聞かなかったのだろう?もう遠い昔のことすぎて何も思い出せない。「絶対に忘れない」と歯を食いしばった奥歯の痛みと悔しさだけが、何十年も私の心に住み続けている。

父も私のためを思って熱くなっていたのだろうか。私はそんな父の気持ちが理解できなかったのだろうか。



「私はお母さんとけんかしたくないの!」

声を荒げた私の顔を見て、娘はくるりと背を向け、大きく肩で息をする。そしてガタンガタンと音を立てて部屋を出て行く。その背中を見届け、私はほっと胸をなでおろすのだ。また娘に救われた、と。


娘はしばらくして「そうそう」と言いながら部屋に戻ってくる。まるで、ページをめくると、時間も場所も変わって次の章が始まるように。

私は小5で父にそっぽを向き、そっぽを向いたまま実家を離れ、そして結婚した。こんなに長いことそっぽを向くことになるとは思っていなかった。最初は軽い気持ちだったのだ。それが止めるタイミングを逃し続け、いつの間にか父を正面から見れなくなってしまった。以来、私と父のシナリオは、めくってもめくっても白紙。いつまでも新しい章は始まらず、ただむなしく年を重ねていくばかりだ。信念を貫く意志の強い人間なんだと自分を正当化しながらも、本当は現実から逃げている弱い人間であることに気づいている。


娘はそんな私とは違う。娘は「今」に行き詰った時、いったん幕を下ろし舞台袖にはける。誰もいない部屋で声を殺して泣き、クッションをボコボコに殴り、ふうううっと体中の怒りを吐き出す。そして、全く違うセッティングで再び登場する。自分で自分のシナリオを書いているのだ。唐突に始まる第2章だって、読者は過去や未来を自由に行き来できる思考で追いかけることができる。どんな「今」であろうと、過去と未来に繋がっているのだ。過去はすでに過ぎ去り、未来は不確か。唯一現実に存在し、自分の意志で動かすことができるのは「今」しかない。

娘にはそれがわかっている。だから、数秒先に起こす未来のシナリオを書いて「今」を動かす。場面設定と大まかなあらすじだけを書き、あとは登場人物に、それぞれの思考の海で自由に演出させる。


この春から娘は受験生。
娘と揉めている場合ではない。娘の背中を押し、一緒に闘いたい。そのためにも、娘の話に耳を傾け、共に歩んでいけるようになりたい。

だから、私はここに誓う。自分の人生のシナリオを書く。娘と対話できなくなりそうな時は一度、舞台袖にはける。そして、大きく深呼吸し、ふつふつと沸き上がる私の中を流れる父の血を沈め、数秒先に起こす未来のシナリオを書く。新たな設定で次の章を始める。自分に都合よく仕切り直すのだ。心配しなくたって思考は後からついてくる。

そしてもう一つ。私がしなければならないこと。それは、父とのシナリオに次の章を書き込むこと。

今、私と父は、「子どもたちの母」、「子どもたちのおじいちゃん」という関係で繋がっている。何となくではあるが親子をしている。だが、私が父の子であり、父が私の父であった日々の楽しかった章は、白紙ページが多すぎて遡ることができない。私は父の人生に大変な空白を作ってしまったのだ。いや、空白ではない。父からすれば、毎日がどしゃぶりのようなストーリーが展開されていただろう。父はすでに80歳を超えている。長すぎた白紙を埋めることはできないけれど、これから新たな話をテンポよく、たくさん追加していかなければならない。


私は長いこと思考の海の中を潜りすぎていた。忍耐力はついただろう。でもずっと息苦しかった。思考の海には出口がない。「たられば」の海だ。そこにいれば、自己嫌悪に苛まれることはあっても、実際に誰かに傷つけられることはない。現実から逃避できる場所だ。でも、それじゃ物語は止まったままで誰にも読まれないよ、って娘が教えてくれたような気がする。


この春から始めたいのは、思考の海の中を潜ってばかりいないで、ちょくちょく顔を出して、違う景色に飛び込むこと。ダイブするたびにできる波紋は、周囲の誰かにあたり、違う波紋を生む。ダイブすればするほど人と触れ合い新たな刺激が生まれる。長年淀んでいた水も浄化されるだろう。展開が気になって夢中でページをめくってしまうような、そんな人生のシナリオを書いていきたい。


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子どもに教えられたこと

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