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ゴマをすってみたら、プロポーズ級だった「スキ」が軽くなった

10年ぶりくらいにゴマをすった。

あ、立てた拳で反対の手のひらをぐるぐるする方ではなく、本当の胡麻を摺った、ってこと。親戚のおばさんが花嫁道具にと持たせてくれたすり鉢とすりこぎは、時には海を越え、私たち家族の何十回という引っ越しのお供をしてくれたが、今もなお割れることなく健在している。

もしかしたら、10年どころではないのかも。なぜなら使った記憶がない。だとしたら20年?いや、結婚前に胡麻を摺った記憶もない。まさかとは思うが、生涯初めての経験だったのかもしれない。

普段、胡麻を使わないわけではなく、すでに摺られている市販の「すりごま」を使っている。そう、わざわざ摺る必要がないのだ。節分の日に、思い付きで黒柴の巻きずしを作ろうとし、急遽、摺った黒胡麻が必要となり、10年ぶり、いや生涯初めてだったかもしれないゴマすり体験をした。

胡麻を摺ってびっくりした。
これが非常に快感なのだ。すりこぎの上部を全ての指で握り、手首で円を描く。すると、すりこぎがすり鉢の内側の溝にすれて「ゴリゴリ」と軽快な音をたてる。すりこぎが描く円上にいた胡麻たちは次々にプチッパチッと潰されていく。一粒ひとつぶの胡麻たちがプチンパチンと楽しそうに弾けるのだ。まるで、風の強い夏の海で、水平線に平行に並んだ子どもたちが、腰の辺りまで水に浸かりながら、何度も何度も背中に大波を受けては大笑いしている、そんな感じに。とにかく見ていて楽しい。それに、プチンパチンと弾ける振動がすりこぎを通して手にも伝わる。これは、気泡緩衝材のプチプチと同じ原理ではないだろうか。胡麻粒が弾ける度にストレスを発散できているような気がするのである。

なぜこの快感が、お世辞を言ったり、機嫌をとったりするという意味として使われるのだろう?もしかしたら、時代の流れに伴って意味が転じたのかもしれないな。私はすごい発見をしたかもしれないぞ、と、いったんすりこぎを置き、脇に置いていたスマホで調べてみた。

がっかりだ。
いくつものサイトを見てみたが、不快な意味しかないようだった。摺った胡麻が四方にべったりくっ付く様子が「機嫌取り」になったという解説しか見つからなかった。確かに、摺り終わった後、粉々になった胡麻は、中から出てきた水分や油分によりしっとりし、すり鉢の溝にぴったりくっついて取れなかった。なるほど、あれほどの快感を与えておきながら、ここまで陥れるようなことをするから、悪い意味で使われるようになってしまったのだろう、と勝手な解釈で納得した。

そもそも、私はゴマすり行為をするのもされるもの苦手だ。軽い気持ちで人を褒めることができない。「下心があると思われないだろうか」と思ったり、単純に嫉妬だったり、もともと苦手な人だから褒めたくなかったり、など、褒める行為の前に複雑な感情が浮かぶのであろう。自分でもよくわからないが。

同様に、自分に対しても厳しいと思う。我が子には「結果ではなく、過程が大事」と言いながら、本当は成果主義だったりする。結果が全てに思えてしまうのだ。そうなると、私は「なんとつまらない人間なんだ。何をやっても中途半端だ」と自己肯定感が低くなる。

人との付き合いもそう。私の放った褒め言葉をそのままの形で受け止めてくれると思える人としか繋がれない。向けられたうそっぽい褒め言葉は失礼のないように流す。この生き方はずっと正しいと思っていた。これが私の生き方で、これが私なんだと信じていた。たとえ少しであっても、気の置けない友達がいる限り、私は幸せであることには間違いはなかった。

ところが、最近、「私は本当にこれでよいのか?」といううっすらとした自問が聞こえるようになっていた。楽しむつもりで始めたSNSだが、「いいね」が簡単には押せないのだ。私にとっては、自分の好意を伝える簡単な1タップが、まるでプロポーズをするくらいのエネルギーを要する。

当然、自分の好意を伝えないので、SNS上の繋がりは広がらない。SNSを使用することによって、今までの私の生き方が可視化されたようで、結構堪えている私がいることに、最近気づき始めている。

思えば、これまで生きづらかったと思う。あまり自覚はしてこなかったが。もっと素直に生きられたらどんなに楽しいだろう、と思うこともあったと思うが、それでもゴマすりを容認はできないと、正義を貫いている自分を強い人間だと思ってきたところがある。

なんだろう、この解放感
胡麻を摺った後、妙に心が軽くなった。すり鉢の溝にはまり込んだ胡麻をきれいにとることはできなかったけれど、「ま、いっか」と思い、そのまますり鉢を流しに置いて蛇口をひねった。だって、充分楽しませてもらったから。しかも、摺れば摺るほどふわっと香ばしい胡麻の香りが広がって、優しい気持ちにもなれたし。なんと、隣の部屋で寝ていた愛犬が、鼻を突きあげ、クンクンしながら台所にやってきた。君にもわかるんだね、このいい香りが。

私は今まで、何を頑なに守ってきたのだろう。何に縛られていたのだろう。
ゴマをする行為は好きにはなれないし、すべきではないと思う。自分の「スキ」という感情を大切に扱いたいという思いは変わらない。けれど、「いいな」と思った瞬間の私の感情は、紛れもなくピュアな「スキ」に違いない。すりこぎで潰された一粒の胡麻だ。愛おしい一粒だ。「スキ」と言えば喜んで弾けるかわいいヤツだ。

私は、物事を常に完成形で見ようとしていたのだろうか。
全てのモノを分解していくと、小さな原子に辿り着く。その原子もさらに3つの素粒子からできているという。それらがないと、モノは形を形成しない。分解された一粒の中に光って見えるものを見つけたら、それは「スキ」でいいのだろう。いやいや、これが何になるのか、どう形成されるのか最後まで見なければまだわからないって、せっかくの「スキ」をしまい込む必要などなかったのではなかろうか。その一瞬に見えた輝きに対して、素直な感情を外に出せばよかったのだろう。私という完成系は、大したことのないつまらないモノかもしれないが、中の一つひとつを見れば、いい所もある。私だってSNSで発信することで、そこを見てほしいと願っているではないか。

胡麻摺り体験が、私に思わぬ気づきを与えてくれたようだ。
「スキ」という感情を閉じ込める必要など、どこにもなかった。私の胡麻粒ごときの小さな「スキ」を放ったところで、求婚や不倫じゃあるまいし、責任など負う必要などないのだから。

Noteを始めたことをきっかけに、封印していた小さな「スキ」の感情を解放してあげよう。私は何に感動したのか、どこにときめいたのか。その都度、私の「スキ」を放出すればきっと何かに響き、そしてnoteという街の中に、甘い香りの漂う居心地の良い空間を作ることができるだろう。

そうだね。モノで溢れたこの世の中はたくさんの胡麻粒を見ているようなもの。その中でヒットする粒に巡り合うこと自体、幸運なことだ。今まで、なんと多くの幸運を逃してしまったことか。悔やんでならない。


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